The 25th memorial of Herbert von Karajan
カラヤン年表
作成:柴田克彦
1908 | 4月5日、父エルンスト・フォン・カラヤン、母マルタの次男として、オーストリアのザルツブルクに生まれる。 幼い頃から兄のレッスンを真似てピアノを弾き始め、両親は3歳のときに彼が絶対音感をもっていることに気付く。 |
1912 | レトヴィンカ教授から本格的なピアノのレッスンを受け始める。 4歳半のとき、レストランでの慈善団体主催のコンサートでモーツァルトのロンドを演奏し、神童として話題を呼ぶ。 |
1916 | ザルツブルクのモーツァルテウム音楽院に入学し、パウムガルトナーに作曲法と室内楽、ザウアーに和声学、レトヴィンカにピアノを師事。パウムガルトナーは、カラヤンの指揮者としての才能を認め、諸芸術・文化への見聞を広めるよう助言。人生最大の恩師となった(〜1926)。 |
1917 | モーツァルテウム音楽院で初の公開演奏=ピアノ・リサイタルを行う。 |
1926 | ウィーン工科大学に入学(後に退学)。併せてウィーン音楽アカデミーでホフマン教授にピアノを学ぶ。 ホフマンの勧めで同アカデミーの指揮科に正式入学し、ヴンデラー教授に師事。 |
1928 | 指揮クラスの発表会で、アカデミーのオーケストラを指揮し、ロッシーニ《ウィリアム・テル》序曲を演奏。 学生期間中は、ウィーン国立歌劇場へ毎日のように通う。 |
1929 |
1月22日、ザルツブルクでモーツァルテウム管弦楽団を指揮し、指揮者としての公的デビューを飾る(R.シュトラウス《ドン・ファン》、モーツァルトのピアノ協奏曲第23番、チャイコフスキーの交響曲第5番)。 |
1931 | トスカニーニ指揮による《タンホイザー》を聴くため、ザルツブルクからバイロイトまで自転車(バイクとの説もある)で出かける。 |
1933 | ザルツブルク音楽祭に初出演。 |
1934 | アーヘン市立歌劇場の指揮者オーディションを受け、1年間試験採用される。 ザルツブルクでウィーン・フィルを初めて指揮(ドビュッシー、ラヴェル等)。 |
1935 | アーヘン市の音楽総監督に就任。ドイツで最も若い総監督となる(~1941)。 |
1937 | ウィーン国立歌劇場にデビュー(ワーグナー《トリスタンとイゾルデ》)。 |
1938 |
ベルリン・フィルを初めて指揮(ブラームスの交響曲第4番他)。 |
1939 | ベルリン・フィルと初の交響曲レコーディングを行う(通算7回の正規録音を行ったチャイコフスキー《悲愴》交響曲)。 |
1940 | ユダヤ系のアニータ・ギュンターマンと結婚(58年に離婚)。 |
1945 | 第2次大戦終結後、ナチスとの関係からドイツ、オーストリアでの指揮活動を禁止される。 |
1946 | ウィーン・フィルを指揮し、戦後初めて演奏会に出演(正式解除は1947)。 |
1947 | EMIのプロデューサー、ウォルター・レッグからの契約申し込みを受諾。1960年までの間に、イギリスのフィルハーモニア管と数多くのレコーディングを行う。 |
1948 | ウィーン楽友協会の芸術監督、ウィーン交響楽団の指揮者として活動開始。 ミラノ・スカラ座のドイツ・オペラ部門の総監督に就任。 |
1950 | 初のオペラ全曲録音を行う(ウィーン・フィル他との《フィガロの結婚》)。 |
1951 | バイロイト音楽祭で初めて指揮するが、翌年音楽祭の主宰者ヴィーラント・ワーグナーと対立し、2度と戻らず。 |
1953 | 戦後初めてベルリン・フィルを指揮。 |
1954 | 単身来日し、NHK交響楽団を指揮(《悲愴》交響曲のライヴ録音が現存)。 |
1955 | ベルリン・フィルを率いて北米ツアーを行い、大成功を収める。 これにより、フルトヴェングラーの後継者として芸術監督および常任指揮者に任命される。 ベルリン・フィルとは、以後34年に亘って膨大な公演と録音を行い、一時代を築いた。 |
1956 | ザルツブルク音楽祭の芸術総監督に就任(~1960)。 ウィーン国立歌劇場の芸術監督に就任(~1964)。 |
1957 | ベルリン・フィルとの初の日本ツアーを行い、全国で15回公演。 |
1958 | フランス人モデル、エリエッテ・ムレーと結婚。 |
1959 | ウィーン・フィルとの世界ツアーを行い、日本でも10回公演。 |
1960 | 長女イザベル誕生。 完全な形では初の映像作品、R.シュトラウス《ばらの騎士》を、ザルツブルク音楽祭にて収録。 |
1962 | 前年から同年にかけて、ベートーヴェンの交響曲全集の最初のステレオ録音を完成。 |
1964 | 次女アラベラ誕生。 オーストリア当局と対立し、ウィーン国立歌劇場のポストを辞任。 |
1965 | 映画フィルム・プロダクション「コスモテル」を設立。 |
1966 | ベルリン・フィルとの2度目の日本ツアーを行い、東京ではベートーヴェンの全交響曲を演奏。 |
1967 | 自らの芸術的理想を実現するため、ザルツブルク復活祭音楽祭を創設し、芸術監督に就任。 ベルリンにヘルベルト・フォン・カラヤン財団を設立。 |
1969 | パリ管弦楽団の芸術監督に就任(~1971)。 カラヤン財団主催第1回国際指揮者コンクールを開催(第1位オッコ・カム)。 |
1970 | ベルリン・フィルとの3度目の日本ツアーを行い、大阪(万国博の記念公演)ではベートーヴェンの全交響曲を演奏。 |
1972 | ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭を創設(翌年初回開催)。 優れたオーケストラ奏者を養成するためのオーケストラ・アカデミーを創設。 |
1973 | ベルリン・フィルとの4度目の日本ツアーを行う。 |
1975 | 最初の椎間板の手術を受ける。 |
1977 | 13年ぶりにウィーン国立歌劇場へ復帰。 ベルリン・フィルとの5度目の日本ツアーを行い、東京では普門館の使用が賛否を呼ぶ。 |
1978 | 脳卒中で指揮台から落下。 |
1979 | 指揮活動50周年の祝典が行われる。 ベルリン・フィルとの6度目の日本ツアー行い、普門館で9回公演。 |
1980 | 最初のデジタル録音(ワーグナー《パルジファル》、モーツァルト《魔笛》)を完成。 |
1981 | ベルリン・フィルとの7度目の日本ツアーを行う。 |
1982 | 女性クラリネット奏者ザビーネ・マイヤーをベルリン・フィルの楽員として強硬に採用。楽団と亀裂が生じる。 |
1983 | ウィーン・フィルとの関係を深め、同楽団の名誉指揮者に選ばれる(公表は1988)。 |
1984 | ベルリン・フィルとの8度目の日本ツアーを行う。 |
1986 | 病に倒れ、ベルリン・フィルとのアメリカ&日本ツアーをキャンセル。日本での代役を小澤征爾が務める。 |
1987 | ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートを初めて指揮。ソリストにキャスリーン・バトルを迎える。 |
1988 | ベルリン・フィルとの9度目にして最後の日本ツアーを行う(3公演がCD化)。 |
1989 |
3月27日、ベルリン・フィルとの最後の演奏会(ヴェルディ《レクイエム》)。 |