BIOGRAPHY
『バック・ザ・ワールド』ストーリー
ヒップホップがメイン・ストリームとなったいま、それは同時にヒップホップ・アーティストにとって厳しい時代になったことを意味する。”リアルであること”をベースにしたそのスキル+ライムがリリカルであるだけでは不十分になったということだ。ルックス、その動作、そして”スターに成りきる”という
“全体のパッケージ”=総合力が問われようとしているのだ。オンナのコにはモテ、オトコには憧れの的でなければならない。オーラ、エネルギー、たたずまい、そして才能、全てを持ち合わせ、完璧なパッケージが出来上がってはじめて現代に相応しいラップ・スターが誕生するというワケだ。G-ユニット・メンバー中、唯一のサウス=テネシー出身の若獅子=ヤング・バック、彼こそがまさにヒップホップ・シーンの「それ」なのである。
デビュー・アルバム『ストレート・アウタ・キャッシュヴィル』をリリースしてからの2年間も、テネシーの若獅子は多くのゲストやミックステープ(ミックスCD)にフィーチャリングされるなどラップ・シーンに欠かせない存在であり続けた。そんな彼の”帰還”への期待がますます高まるなか、それに相応しいタイトルがついたファンが想像する期待以上のセカンド・アルバム『バック・ザ・ワールド』とともに、最前線にヤング・バックは帰ってこようとしている。
ヤング・バックはデヴィッド・ブラウンとして25年前テネシー州ナッシュヴィル、地元ではキャッシュヴィル、Ten-A-Key(*註)と呼ばれる場所で生を受けた。シングル・マザーに育てられながら苦しい生活を余儀なくされ、姉妹、従兄弟らと暮らしていたヤング・デヴィッドは、僅か14歳でキャッシュヴィルのストリートで生き残りを賭けドラッグ・ディーリングを始めた。同時期に”趣味”としてはじめたラップを、若いハスラーの彼は徐々に真剣に捉え始めた。当時ヒップホップ・シーンが爆発寸前という熱い時期を迎えていたナッシュヴィルの一部に、バックはなろう、と考えたのだ。
1997年には既に、バックは当時急成長していたダーティー・サウス=ニューオーリーンズの強力チーム=キャッシュ・マネー・レコーズの注意を引くことに成功していた。出入りを繰り返しながらも、まんまとそこに滑り込むことに成功したバックは4年間をそこで過ごし、レーベルきっての大スター=ジュヴィナイルの傍で成長、活躍していった。その流れでジュヴィナイルが立ち上げたレーベル=UTPレコーズに加わったバックは、2001年アメリカ中をツアーで廻った。その訪問先のひとつニューヨーク・シティでバックは、シャ・マネー・XLや当時地元ではミックス・テープなどで既に爆発的人気を確立していた50セントらのG-ユニット・クルーとレコーディングするという運命的な機会を得る。早速ヤング・バックを気に入った50セントは、2002年までに、バックを構成員に含む形でG-ユニット/インタースコープ・レコーズを立ち上げる契約を結び、未曾有の勢いを得ていた。G-ユニットがクルー全体で完成させたダブル・プラチナム・アルバム『べッグ・フォー・マーシー』では、冷徹な静けさと攻撃的なフロウを併せ持つバック独特の南部訛りのスタイルを体験することが出来る。そのことでバックは、地元キャッシュヴィルにヒップホップ・ムーヴメントをオフィシャルにもたらすことに成功した。
そしてヤング・バックは、マイクを手に取ってからちょうど10年目にあたる2004年、待望のソロ・ファースト・アルバム『ストレート・アウタ・キャッシュヴィル』を遂にドロップ、結果プラチナム・セールスを記録した。
「あのアルバムでの成功を神に感謝してるぜ」
バックは言う。
「確かにサイコーの素材で出来ていた。だけど、バックの”ベスト”素材ではなかったんだ」
そして2007年3月、ヤング・バックの第2弾が誕生をここに迎えるのである。
「『バック・ザ・ワールド』はオレが常に感じてることを中心に展開してるんだ。オレが創りたいと思ったアイディアがレコードに反映され、何段も上にあがった自分自身のレベルが感じ取れるってモンだ」
とバックは説明する。
『バック・ザ・ワールド』はジャジー・フェイが制作したファースト・シングル「アイ・ノウ・ユー・ウォント・ミー」で聴けるようなクラブ・バンガー・トラックで溢れている。例えばヒット、マチガイナシのトラックとして50セントとの「ホールド・オン」に「ユー・エイント・ゴーイング・ノーウェア」。これら2曲とも御大ドクター・ドレーの制作だ。ジャジー・フェイ制作でヤング・ジージー、T.I.、ピンプ・Cをフィーチャリングした「4キングス」に、ハイ・テック・ビートが繰り出し、スヌープ・ドッグやトラック・ダディのライムが堪能できる「アイ・エイント・ファッキング・ウィズ・ユー」などなど。そしてエミネムも「マーダー・マーダー」というトラックで参戦している。参加アーティストとして他には、ライフ(ジェニングス)、バン・B、8ボール&MJG、G-ユニット全ファミリー、バック自身が先頭に立ち、リル・マーダー、D-テイ、ハイ-Cで構成されるナッシュヴィル市外局番から取ったグループ”615″も名を連ねている。
「自身のレーベル、キャッシュヴィル・レコーズから新しいアーティストをヒップホップ・ゲームに参加させたいんだ」
バックは語る。
「50(セント)が100%オレの背中を押してくれてるよ」
バックは2年間アルバムをリリースしなかったが、この間全く退屈では無かったと言う。戦略、計画にと忙しい日々を過ごしていた彼はこう語る。
「『バック・ザ・ワールド』での成功が楽しみだぜ。その後は映画脚本とか諸々待ってるからな。アーティストとして成長しなきゃなんないんだ。毎回外に出る度に新しく創造された自分に気付く。同じ場所で変わらない、という考え方は信じない。常に良くなっていることを信じてる。長い人生のスパンで見たとき結局、変化は小さいのかも知れない。朝起きて、真っ先にブラント吸って、朝メシ食ってる自分が居るからな。」
これこそが”リアル”なラップ・スターの言葉なのである。
註:
正式スペリングをTennessee、音を絡ませ”Ten-A-Key”と地元では呼ばれる。意味はA-Key(クラック1kg)につき、Ten(10kドル)。テネ”シ”ーでなく
“K”の音を用い、Cashvilleの”C”の音とも掛けている。
YOUNG BUCK ヤング・バック (『ストレイト・アウタ・キャッシュヴィル』時)
“50がサインしたヤツが誰なのかみんな知りたがってる。どんなヤツなのか、どこから来たのか。
ライムは出来るのか。リアルなのか。フェイクなのか。本物か。ライアーか。ホントにその
ヤング・バックってやつは2発撃たれたのか?”――ヤング・バック
ここ1年の間、23歳になったばかりのデヴィッド・”ヤング・バック”・ブラウンのウワサは、さまざまな形でとびかっている。「オレはいままでの人生すべてを音楽に費やしてきた」と、テネシー州、ナッシュヴィル出身のバックは言う。「12、13の頃には遊びでラップをはじめた。14、15歳の頃にはスタジオでホンキでやってたな」
ラップ・シーンでの活動と同時にヤング・バックは、10代のはじめからストリートのドラッグ・ディーラーとして”縄張り”を持ち自活していた。「そこではオレが一番若かった。でもいった
んストリートに出れば、そこには年齢制限なんかなかった。
オレはいっぱしなニガとしてふるま
っていたんだ」バックは振り返る。とはいえ、年上のハスラーたち、特にプリースト(聖職者)と呼ばれいまや刑務所に入っているOGという男は、一番年下のバックをよくかわいがり、そしてよくたしなめていた。
「そこに座って耳かっぽじろ。よく注意しろよ、ガキのドル(ヤング・バック)使いよ。」
こうしてデヴィット・ブラウンはヤング・バックとして呼ばれるようになった。
バックが16歳の時、チャンスが来た。ニューオーリンズのラップ軍団”キャッシュ・マネー”がナッシュヴィルにくるという情報が入ってきたのだ。そしてバックはキャッシュ・マネーのCEO=ブライアン・”ベイビー”・ウィリアムスの前でパフォーマンスをする機会を得た。気合の入った
バックのパフォーマンスは、見事キャッシュ・マネー予備軍(当時そこにはホット・ボーイのリル・
ウェインもいた)への所属を獲得。すぐにバックは高校中退を決意、4年間過ごすことになるニューオーリンズへと移り住んだ。
1997年当時、キャッシュ・マネー・ミリオネアーズと呼ばれるキャッシュ・マネー軍団はまだ今の
“ブリン・ブリン王”とはホド遠い、ダイアモンドの原石のようなモノだった。「オレたちはみんなでひとつの小さなアパートに住んでたんだ」バックは思い出す。「みんな成功するために努力してたな。オレは若かったし、このチャンスは絶対だって信じてた。当時、あのユニットはアンダーグランド・シーンで盛り上がりをみせはじめてたからな。何かが起こるって言うポテンシャルをみんなが感じてた。あそこにいなけりゃいまのオレはなかったな」
バックはそのクルーとしてナリアガっていくコトに専念し、そしてキャッシュ・マネーは、ジュヴィナイルのヒット・シングル「Ha」でブレイクの瞬間を迎える。そのビデオはバックのホームタウンで撮影された。「オレがナッシュヴィル時代つるんでた仲間たちはオレが成功するために頑張ってるのを知ってキャッシュ・マネー・クルーに愛情を見せてくれた。そしてバックがいまどんなとこにいてどこに向かおうとしているのかも確認してくれたんだ。ビデオにはフェラーリ、ジャグアーなんかが用意されてたんだぜ。しかも当時のキャッシュ・マネーはそれだけじゃなかった。それをリスペクトしてたし、初期の段階でオレたちは自分たちが確かなものになるための何かを持つ機会が与えられたんだ。」
しかしキャッシュ・マネーの”ベンチ”在籍4年を迎えた後、バックはナッシュヴィルに戻る決意をする。
「オレはフッドに戻った。そしてストリートに出て、与えられたものならなんでもやり始めた。」と、彼は告白する。
「時間はたっぷりあった。けど経済的にはカラっきしだったんだ。メシを食うために他人のシマでも商売をしてた。まあ、それで撒いた種で報いを受けることになっちまったんだ。あるとき商売をしてたら、そのシマのマザファッカーに出くわしちまった。それでコトが起きた。ある朝4時、5時くらいに、そのマザファッカーがウチに蹴破って入ってきやがった。オレはちょうど床の真ん中で寝てたからソイツがAKだかMac(拳銃)を持ってオレにまたがってきやがったんだ。オレはそのとき銃を持ってなかったから思いっきり飛び上がってキッチンに向かって走り出した。そしたらちょうど家にいて起きてたダチがガンでそのマザファッカと応戦してそいつを追い出してくれたんだ。けどその時、2発食らっちまった。1発は腕を貫通、
もう1発は太ももの上あたりに食い込んだ。当時は家でかなりヤバイことをやってたからいろいろと片付けた後で病院に向かったら撃たれてから45分もかかっちまった。だから出血多量で死にそうになったんだ」
ハスラー・ライフと同時にバックは、幼馴染のD-テイとインディから『Thuggin’ Til The
End.』というアルバムをリリースするなどスタジオでの仕事も引き続きやっていた。レコードは売れなかったものの、
ここでバックは強力な味方をつけたことになる。「オレは若かったし、金を得るため、そして自分の才能を伸ばすことみせつけることに熱中してた」とバックは言う。「オレがほかのチャンスを探そうとしたとき、
オレが拘束されてしまうペイパーワークをD-テイが得意だってことに気づいた。ヤツはそうはしたくなかったみたいだけど、結局そうしてくれたんだ。」
バックの次のチャンスは再びベイビー・ウィリアムスが電話をかけてきた時に訪れる。キャッシュ・マネーの新しいグループを作るからもう一度来ないかと言ってきたのだ。バックは早速ベイビーのオフィスに向かった。そしてオフィスに行くと以前とはまるで違い、レーベルが財を成したことを知った。しかしオフィスに来て1週間経ってもただただオフィスで過ごすだけで、レコーディング契約の段階に入っていくということもなかった。バックはただ豪華なベンチに座ってるだけだと感じていた。「オレがシビレを切らしてオフィスを出る準備をしていた時、ジュヴィナイルが来たんだ」バックは言う。当時キャッシュ・マネーの上層部と契約の問題でモメて
いたジュヴィナイルは、ヤング・バックに新たなヴェンチャー=UTPレコーズに合流しないかという話を持ちかけてきた。「ジュヴィナイルは”オレは何の保障も約束も出来ない。だから、UTPじゃなくてコレだと思った
何かが訪れたときには飛び出せばいい”と言ってくれたんだ。だからキャッシュ・マネーから出ることにして、
ジュヴィと契約することにしたんだ。そしてすぐにレコーディングをスタートした。最初の3日間で11曲レコー ディングしたぜ」
ジュヴィナイルとの活動が始まるとバックはジュヴィナイルのツアー・バスで生活をし、そこでレコーディングをしまくっていた。ちょうどその頃、UTPは50セント、G-ユニットのクルーとニューヨークでミーティングしは
じめていた。フリースタイルのセッションでいくつかのグループのコラボレーションが行われ「A Little Of
Everything」などのストリート・ヒットを生み出していたのだが、そのコラボレーションの話だったのだ。「オレにとって、50と会えるなんてのは名誉そのものだった。オレは50のストーリー全てをリスペクトしていたからな。ユニット
のアーティストとなる前からファンだったし。会うとスグに、オレたちはヴァイブを感じた。お互い”オレやお前にチャンスが訪れたからには、いっしょにやらなきゃならないってコトなんだ”って決めたんだ。そして神のご加護のもと50セントのもとへテイク・オフすることになった。50は”言っただろ”といって迎えてくれたんだ。ジュヴィナイルが”もしチャンスが来たら、それを取れ。オレはいつもオレが出来ることをやってる。そしてここよりお前によい環境になる何かがあれば、それをやれ”ってオレにいつも言ってきたことを実行したんだ」
G-ユニットとしてヤング・バックがシーンに登場したのは50セントの「ブラッド・ハウンド」という曲でだった。
バックは50との出会いがこの客演につながり、さらにその曲が収録された『ゲット・リッチ・オア・ダイ・トライン』
が大ヒットしたことをおおいに楽しんだ。そして昨年、現在まで200万枚を売り上げているアルバム『ベッグ・フォー
・マーシー』をG-ユニットととしてリリースした。この勢いに乗り、ヤング・バックは次のステップを踏む。ソロ・デビュー・アルバム『ストレイト・アウタ・キャッシュヴィル』のリリースだ。
「このアルバムの名前『ストレイト・アウタ・キャッシュヴィル』はN.W.A.(ドクター・ドレーが在籍したグループ)から頂戴したんだ。このアルバムは今日までのオレの生き様をみせる。オレは世界にオレを感じて欲しいし、オレがどこにどういこうとしているかも感じて欲しいんだ。」
『ストレイト・アウタ・キャッシュヴィル』にはプロデューサーとしてドクター・ドレー、エミネムが参加、またリル・ジョンとともにG-ユニット・クルー=50セント、ロイド・バンクスも参加、また南部ヒップホップ・ヘヴィウェイト級のリル・フリップ、デヴィッド・バナーの名前も並んでいる。
ヤング・バックは言う。「オレはサウスで形成された人間だから、このアルバムを”G-ユニット・サウス”にした
かったのさ。そしてここには”ストリート”がつまってる。軟弱なメインストリームなんてそこでは聴けないぜ。
そんなのはオレの人生にははじめからなかったしな。『ストレイト・アウタ・キャッシュヴィル』にはただブッ飛ぶもんしか入ってないぜ」