BIOGRAPHY

VALENTINE


Valentine僕と愛する音楽との出会いについて、最初から話そう。

まだ僕がおもちゃ遊びに忙しかった頃、うちに一台の古いアップライト・ピアノがあって、母親が時々弾いていた。ショパンのワルツやモーツァルトのソナタはよく覚えていて、一緒に口ずさんでいたと母は言っている。そのうち、僕のおもちゃはピアノと小さなアコーディオンになり、6歳の時、やっとレッスンを受けることになった。でもそれから数ヶ月後、僕はテレビを見ていていきなりノックアウトされてしまう。それはフレディ・マーキュリーという人物だった。そしてクイーンの”ボヘミアン・ラプソディー”。それは天からの啓示と思えた。1975年のその日、僕は将来の目標を見つけた。ロック・アーティストになりたい!僕が惹かれたのはサウンドだけじゃない。ヴィジュアルも同じぐらい魅力的だった。これが僕の人生。その他のことはもうどうでもよくなった。

結局ハイスクールを中退。もう後戻りできない。幸運にも、両親は暖かく見守ってくれた。感謝でいっぱいだ。クイーン以外にも、ベイビーズという大好きなバンドがいた。ジョン・ウェイトは僕のヒーロー。エレクトリック・ライト・オーケストラ(ELO)とビートルズも大好きだった。数年後、ギターも弾き始めたけど、正直、キーボードほど巧くいかなった。14歳で初めてバンドに加入。T. Vistixといって、スカ・レゲエをベースにしたポップ・バンドだった。僕は彼らのおかげでアイライナーを使うことを覚えた。1983年は男でも許されたんだ。とてもシャイだったから、他のみんなを真似ただけだったけど、その後は手に負えなくなって、今でもやめられない!

一年後、T. Vistix解散。次はSpoiled Bratsというバンドに加入。もともと僕はこのバンドのファンだった。この頃から曲を書いたり、少しずつ人前で歌ったりもした。シャイな自分を克服しようと必死だったんだ。次に入ったメロディック・ロック・バンドのLINEは、オランダ国内でそれなりに有名だった。THE GREAT PRIZE OF THE NETHERLANDSというバンド大会で決勝まで残り、”SOLITARY NITE”というシングルはたくさんラジオでかかった。伝説のポップ番組TOPPOPに出演したこともある。でも、その後僕は脱退し、新たなメロディック・ロック・バンド1st Avenueを結成。1987年から89年にかけては、オランダ国内で精力的にライヴ活動を行なった。でもそのうち、僕の中で激しいフラストレーションが溜まり始める。なぜ自分は、キーボードの後ろでバカみたいに飛び跳ねることしかできないのかって。実は僕は気管支が弱く、花粉症持ちで、リード・シンガーは夢の夢と思っていた。でも歌うことへの思いは募る一方で、もうそれ以外の選択肢はないと確信した。だから1st Avenueのデビュー・レコーディング中に脱退し、ソロ・キャリアをスタートさせることにした。約半年かけてデモを作り、ポリドールと契約。ただ、アルバムの曲作りの最中に、一時的にZinatraのメンバーになり、『THE GREAT ESCAPE』というアルバムに参加。テレビやラジオに出たり、89年後半から91年にかけてはツアーもした。

ソロ・デビュー・アルバム『ROBBY VALENTINE』は1990年秋に、プロデューサーのアーウィン・マスパーと共に、かの有名なウィッセロード・スタジオでレコーディングされた。契約からリリースまで2年。ちょうどこの頃、現在のマネージャー、ウィレム・デ・ボイスと出会い、彼は”OVER AND OVER AGAIN”という曲に可能性を見いだした。僕としてはB面曲だと思っていたが、彼はこれをロック・バラードにするよう提案。その通りにすると、いきなり勢いがつきだした。大好きなアメリカ人プロデューサー、ウンベルト・ガティカにやってもらえることになり、オランダでレコーディング、LAでミックス。1991年秋にファースト・シングルとしてリリースされると、オランダとアジア諸国でヒットした。

1992年には素晴らしいバンドを結成。ベースのアーサー・ポリーニ、ギターのロブ・ウィンター、ドラムのハンス・エイークナー、キーボードのジョン・ユーバンクと共に、その年の前半はオランダを回り、ラジオやテレビにも出演。僕の音楽の特徴であるヴォーカル・ハーモニーは繰り返し練習した。レコーディングでは、僕と友達のヨハン・ウィレムスと二人で声を何層も何層も重ねていくけど、それをステージでやることはできないし、当時はステージでバッキング・テープを使うのは御法度だった。だからってヴォーカル・グループを雇うわけにもいかないし、そんなことしたらロック・バンドじゃなくなってしまう。だからメンバー全員歌う必要があったんだ。彼らは本当にプライドを持って、いい仕事をしてくれた。素晴らしかったよ。本当にいい時代だった。

1993年、2ndアルバム『THE MAGIC INFINITY』を再びウィッセードで、ピム・クープマンとジョン・ゾンネヴェルドと共に録音。その後、ブライアン・メイのドイツ・ツアーのオファーが舞い込んだ。ついに夢の実現! ところがドラマーがいない! 初日の4日前になって、ようやくユアン・ファン・エマールートというドラマーを発掘。僕の音楽にはうってつけのドラマーで、歌も歌えるし、まさに僕を救ってくれた。おかげで最高のツアーになった。僕のキャリアの中でも大きなハイライトの一つ。しかし残念なことに、しばらくして僕らはユアンを除いてバラバラになってしまい、次のアルバムはほとんど一人で作るはめになった。

その頃、日本のポリドールが最初の2枚のアルバムをリリース。プロモーション来日が実現し、実り多い日々を過ごす。オランダやベルギーでもライヴは続き、MEGA MUSIC ROCK EXPERIENCEという野外イヴェントでは、ヘッドライナーのエアロスミスと並んで出演。しかし翌95年、3rdアルバム『VALENTINE』を作り終えるとバンドは解散。でも日本からツアーのオファーが届いたため、急遽バンドを再編。ニュー・メンバーは、ギターにヴィニー・ケイ、ベースにバート・ディイケマ、キーボードにジョヴァンニ・ピレリ、ドラムにユアン。2ヶ月のリハーサルとオランダでのウォーミング・アップを経て、1996年春に日本公演。本当に最高の経験だった。とにかく日本のオーディエンスは素晴らしい。バンドもタイトだったし、ヴォーカル・ハーモニーもばっちりだ。

家に帰り4枚目のアルバムに着手。でもその大半は、その後日本の大阪に戻って書いた。ミキシングは再びウィッセロードでマット・バトラーと共に行い、『UNITED』と名付けられた作品は1997年6月に日本でリリース。しかし時代は変わり、父は亡くなった。年末には、日本でクリスマス・ミニ・アルバム『CHRISTMAS IN HEAVEN』がリリースされ、1998年には、5枚目のアルバム『NO SUGAR ADDED』を作るが、アルバムを丸ごと一枚作るにはインスピレーションが不足していたため、過去の曲も数曲再録することにした。

1998年秋にはヴァレンシアとVを結成。日本のユニバーサルとアルバム3枚分の契約を交わし、ユアンとヴァレンシアの弟デイヴィッドの二人を迎えてレコーディングされた1stアルバムは99年夏にリリース。同じ年の後半には日本公演。その時はドラムにユアン、ベースにパトリック・ブイス、ヴォーカルとギターにヴァレンシア、ヴォーカルとピアノとギターに僕という編成だった。

2000年、6枚目のアルバム『BELIEVE IS SEEING』をレコーディング。ベーシック・トラックはスタジオ・ライブ風に録り、ドラムはここでもユアンで、11月にはリリース。2001年にはVの2ndアルバムの半分をレコーディング。2002年夏にリリース。その後は2002年秋から約一年かけて『THE MOST BEAUTIFUL PAIN』をレコーディング。並行して、Kyssmetというサイド・プロジェクトも開始。これは自分が歌うのではなく、女性シンガーに歌ってもらいたくて、共通の友人を通じて、アリス・アンディコというフィリピン人シンガーと出会った。彼女は理想通りのシンガーで、僕らは2004年にアルバムを作った。また、ヴァレンシアとも3枚目のVアルバムを作るために再び合流し、『NYMPHOPSYCHOSCHIZOPHONIC』を制作。2004年末には、『WHO KILLED ROBBY VALENTINE?』という仮タイトルで次のソロ・アルバムに着手。
その仮タイトルも正式には『FALLING DOWN IN MISANTHROPOLIS』に変更になり2007年にリリース。
そして10枚目の区切りとして彼は2枚組のベスト盤をリリース、日本盤のみ高音質なSHM-CDにてプレス。過去の作品の楽曲と聴き比べてみるのも面白い。
ベスト盤とは言っても新曲や録り直しの楽曲の数曲収録されており既に全てのアルバムを持っているファンでも楽しめる内容になっている。