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1991年。
フレディ生前最後のスタジオ・アルバム「イニュエンドウ」が英国でリリースされる。この頃から重病説が流れていたが、そんなゴシップを払拭するようにフレ ディの圧巻とも言えるボーカルが炸裂した傑作。当時、日本では話題にならなかったが、イギリスではチャート初登場1位。

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1975年。
『キラークイーン』がアメリカで最高12位とスマッシュ・ヒットし、デビュー3年目にして念願だったメインアクトとしての全米ツアーがオハイオ州からス タート。初のヘッドライナーに、フレディ張り切りすぎたのか、喉を痛めて、ツアー後半を痛恨のキャンセルに。アメリカ制覇の道は遠い・・・

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2004年。
この年の1月から放送された人気TVドラマの主題歌に『ボーン・トゥ・ラヴ・ユー』が起用され、同曲収録のベスト盤が初登場でアルバム・チャート1位を記 録。76年の『華麗なるレース』以来、27年振りの首位返り咲き。ここから日本でも第2次クイーン・ブーム到来した。

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1981年。音楽と主題歌を担当した映画『フラッシュゴードン』のジャパン・プレミアにフレディを除く3人が 出席。試写会の会場となったテアトル東京(現在のホテル西洋銀座)には、薬師丸ひろ子、岡崎夕紀、太田裕美が駆けつけ、上映前にメンバー3人へ花束贈呈の セレモニーもあった。

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1981年。4度目となる来日公演の初日。クイーン全6回の来日中、唯一、東京(武道館で5回)公演のみのツ アー。日本語曲『手をとりあって』は最終日のみ演奏され、他の日に行ったファンをがっかりさせた。メンバー離日後も、フレディは一人居残り、大好きな日本 で買い物三昧を楽しんだ。

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1984年。前作『ホット・スペース』がセールス的に失敗し、解散説も囁かれたクイーンが起死回生を狙って制作した13枚目のアルバム『ザ・ワークス』の発売日(日:3月16日)。ここから『RADIO GA GA』や『ブレイク・フリー』といったメガ・ヒット曲が生まれ、クイーンは劇的に復活。

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1974年。デビュー2年目で初のヘッドライナーとしてのイギリス国内ツアー(全22本)初日、ブラックプール(映画「Shall we ダンス?」でお馴染みのリゾート地)公演。クイーンは日本で最初にブレイクしたと巷間言われるが、実は、この時期には、そこそこ売れてた新人バンドだった。

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1973年。セカンドアルバム『クイーンII』の発売日。初期のヒット曲『輝ける7つの海』収録。当時のLP はA面がホワイト、B面がブラック・サイドとクレジットされ、各々ブライアン、フレディ曲を中心に収録。見開きジャケは外が黒、中を白で統一したコンセプ ト・アルバム。必聴!!

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1979年の4月13日から始まる3度目のジャパン・ツアーにあわせて来日記念盤シングル「ドント・ストッ プ・ミー・ナウ」を国内でリリース。歌詞が少々下ネタ系だった為かアメリカでのチャートは奮わなかったが、非英語圏では人気が高い。特に日本では何度も CMソングに起用されているほど。

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1974年。 セカンド・シングル「輝ける7つの海(発売:2/23)」がチャート30位に初登場。デビューアルバム「戦慄の王女」があまり話題に成らなかっただけに、メンバーも一安心。ここからクイーンの快進撃が始まり出す。

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1965年。 ブライアン愛用のギター、レッド・スペシャルがこの日、完成したと言われる。自宅にあった古い暖炉の木を使い父親との共同作業で18ヶ月の期間を要した。ちなみにこの暖炉のレプリカがロンドンのクイーン展でも展示されていた。

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1973年。 宣伝用写真の撮影がフレディの自宅で行われた。カメラマンはロジャーの友人のダグラス・パディフット。この日のカットは73年7月13日にリリースされたデビュー・アルバムのジャケット裏に使われている。ペンギンに扮しているのはブライアン。

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2001年。 クイーンがアメリカのロックン・ロール・ホール・オブ・フェイム(音楽の殿堂)入りし、ニュー・ヨークで行われた授賞式にブライアンとロジャーが出席。フレディの代理として母親が出席し賞を受け取った。

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1976年。2回目の来日公演初日、武道館。名古屋、姫路、福岡、大阪、仙台の6都市で全11回。福岡、大阪 ではアイドル並みの昼夜2回公演を敢行。『ボヘミアン・ラプソディ』のヒット直後だけにオペラ・コーラス再現を期待されたが、テープ演奏にちょっとがっか りした人も多かった。

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1987年。 フレディが憧れのオペラ歌手、モンセラート・カバリエとバルセロナのリッツ・ホテルで対面。あのフレディが緊張でガチガチだったらしい。この日のミーティングが後のデュエット・アルバム「バルセロナ(1988年10月10日英発売)」に発展する。

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1974年。 日本でのデビューアルバム「戦慄の王女」がリリースされる。すべてはここから始まった。タイトルを「女王」ではなく「王女」としたのは、当時、日本でロックの「女王」として売り出していたスージー・クアトロとの混同を避ける為だったという。

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1976年。 2度目の来日コンサート、福岡九電記念体育館で、なんとアイドル並みに昼夜2回公演!今では考えられないが、この時代は1日2回のパフォーマンスは特に珍しい事ではなく、クイーンはアメリカでも昼夜公演を敢行している。

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1974年。 セカンド・アルバム「クイーンⅡ(3月8日発売)」がこの日、イギリス・チャートの7位に入り、彼らにとって初のアルバムTOP10入りを果たした。この 年の3月1日からは初のヘッド・ライナー全英ツアーもスタートしており、デビュー2年目でようやく売れ始めた時期。

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2005年。 ポール・ロジャースをボーカルに迎え、1986年以来19年振りにツアー活動を再開させた初日 のロンドン・ブリクストン。アカデミー公演日。このプロジェクトは賛否両論あったがブライアンとロジャーがクイーンは活動を止めてないと世界に向けて発信 した記念の日でもあった。

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1970年。 ロジャーとブライアンがクイーン結成前に在籍していたバンド、スマイルがこの日、ベースとヴォーカルを担当していたメンバー、ティム・スタッフウェルの脱退を機に解散。ファースト『戦慄の王女』収録された「Doing All Right」はティムとブライアンの共作でスマイル時代の曲。

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1974年。 同年3月1日からスタートした初のヘッドライナー全英ツアーの最終日、ロンドン・レインボウ劇 場公演。ちょうど『輝ける7つの海』がヒット中で3500枚のチケットはあっという間に完売。この日の模様は後年発売されたLPボックスのおまけでビデオ 化されたが、現在は入手不可。再発を望む!

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1976年。 6回の来日公演で唯一の仙台公演が宮城県スポーツセンター(2006年閉館)で開催された。ブ ライアンは、今回の震災に際して『宮城、仙台、クイーンで1976年にツアーしたときのことは、私たちにとって、とても素晴らしい思い出です。』とコメン トを寄せている。

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1974年。 スタジオ生ライブを放送する人気ラジオ番組BBCセッション、4度目の出演の為の収録。『マー チ・オブ・ザ・ブラック・クイーン』等4曲を録音。この日演奏された『ネヴァーモア』はSHM-CD盤QUEENⅡのボーナスEPに収録されており、ライ ブでは一度も演奏されてないだけに貴重な音源。必聴!

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1976年。 6都市11公演行われた2度目のジャパン・ツアー、最終日の日大講堂公演。あまり耳馴染みの無 いこの会場、戦前には国技館として使われていた13000人収容可能な巨大な大鉄傘を擁したドーム型の建物で、老朽化の為1983年に解体された。現在は 同所に両国シティコアが建っている。

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1970年。 この日、ロジャーの自宅にブライアンとフレディが集まり、3人で新しいバンドをやっていく事が 決まった。ブライアンとロジャーが在籍していたバンド、スマイルの解散が同年の3月29日なので、たった1週間で新バンド結成に至った。2ヶ月後にはク イーンとして最初のライブを行う。

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1981年。 殆どの楽器を一人で演奏したロジャーの初めてにして完全ソロアルバム『ファン・イン・スペー ス』がリリースされた。真偽は定かでは無いが、このアルバムのジャケットにインスパイアされてスピルバーグ監督が映画『E.T.』が作ったという話しもあ る。確かに似てはいるが・・・。

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1975年。36年前のこの日、初めての日本公演@武道館。初日という事もあって朝11時には会場入りして入 念なリハーサル。一旦ホテルに戻り17:15には東京プリンスホテルのロビーに集合して再び武道館へ。『プロセッション』から『ゴッド・セイブ・ザ・ク イーン』まで全19曲完全燃焼!

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1975年。もうすぐ始まるクイーン展のイメージ写真にも使われている、あの有名な東京タワーの下での野点シーンの撮影はこの日。13:30にスタートし たセッション、初めて体験したお茶会に終始戸惑ったそう。19時から『スター千一夜』収録の為、フジテレビへ。21時には終了しホテルへ戻る。

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1975年。移動日。11:24発のひかり161号で名古屋へ。天候はあいにくのどしゃ降り。駅に着後、名古屋キャッスル・ホテル(現:ウェスティン)へ 移動し、16時から18時まで、地元メディアとの記者会見。17日に日本に着いてから1日も休まず精力的にスケジュール消化中。

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1975年。バス移動で神戸。名神・大津SAで海老フライ定食の昼食を取り、14:30には公演会場に併設された神戸国際ホテル入り。サウンドチェックに 不具合が生じたのか、この日は開演が1時間遅れるも、神戸ファンは暖かく90分のコンサートは大絶賛の中、幕を閉じた。

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1975年。この日は小雨降る中、朝から京都観光で平安神宮へ。南禅寺で昼食を取り、午後から各自フリーでつかの間のオフを楽しみ、夕方には空路福岡へ。この日の京都の模様は『クイーン&MUSIC LIFE展』の会場で販売されるポストカードになってます!お楽しみに!

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1975年。夜は福岡九電記念体育館。昼間、ロジャーがテープ・レコーダーを買おうとお忍びで福岡市内に出かけた所、あっという間に見つかってファンに囲 まれたそう。又、又、1979年のこの日は、3度目の来日の武道館公演最終日。日本テレビが収録し、3年後福留功男アナのナレーションで放送された

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1975年。4月17日にJAL61便で18時に羽田空港に到着以来、働きづめだった彼らの初めての日本での完全オフ日。ところで初来日のツアー中、フレ ディが覚えたお気に入りの日本語は『パンツ脱いでぇ!』。いったい誰が、そんな言葉を吹き込んだのか・・・名乗り出て欲しいです(笑)。

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1985年。6度目にして最後のジャパン・ツアー、日本公演の2日目にして最後の武道館公演。1975年4月 19日の初公演以来、通算17回の公演を行っていて、クイーンが日本で最も多くコンサートを開いた会場でもある。以降、ブライアンのソロやQ+PRツアー でも使われておらず、まさにこの日が最後の武道館公演となった。

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1985年。5月7日から始まったツアー3日目、初の代々木競技場公演。翌日も開催され東京は2ヶ所で全4公演。『ザ・ワークス』楽曲中心のセットリストだが、『輝ける7つの海』や『炎のロックンロール』といった初期ナンバーも披露され、昔からのファンを歓ばせた。

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1985年。代々木競技場2日目にしてクイーン最後の東京公演。この日の模様は撮影もされ現在は廃盤だがビデ オ発売されている。又、NHK-FMの渋谷陽一さんの番組でも放送されている。この頃、解散説が流れており、渋谷さんもその件について少し触れていたのが 印象的だった。

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1985年。愛知県体育館公演。惜しむらくは、最後の日本ツアーなのに(当時、誰もそうは思わなかったが) 『手をとりあって』が一度も演奏されなかった点。この時期彼らのステージは照明や舞台装置もシステム化され、欧州ツアーとセットリストはほぼ同じ。新たに 別曲を挿むのは物理的に難しかったとは思うが、ちょっと残念。

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1985年。最後の日本公演となった大阪城ホール公演。この頃のメンバー間の関係は相当悪化していたそうで、 実際、この日以降は彼らのスケジュールは全くの空白になっていた。2ヶ月後のライブ・エイドでの劇的な復活が無ければ、この大阪公演が、クイーンの本当の 最後のコンサートだったかも。

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1994年。ロジャーがTV音楽番組「ミュージック・ステーション」にX JAPANのYOSHIKIと共に生出演。作詞&ヴォーカルがロジャー、作曲&ピアノがYOSHIKIの、二人の共演曲『Foreign Sand』を披露。同曲が収録されたアルバム『Happiness?』は同年9月9日にリリースされた。

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1975年。デビュー以来所属しているトライデント・プロの不当な契約条件(月給は約20万円!ぐらいだった そう)に憤っていたメンバーは新しいマネージャーとしてジョン・リード(エルトン・ジョンと兼任)と契約する事を秘かに決める。トライデントから独立する のは、この年の8月。

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1976年。ブライアンが学生時代から交際していたクリッシー・ミューレンとロンドン郊外バーンズの教会で結婚式を挙げた。前年の75年1月18日にはジョンが結婚してるので、メンバー間では二人目の既婚者となる。ちなみにフレディは生涯独身を通した。

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1991年。ロンドン市内のライムストーン・スタジオで『輝ける日々』のビデオクリップの撮影。ブライアンはプロモーション渡米中で欠席。フレディ最後の公の場に出た映像で、静かではあるが力強く、神々しさすら感じさせる渾身のパフォーマンスを演じている。必見です!

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1980年。シングル『プレイ・ザ・ゲーム』を英国でリリース。クイーンのシンセサイザーを解禁した最初の曲でもある。この年の2月『愛という名の欲望』 が初の全米1位となりメンバーの目はアメリカを向いていた頃で、ジャケットにはフレディのマッチョな髭姿で登場。イギリスのファンを大いに驚かせ、一部の ファンが離れる騒動に発展。

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1977年。『華麗なるレース』欧州ツアー最終日、ロンドン・アールズ・コート公演。巨大な王冠型の照明システムを登場させ、ロンドンっ子の度肝を抜い た。この公演で着用したフレディの緑と赤のダイヤモンド柄のバレイ・スーツが、5月の東武百貨店クイーン展で展示されていた衣装です!

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6月15日
1978年。ブライアンの長男、ジミー君誕生。後年、このジミー君が好きだった日本製のSF人形特撮劇「Xボンバー(原作は永井豪!)」のOP曲を自ら演 奏したミニアルバム『無敵艦隊スターフリート(1983)』をリリースする程の、親バカっぷりを発揮。ブライアン、意外に子煩悩か?

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1979年。初のライブ・アルバム『ライブ・キラーズ』英国発売(日:6/25)。当初メンバーはリリースに難色を示したが、当時、数多出まわっていた海 賊盤対策の為に踏み切ったそう。日本盤LPは赤と緑のカラーディスク仕様だった。ジャケット写真は長谷部宏。ミュージック・ライフでの同氏の写真を気に 入ったメンバーが、オファーしてきたそうで、79年の来日ツアー時に撮影されている。今回のリマスター盤シリーズから漏れているのが残念。いい音で聴いて みたいです!

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1984年。ロジャーのセカンド・ソロアルバム『ストレンジ・フロンティアー』発売(日:7/21)。B・スプリングスティーンとボブ・ディランのカバー 含む全10曲収録。フレディとジョンが1曲ずつゲストで参加している以外は、ほとんどの楽器をロジャーが一人で演奏した意欲作。

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1946年の今日、ファルーク・バルサラことフレディ・マーキュリーが、アフリカ大陸タンザニア連合共和国の ザンジバル島にある世界遺産ストーン・アイランドにて生まれました!フレディは歴史的建造物が多く残される、この街で5歳まで過ごし、その後父親の仕事の 関係でボンベイ(現:ムンバイ)に引っ越します!

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1971年。この日から、ブライアンがロンドン市内のストックウェル中学校で教師を始める。ちょうど、デ・レーン・リー・スタジオでクイーンとしてスタジ オ管理のバイトも並行していた為、学校の先生は結局、3ヶ月で辞めた。教わった生徒が羨ましい限り。もしこのまま教師を続けてたらクイーンは無かったか?

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1969年のこの日。フレディのバンド『アイベックス』のリヴァプール公演終盤に、ロジャーとブライアンが飛び入り参加。3人揃っての記念すべき最初のス テージとなる。この年の8月、ロジャーとブライアンはバンド『スマイル』でデビュー・シングルをアメリカでリリースしたばかり。この日のライブは、翌年春 にメンバーの脱退でスマイルは解散してフレディが加入する流れのきっかけとなった。

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1978年の今日、アルバム『ジャズ』をレコーディング中のマウンテン・スタジオ(スイス・モントルー)を雷が襲いスタジオは停電。作業は中断した。そこ へテープ・レコーダーを持ってスタジオを飛び出したブライアンは、おもむろに雷を録音し始めた。この雷鳴音が『デッド・オン・タイム』に目出たく収録され ました!雷に感謝!

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2008年。クイーン+ポール・ロジャースのコスモス・ロックツアー2008が、ウクライナのカラコフ広場にてスタート。同公演はカラコフ自由広場で開催 されたエイズ撲滅運動の為のチャリティ・コンサート。入場無料という事もあってか、集まった観衆はなんと35万人!!これはクイーンが1985年1月にリ オ・デ・ジャネイロで記録した30万人を上回り、1回の公演で集めた最高動員記録となった

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1982年。米LAのイングルウッド・フォーラムにてコンサート。北米市場受けを狙ったブラコン指向のアルバム『ホット・スペース』が頼みのアメリカでも 受けず、かの地で撤退を余儀なくされる。結果、この日がアメリカでの最後のコンサートとなった。2005年にはクイーン+ポール・ロジャースで23年振り にアメリカを訪れる。

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1988年。英サセックス州にある5つ星ホテル、ザ・グランドにて開かれた ポリドール・レコードのセールス懇親会にフレディが出席。同年10月に発売さ れるポエラ歌手モンセラ・カバリエとのデュエット・アルバム『バルセロナ』から2曲歌ったそう。カバリエとの共演はフレディの念願の夢。それゆえか、あの フレディがレコード売るために、そんな事やってたんだ、という事実にちょっとびっくり。意外でした。

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1978年。ロンドン南部のウインブルドン・ドッグレース場にオール・ヌードの女性65人を自転車に乗せレースさせるという仰天イベントを開催。これは同 年10月1日にリリースするニューシングル『バイシクル・レース/ファット・ボトムド・ガール』のPRイベントで、思惑通り、多くのプレスに紹介され大い に話題になった。が、良識あるロンドン市民からは下品すぎる!と顰蹙を買う。さらに自転車屋からは、裸で乗ったのでサドルの交換代も請求され、高くつい た。
この日の模様はアルバム『ジャズ』のインナー・スリーヴをご覧あれ!

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1970年.ロジャーとフレディのアイドルだったジミ・ヘンドリックスがこの日亡くなった(享年27歳)。追悼の意を込め、二人が経営していたケンジント ン・マーケットにあるブティックをこの日閉店させ、同夜のクイーンのリハーサルではジミ・ヘンの『ブードゥー・チャイルド』を追悼演奏している。

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1971年。ブライアンとロジャーがスマイル時代に世話になったデ・レーン・リー・スタジオの管理人のアルバイトがこの日より始まった。スタジオの空き時 間は何をやってもイイという好条件で、4人はスタジオ・ワークの基本をここで学んだ。この時期、『炎のロックンロール』や『ライアー』等が録音され、それ がきっかけとなってロイ・トーマス・ベーカーと出会い、デビューに至った。

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1976年。ロンドン中心部にあるハイドパークにて無料のコンサートを開催。同場所でのフリー・コンサートは1969年7月のローリング・ストーンズ以 来。クイーンは、イギリスの象徴的バンドのストーンズを上回る15万人の観客を集め、事実上、英国音楽界の頂点に立ったメモリアル・デイ。

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1979年。『愛という名の欲望』のビデオクリップの撮影がロンドン市内でこの日行われた。従来の王子様ルックスから一変、メンバー全員が革ジャンを着て 不良スタイルに。優等生ブライアンのワルぶりは様になってないのはご愛嬌か?クイーンのビデオに初めてダンサーが登場した作品でもある。ロカビリー調の曲 だが、なんだか地下ゲイクラブのよう。この演出はフレディの提案か?

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1965年。ジョン・ディーコン(当時14歳)が最初のバンド、The Oppositionにリズム・ギターとして加入。途中、ベーシストが脱退した為、ベースに転向。このバンドはジョンのチェルシー・カレッジ入学まで続け られたが、あくまでも遊びバンドでプロ目指す事は考えていなかったそう。

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1989年。アルバム『ミラクル』に収録されているブライアン作(と言われている)『スキャンダル』のビデオクリップをロンドン郊外のパインウッド・スタ ジオで撮影。この時期のブライアンは人気女優、アニタ・ドブソンとの不倫スキャンダルが発覚し毎日のようにマスコミに追われていた。そんなパパラッチ族を 痛烈に批判した曲。意図は不明だが、ビデオ内のブライアンとジョンの立ち位置が、いつもと違っている。

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1994年。アルバム『HAPPINESS?(94年9月21日発売)』を引っさげ、ロジャー川崎クラブチッタ公演。5月に 奈良東大寺大仏殿で行われたイベントにも出演した為、この年、ロジャーは2回の来日を果たした。ライブでは新アルバムの曲を中心に、『カインド・オブ・マ ジック』や『Radio Ga Ga』等のクイーン・ナンバー8曲を披露する大盤振る舞い!クイーンやQ+PRのライブでも演った事の無い『ライド・ザ・ワイルド・ウインド (イニュエンドウ収録)』や『テニメント・ファンスター (シアー・ハート・アタック収録)』といった激レア曲も演奏された。他の公演日程は26日中野サンプラザ、30日名古屋クラブクアトロの全3公演(大阪は 台風接近で中止)。

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1973年。この日、クイーンにとって初めてのプロモ・ビデオの撮影で『炎のロックンロール』と『ライアー』 の2曲を演奏。実はこの年の8月9日にも両曲の撮影は行われたがスタジオでボヤ騒ぎが起きたりとアクシデント続出。メンバーが映像の出来にも満足しなかっ た為、お蔵入りとなり仕切り直しの撮影だった。

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1973年。この日、クイーンにとって初めてのプロモ・ビデオの撮影で『炎のロックンロール』と『ライアー』 の2曲を演奏。実はこの年の8月9日にも両曲の撮影は行われたがスタジオでボヤ騒ぎが起きたりとアクシデント続出。メンバーが映像の出来にも満足しなかっ た為、お蔵入りとなり仕切り直しの撮影だった。

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1977年。『伝説のチャンピオン/ウィ・ウィル・ロック・ユー』が両A面シングルとしてイギリスでリリー ス。11/12に最高位の2位となり7週連続TOP10入りを果たした。アメリカでは早い段階からスポーツの応援曲として使われ、じわじわと売れ出し発売 16週目にビルボード最高4位まで上昇。それまでのクイーンのシングルの中では最も売れ、悲願の全米制覇へ向けた第1歩となった。

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1987年。ロンドンのパインウッド映画スタジオにてフレディのソロ『バルセロナ』の撮影。ファンクラブの会 員が集められエキストラで参加。終盤、参加者全員が暗闇の中で静かに振るペンライトは幻想的で美しい映像となった。が、シングルがリリースされるのはこの 1年後となり、このスタジオ収録版のプロモ・ビデオは殆どオンエアされずお蔵入り状態に。撮影が早すぎたか?

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1988年。フレディがスペインのラ・ニット音楽祭に出演しスペイン王夫妻の前でカバリエと一緒に『バルセロ ナ』『ゴールデン・ボーイ』『ハウ・キャン・アイ・ゴーオン』の3曲を披露した。ただし口パクで実際には歌っていない。『バルセロナ』のプロモ・ビデオは この時のライブ映像が広く出回っている。ちなみにこの日が、公の前でのフレディ最後のパフォーマンスとなった。

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1974年。サード・シングル『キラー・クイーン』がイギリスで発売される。高級コール・ガール嬢の事を歌っ た結構卑猥な唄にも関わらず、発売2週目にはTOP5入りし最高2位まで上昇。前作シングル『輝ける7つの海』が最高位10位だっただけに、デビュー2年 目にして、ようやくクイーンが売れ始めた。

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1973年。当時の西ドイツの首都、ボンでライブ。クイーンにとって記念すべき初の海外公演。 この時点で未発売であったセカンド・アルバム曲の『父より子へ』『オウガ・バトル』が早くも披露され、アンコールでは1986年のウェムブレイ・スタジア ムでも演った『ビッグ・スペンダー』等のロックンロール・メドレーで締めた。翌日はルクセンブルクでライブ。初の海外公演はこの2日間のみで終わった。

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2005年。ロジャー、米ニュー・ジャージーで行われたフー・ファイターズのライブに飛び入り出演。ドラムを 叩きながら『タイ・ユア・マザー・ダウン』をメンバーと共に歌う。この2つのバンドは公私共に仲良しで、何度もコラボ活動をしている。同バンドのドラ マー、テイラー・ホーキンスが2010年に発表したアルバムにはロジャーとブライアンも参加した。

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1982年。5度目の日本ツアー初日、福岡九電記念体育館公演。この年の5月に『ホット・スペース』をリリー スしたという事もあって、『アクション・ディス・デイ』『コーリング・オール・ガールズ』等、このツアーでしか聴けなかったレアな同アルバム収録曲も披露 された。日本ツアーは、11月3日の西武ライオンズ球場まで続く。