BIOGRAPHY
TRUTH HURTS / トゥルース・ハーツ
トゥルース・ハーツ・ストーリー
“If she could sing any better.
She would have to be two people.”
―――彼女がもっと上手く歌うことができるなら、彼女は2人でなければならない。
(彼女は歌を極めているからね。彼女がふたりに分身できたら最強だよ。)
(ドクター・ドレー)
トゥルース・ハーツはドレーのヒップホップ帝国、アフターマス・レコーズと契約した。とは言え、彼女は栄光あるヒップホップクイーンでも何でもない。彼女の素質はもっと奥深い。ミズーリ州セントルイス出身、クラシックとオペラ声楽を8年間学んだ彼女は、ゴスペル聖歌隊で歌いながら声を鍛え、エリック・ベネイ、シャニース、モニファといったアーティストのために曲を共作している。ヒップホップ的要素が彼女にあるとしたら、それは、彼女のデビューアルバム『トゥルースフリー・スピーキング』に参加したドレー、R.
ケリー、オーガナイズド・ノイズ、DJ
クイック、ティム&ボブといった人達によってのみ磨くことができた、粗野な正直さが染み透った彼女の姿勢である。
「正直になることはとても大切だと思うの」とトゥルースは言う。「今回のアルバムで曲を書いてくれたのは、数少ない人たち。彼らはとても正直に書いてくれたと確信できるわ。あれがありのままの私なの」
ドレーは90年代中盤からトゥルース・ハーツと活動を始めた。当初は、ドレーが育てていたグループと彼女を組ませるつもりだったが、予定は変更、それでも彼はソングライターとして彼女と一緒に活動を続けた。1999年、ドレーはアルバム『2001』収録曲である”Fuck
You”に彼女を起用。今まで女性ラッパーのYo Yo、Ms. Toi、Ms.
Roqらを起用したこともあるが、ドレーは一度もリリースしたことがない。そんなドレーが一目惚れしたのがトゥルース・ハーツだった。その年のクリスマス・イヴ、トゥルースに連絡したドレーは、彼女のデビューアルバムをプロデュースさせてくれと申し出た。
「私はすごく素っ気なかったわ」喜ばしいニュースに対する彼女の反応を思い出しながら、トゥルース・ハーツは言う。「しかも私は寝ぼけてた。”一体どうしたいの?”みたいな態度だったかもしれないわ。契約したいとドレーが言ったときも、私は素っ気なくOKしたの。私があまり喜んでいないのが、ドレーはショックだったみたいね。だけど一緒に働くにつれて、私が普段からテンションが低いことをドレーも理解し始めてくれたの。だから彼は私をトゥルース・ハーツと名付けたのよ」
アフターマス契約から間もなく、トゥルース・ハーツはドレー、エミネム、スヌープ・ドッグ、アイス・キューブ、そしてイグジビットと共に”アップ・イン・スモーク”ツアーをまわった。「あのツアーを終えた今なら、何だってできるわ」と、トゥルース・ハーツは彼女の”研修期間”を振り返る。「何千人という観客、後部席がどのぐらい遠いのかも分からないぐらい。まるで私のライヴじゃないみたいだったわ。あれはまさにヒップホップのライヴ。緊張してたのは認めるわ。でもドレーは”とっとと行ってこい”って感じだったわ」
「私が歌いたいよう歌わせてくれた初めてのプロデューサーがドレーだった」とトゥルース・ハーツは言う。「大抵のプロデューサーはこう言うわ。”そんな野郎言葉で歌うんじゃない。ラジオ、ラジオ、ラジオ向けだよ”で、私はこう言い返すの。”何がいけないのよ? 普段から使ってる言葉じゃない。自分らしく歌ったらいけないの? 理解できないわ」
アルバムを通してゴスペルからオペラ、そしてクラシックなスタイルと彼女が美声を披露するたび、信念のある声によってトゥルース・ハーツのメッセージは強化されるのだ。「私に合ったものを見つけようと、色んな種類の歌い方を試してきた経歴が表れてるわね。10歳の頃はクラシックとオペラから始めたんだから」
トゥルース・ハーツは、そんな訓練を彼女の映画役に適用することができた。伝説のボクサー、モハメド・アリの伝記である映画『アリ』の中で、彼女はラウンジシンガーを演じ、またドレー主演のコメディー映画『ザ・ウォッシュ』にもスヌープ・ドッグの彼女役として出演した。「私のヴィッキー役は、私が音楽でやってることにそっくりだった」と、映画『ザ・ウォッシュ』での役柄をトゥルース・ハーツは説明する。「彼女はとても強くて、エスニックで、何事にも応じない、スマートな女性。そんな彼女も彼女のゲームを楽しんでる、だってスヌープの後ろにいるんだから。」
ティーンエイジャーだったシャーリー・ワトソンが決心したのは13歳のとき。偽の身分証明書を持っていた彼女はセントルイスのクラブで、有名なジャズバンド、ミスティック・ヴォヤージの前座として、アニタ・べーカーとホイットニー・ヒューストンからのジャズ・スタンダードで説得力のある演奏を披露していた。
高校卒業後、シカゴ大学でオペラを学ぶための奨学金を放棄することを決め、トゥルース・ハーツは家族と共にカリフォルニアのベイエリアへと転居した。しかし間もなく、プロのレコーディングの道を進むためにロサンゼルスへと行くことを決めた。ロサンゼルスに来て8ヶ月足らずで、ヒップホップとR&B半々の”Shug
And Dap”というデュオとして、彼女と友人はジャイアントレコーズと契約した。しかし彼女たちはシングル「Anotha
Man」を1枚リリースしただけで、レーベルが潰れたあとは契約を切られてしまった。
トゥルース・ハーツは再編成するためにビジネスから少し離れ、そしてショーン・P.Diddy・コムズの弟分であるマリオ・ワイナンズと組み、ソングライターとして再び現れた。4年間近くの間に、彼らはモニファ、L.V.、ファージャといったアーティストの曲をコラボレートした。また彼女は、ドレーと関わるようになる前に、エリック・ベネット、シャニース、レイ・Jなどにも曲を書いたりもしていた。
待ちに待った彼女のソロ活動がやっと始まった今、彼女は時間をかけて、自然に物事を展開させている。「ゆっくり一日一日やっていくわ」と彼女は言う。「無理をしない程度にね。色んなチャンスが現れると思うけど、ゆっくりと考えながらやっていくつもり。今日まで十分なほど幸運があったわ。私は会社が欲しいの。いつか経営者として、何かしら話を持ってこれると思うの。それから仕立屋が欲しいわ。モータウンの頃を呼び戻したいのよ」