BIOGRAPHY

1976年に結成、今なお現役を続ける偉大なイギリスのパンク・バンド。1977年の初アルバム『地獄に堕ちた野郎ども』(原題:Damned Damned Damned)から、ヒット・シングル「ラヴ・ソング」を収録した『マシンガン・エチケット』(1979)を経て、ゴシック・ロック風の『ファンタスマゴリア』(1985)に到達、さらにそれ以降も、あらゆるパンク・バンドの中で最も無秩序な精神を持つ彼らは、姿を消すこともなく自分たちの理想を捨てることもなく、常に前進を続けている。最新作は11枚目のスタジオ・アルバム『イーヴル・スピリッツ』(2018)。デヴィッド・ボウイやT. レックスとの仕事で知られるトニー・ヴィスコンティをプロデューサーに迎え、わずか9日間で録音した。現在のメンバーはデイヴ・ヴァニアン(Vo)、キャプテン・センシブル(G)、モンティ・オキシモロン(Key)、ポール・グレイ(B)、ピンチ(Ds)。

<ロング・ヴァージョン>
今なお現役を続ける最も偉大なイギリスのパンク・バンド、ザ・ダムドが、10年ぶりのニュー・アルバム『イーヴル・スピリッツ』(Evil Spirits)を携えて戻ってきた。相変わらずエンジン全開で、すべてのルールを打ち破りながら。同時代の仲間たちが燃え尽き、あるいは凡庸な結果しか出せず存在感を失う一方で、あらゆるパンクバンドの中で最も無秩序な精神を持つ彼らは、姿を消すこともなく、自分たちの理想を捨てることもなく、常に前進を続けていた。

1977年のパワフルな『地獄に堕ちた野郎ども』(原題:Damned Damned Damned)から、1979年の奔放な『マシンガン・エチケット』(Machine Gun Etiquette)を経て、死を匂わせる『ファンタスマゴリア』(Phantasmagoria)(1985年)に到達し、さらにそれ以降に至るまで、ザ・ダムドは決して同じ場所に長時間留まらなかった。派手さと無法さを持ち合わせつつも、疲れを知らない創作へのエネルギーに突き動かされながら、彼らはどの時期においても自分たちの影響範囲を拡大し続け、ついにはポップ・ミュージックの歴史上あらゆる時代を通じてイギリスの最上級のバンドのひとつとなった。

2008年の『So, Who’s Paranoid?』以来、バンドは継続してツアーを行い、作品の優れた内容に対する認識を高めていった。現在の彼らがそこで培ったものをすべてつぎ込んだ11枚目のスタジオ・アルバム『イーヴル・スピリッツ』は、過去の輝かしい作品と比べても上位に位置するだけでなく、偉大なロックの英雄たちの作品に混じっても遜色のないものだ。ギタリストのキャプテン・センシブルはこう明かす。「俺の家には、すごいアルバムがいくつもある。ザ・キンクスとかザ・フーとかスモール・フェイセスとか――自分たちのアルバムもそれに匹敵するものになってほしいと思ってる」

ザ・ダムドは、3つのコードと強烈なエゴだけでステージを支配するという衝撃の大きさをただ頼りにするのではなく、常に本質的な音楽と向き合っていた。76年12月にセックス・ピストルズやザ・クラッシュと共に参加しながら不毛な結末を迎えた伝説のアナーキー・ツアーの間、どこに行っても出演を拒否される状況に、ザ・ダムドは得意がるのではく不満を募らせるようになった。続く77年には、ザ・ダムドの優れた音楽性に目をつけた、パンク・ロック流行前から活躍する大物アーティストたちから声を掛けられて交流を重ねた。その中には、ロンドンのナイトクラブ、ザ・ロキシーでザ・ダムドを見たレッド・ツェッペリンのジミー・ペイジとロバート・プラント、T. レックスのファイナル・ツアーのサポートに彼らを抜擢したマーク・ボランが含まれる。

“時代遅れの恐竜(T. レックス)”と付き合ってはならないというパンク界の理不尽な掟に中指を立てたザ・ダムドは、1978年の『ミュージック・フォー・プレジャー』(Music For Pleasure)のプロデューサーとして、表舞台から退いていたシド・バレットを誘おうとしたことすらあった。

そして時代が進んだ2017年、バンドは新たに、ポップ・ミュージックの黄金時代を彩った伝説的人物とのコラボレーションを実現させた――それがトニー・ヴィスコンティである。デヴィッド・ボウイ、T. レックスなどを始めとするアーティストによる傑作アルバムの数々をプロデュースしてきたことから、その手腕が確かであるだけでなく、ザ・ダムドに最もふさわしい人材であることも明らかだった。

ボーカルのデイヴ・ヴァニアンは言う。「ボウイの『★』(ブラックスター)を聴いたときに、トニーと仕事をすることを思いついた。あのアルバムのおかげでサウンドに関して自分たちが何をするべきか気づかされたから。俺たちはあんな風に現代的なアルバムを作りたかった。だからといって、トニーが過去に手掛けたレコードを輝かせているものが何かという点は見失わないようにしたかった」

センシブルがいかにも彼らしく熱っぽい口調で付け加える。「彼が70年代に作ったレコードは、最近レコードとして世に出ている、限界を超えて圧縮されて音程までいじられたようながらくたに比べてよほど優れている。俺たちはこう考えた。“保守的な作品を見事に仕上げるのが得意な人物がいるじゃないか――けど、俺たちに彼を雇う余裕があるだろうか?” ちょうどそのとき、誰かがプレッジ・ミュージックっていう目新しい方法があるって話をしていたんだ……」

この刺激的な新作に必要な費用を捻出するため、ザ・ダムドは初めてクラウドファンディングに乗り出した。彼らの泥臭い活動はすぐに実を結び、新鮮な驚きを与えられた全世界のファンたちが仕方ないと思いながらもすぐさま資金を出した結果、その総額は長年自力で活動してきた彼らには想像もつかないものになった。このとき73歳となっていたヴィスコンティが、77年頃に初めてマーク・ボランから話を聞いてザ・ダムドを知っており、それまで彼らからのアプローチが一度もなかったのを残念がっていたことが明らかとなった。いよいよ契約を結んだヴィスコンティだったが、バンドがどのような音楽を作ろうとしているのか、その原型を聴くことなくサインをした。実際、バンドが完成させていた曲はまだひとつもなかったのだが……。

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バンド内にソングライターが4人いるという状況――結成時のメンバーであるセンシブルとデイヴ・ヴァニアンに加え、キーボードの奇才モンティ・オキシー・モロン(96年に加入)、ドラム奏者のピンチ(1999年加入)の両者も楽曲制作に貢献している――にあり、各自が独立して曲作りに取り組んでいた。ドラマーのピンチがサンディエゴに居住していることから、書き上げた20の楽曲をバンド全体で一度もリハーサルすることなく、ヴィスコンティを含めて集合する10月17日を迎えた。その日は、ブルックリンのスタジオ、アトミック・サウンドでの9日間におよぶ集中的なセッションの初日だった。

センシブルは言う。「スタジオには、最高の音を出す年代物の重厚な機材やマイクが大量に揃っていて、使い込んで味が出たニーヴのミキシングコンソールがあった。トニーは全員に生演奏をさせて、同じ部屋で一気にレコーディングしていった――これは俺たちのデビュー・アルバムを作ったのと同じやり方だった」

セッションが開始される直前に、21世紀生まれのベーシスト、ステュ・ウェストが脱退したことで、80年代の初めの『ブラック・アルバム』(Black Album)と『ストロベリーズ』(Strawberries)が生まれた幸福な時代を共にしたダムドの元メンバー、ポール・グレイの短期間の復帰が実現した。「ポールは華のあるベーシストだよ」とキャプテンは断言する。「ポールは以前俺たちに、もしライヴを満員にした分だけ現金がもらえるなら、自分はとんでもない大金持ちになるだろうって言ったことがある」

長年のファンも新たなファンも同じように、『イーヴル・スピリッツ』の幅広さや高いクオリティに圧倒されるだろう。勢いよく進むスコット・ウォーカー風のチェンバーポップ(「Standing On The Edge Of Tomorrow」)があり、ファルフィッサオルガンの音が突き刺さるガレージサイケ(「Devil In Disguise」)があり、「Look Left」にはすべてを包括するブロードウェイ的な特性さえ存在している。また、ザ・ダムドの主要メンバーたちのパーソナリティにも多様性は備わっている。ゴスロックの元祖のひとりに挙げられるヴァニアンは、夜に思い悩む人物の視点を「Shadow Evocation」に導入し、無鉄砲な論客であるセンシブルは、政治的メッセージを込めた、聴き手の記憶に残るポップ・ソングを多数提供している。

「I Don’t Care」のあまりに速く過ぎていく3分間に収められたのは、3つの異なる進行の組み合わせだ――まずはピアノとバイオリンに混じるヴァニアンの夢想する歌声、次に彼の屈託のない感情があふれだし、まるでフーのようなロックが炸裂する。そして最後に、真夜中を思わせるジャズ風のエンディングで聴き手は現実に戻る。これぞパンク・ミュージックだ。ただし、これまで人々が知っていたパンクとは違う。

そしてダムドにとって変わらないのは、最上級の楽曲がいくつも揃っていることだ。どの曲にも限界までメロディが詰め込まれ、オンエアされる時間をほとんど無駄にしていない。キャプテンによる、ブレア流の帝国主義に対する痛烈な批判である「We’re So Nice」は、モータウン・ビートに乗せて曲が楽しげに弾み、この上なくキャッチーだ。

「結局のところ」と彼は述べる。「大事なのは曲なんだ。聴き手を惹きつける素晴らしいものを作ることだ。そこに込められたメッセージはおまけだよ。それぞれの曲では、今の馬鹿げた政治が生む狂気への反発が主になってる。俺がレコードを買い始めたのは、サマー・オブ・ラヴの運動が盛り上がっていた1967年だった。60年代から70年代にかけては、前向きな変化がたくさんあった――公民権運動、フェミニズム、原子力反対のデモ。ああいった運動は今どうなってしまった? 今、反戦の行進はどこでやってるんだ? 世界中に愛と平和を広げようとした、あの美しいヒッピーの夢はどうなってしまったんだ?」

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長い年月を経てもなお、経験と勘を頼りに自分たちの手で進めていくという手法――今さらやめるのは遅すぎる!――を採用し、ザ・ダムドはヴィスコンティと共にちょうど9日間で『イーヴル・スピリッツ』を録音した――「あの短い時間には1ヶ月分の中身があった」とセンシブルは身震いする。そこから先、ミキシングの作業が始まるとヴィスコンティがその本領を発揮した。ヴァニアンは言う。「今の時代は、テクノロジーが代替するようになっていて、それで色々とミックスしても大抵はつまらないものになる。トニーによるミックスを振り返ってみれば、遙かに複雑に絡み合っている。彼が俺たちのためにミックスしてくれたものには、奥行きと精巧さがあって、それが本当に嬉しい」

だからこそ、あらゆる水準に照らしても『イーヴル・スピリッツ』はロック史の偉人たちが打ち立てた基準を越えている。キャリアが終盤を迎えようかというときにこの傑作を生み出したことで、ザ・ダムドはさらなる未来に目を向けられるようになった。これまでもそうだったように、彼らが尊敬を集めるのは当然のことだろう。

「初めの頃は」とヴァニアンは悪びれもせず回想する。「俺たちが人としてどれほどイカレているかってことに注目が集まりすぎて、作ってる音楽の良さはちゃんと話題にならなかった。俺たちは“パンク”と呼ばれたけど、いつしかパンクは特定のことしかやらないニッチなジャンルになってしまった。俺たちはずっと、パンクはもっと懐が深くて、もっと変化しうるものだと信じてきたし、まさに何年もかけてそれを続けようとしてきたんだ」

「このバンドは常に先陣を切って前進してきた。今回のアルバムは、自分たちが今の時代にマッチしたバンドだということ、そして俺たちの可能性を示すものだと思ってる」

過去50年間で最も刺激的で影響力のある音楽を生み出してきたザ・ダムドからのメッセージは、価値のない主張ではない。より良い世界を夢見る思いがここにはある。