<連載>『ビートルズ’64』第2回目:アルバム紹介1

2024.11.15 TOPICS

 

<連載>『ビートルズ’64』

第2回目:アルバム紹介1
『ミート・ザ・ビートルズ』と『ザ・ビートルズ・セカンド・アルバム』

 
ビートルズのアメリカ上陸60周年を記念して、アメリカのキャピトル・レコードからの作品をまとめた8枚組LPボックス・セット『ザ・ビートルズ:1964 U.S.アルバムズ・イン・MONO』が11月22日に発売される(2枚組のドキュメンタリー・アルバム『ビートルズ物語』を除くLP6枚も、それぞれ単独作品として同時発売)。

連載2回目からは、それぞれの作品について具体的に紹介していく。その前に、ビートルズがアメリカの大手キャピトル・レコードと契約するまでの経緯についてまずは触れておきたい。

シングル「プリーズ・プリーズ・ミー」がイギリスで1位になることを予見していたプロデューサーのジョージ・マーティンは、アメリカでのレコード契約を視野に入れ、同シングルの発売2週間後の1963年1月25日、10年前にシカゴで設立されたアメリカのマイナー・レーベル、ヴィージェイと2年契約を結ぶ。他にリヴァティ、ローリーともシングル「プリーズ・プリーズ・ミー」の契約を打診したが、即座に却下されてしまう。そして2月25日に「プリーズ・プリーズ・ミー」、5月27日に「フロム・ミー・トゥ・ユー」がイギリス盤と同じカップリングで発売されたものの、前者が7月に96位、後者が89位とかろうじてチャート・インする程度。しかも「プリーズ・プリーズ・ミー」のイニシャル・オーダーは、わずか500枚だったという。

イギリスでのデビュー・アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』収録曲の発売権も持っていたヴィージェイは、その結果を受け、7月22日発売予定のアメリカでのデビュー・アルバム『イントロデューシング・ザ・ビートルズ』の延期(もしくは中止)を決めた。

この時点でイギリスでは爆発的な人気を誇っていたビートルズだったが、アメリカではまだまったく「売れないバンド」と見られていたのだ。9月6日に発売されたシングル「シー・ラヴズ・ユー」は、同じくアメリカの弱小レーベル、スワンから発売されたが、これもまったくヒットせず。63年のアメリカ・デビューは惨敗に終わった。アメリカで「シー・ラヴズ・ユー」までもがヒットに結びつかなかったのは、北米EMI傘下の大手レコード会社キャピトルとの契約が合意に至らなかったことがその背景にあった。

だが、マネージャーのブライアン・エプスタインはあきらめなかった。10月29日、アメリカの映画会社ユナイテッド・アーティスツとの間にビートルズの初主演映画の出演契約を結び、さらにキャピトルによる「抱きしめたい」の強力な宣伝活動の確約を取り付けるために11月6日に渡米。“アメリカで最も有名なテレビ番組”といわれた『エド・サリヴァン・ショー』の司会者エド・サリヴァンと会い、64年2月の出演を決めたのだ。

そして63年12月。ビートルズが商売になると判断したキャピトルは、アメリカでのレコード発売権の独占契約を交わす。ただし、キャピトルが提示した契約内容は、シングルとアルバム1枚ずつだったという。

12月初めに新聞(『ニューヨーク・タイムズ』)やテレビ(『CBSイヴニング・ニュース』)がビートルズの特集記事と特集番組を組み、キャピトルも宣伝に5万ドルを費やした。宣伝効果による反響も大きかったため、キャピトルからの第1弾シングル「抱きしめたい」は、当初の64年1月13日から63年12月26日に発売が早められた。

その結果、発売3日後に25万枚、1週間余りで100万枚を売り上げ、64年1月18日付で45位にランク・イン。翌週には一気に3位まで上昇し、3週目(2月1日付)に全米初の1位を獲得した。

そうした中、キャピトルからのデビュー・アルバム『ミート・ザ・ビートルズ!』は、「抱きしめたい」がチャート・インした直後の64年1月20日に発売された。全12曲の内訳は、イギリスのセカンド・アルバム『ウィズ・ザ・ビートルズ』からの9曲に、キャピトルからのデビュー・シングルの2曲――「抱きしめたい」と「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」、それにイギリスのシングル「抱きしめたい」のカップリング曲「ジス・ボーイ」である。

ビートルズのアルバムは、イギリスでは原則としてシングル曲はアルバムには収録しないという方針だったが、アメリカでは、シングル曲をいわば“アルバムの顔”として収録することが慣例となっていた。しかも曲数は、イギリスはほぼ14曲収録だったのに対し、アメリカはほぼ11曲である。

またアメリカでは、ジョージ・マーティンと旧知の間柄で、海外アーティストの窓口役にもなっていたキャピトルのA&R担当のデイヴ・デクスター・ジュニアがイギリスから送られてきたマスターテープに独自のミックスを施したり、アメリカでの発売を急ぐ必要があった際には、最終ミックス前の曲が収録されたりすることもあった。ゆえに、イギリスのオリジナル・アルバムとは収録曲もミックスも異なる、マニア泣かせの独自の作品が数多く生み出されたのだった。

キャピトルからのデビュー・アルバム『ミート・ザ・ビートルズ!』は、イギリスのデビュー・アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』からは「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」を除いて1曲も収録されていない。先に触れたように、アメリカでの販売権をヴィージェイが持っていたためだ。

ヴィージェイはキャピトルの戦略に便乗し、棚上げにしていたアルバム『イントロデューシング・ザ・ビートルズ』を『ミート・ザ・ビートルズ!』の10日前の1月10日に発売することを決め、さらに63年にはヒットしなかった2枚のシングルのA面曲をカップリングした「プリーズ・プリーズ・ミー/フロム・ミー・トゥ・ユー」も1月30日に再発売した。

日本も、東芝音楽工業から、日本独自の編集盤『ビートルズ!』が、こちらは14曲入りで64年4月15日に発売されたが、いずれにしても、アメリカのファンは、『ミート・ザ・ビートルズ』を、「抱きしめたい」が収録されたデビュー・アルバムとして認識していたということになる。

収録曲を見てみると、12曲中、オリジナルが11曲を占めており、カヴァー曲は「ティル・ゼア・ウォズ・ユー」のみと、オリジナル色の強い構成となっている。64年2月に3回出演した『エド・サリヴァン・ショー』で演奏された曲が5曲――「抱きしめたい」「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」「ジス・ボーイ」「オール・マイ・ラヴィング」、そして唯一のカヴァー「ティル・ゼア・ウォズ・ユー」。映画『ハード・デイズ・ナイト』で使われた曲は4曲――「オール・マイ・ラヴィング」「ドント・バザー・ミー」「アイ・ウォナ・ビー・ユア・マン」、そしてジョージ・マーティン・オーケストラによる「ジス・ボーイ(リンゴのテーマ)」。

ビートルズのアメリカ上陸に際し、ブライアン・エプスタインはキャピトル・レコードとユナイテッド・アーティストと“いい塩梅”で手を結んでいたことが、『ミート・ザ・ビートルズ』の収録曲からもうかがえる。

『ミート・ザ・ビートルズ』は、アルバム・チャートで11週連続1位を記録し、1964年度年間ランキング8位、1965年度年間ランキングでも31位を記録した。

続くキャピトルからの2作目となった『ザ・ビートルズ・セカンド・アルバム』は、『ミート・ザ・ビートルズ』の3か月後の64年4月10日に発売された。

収録曲は11曲となり、『ミート・ザ・ビートルズ』に未収録だった『ウィズ・ザ・ビートルズ』からのカヴァー5曲――「ロール・オーヴァー・ベートーヴェン」「ユー・リアリー・ゴッタ・ホールド・オン・ミー」「デヴィル・イン・ハー・ハート」「マネー」「プリーズ・ミスター・ポストマン」、イギリスの4枚目のシングルで63年にスワンが販売権を持っていた「シー・ラヴズ・ユー」と「アイル・ゲット・ユー」、 同じくヴィージェイが販売権を持っていた「サンキュー・ガール」(イギリスの3枚目のシングル「フロム・ミー・トゥ・ユー」のカップリング曲)、イギリスの6枚目のシングル(当時の最新シングル)「キャント・バイ・ミー・ラヴ」のカップリング曲「ユー・キャント・ドゥ・ザット」、さらにイギリスでは6月19日にEPとして発売された「ロング・トール・サリー」と「アイ・コール・ユア・ネーム」が、一足先に収録されている。

全11曲中オリジナルは半分以下の5曲。「シー・ラヴズ・ユー」以外はほとんどR&B色の強いカヴァー曲やシングルB面曲という構成で、通好みの内容と言える。当時のアメリカのファンは、『ミート・ザ・ビートルズ』でオリジナル色の強い“表の顔”を楽しみ、『ザ・ビートルズ・セカンド・アルバム』で、チャック・ベリー、リトル・リチャード、スモーキー・ロビンソンなど黒人音楽への造詣も深い“裏の顔”を知ったに違いない。

『ザ・ビートルズ・セカンド・アルバム』は、前作『ミート・ザ・ビートルズ』に代わってアルバム・チャートで5週連続1位を記録し、計55週チャート・インを果たした。