Biography

Band -Perry ,-The -Official -ph

「パパはローリング・ストーンズを聞かせて私たちを寝かしつけてくれた。ママはロレッタ・リンで起こしてくれた。だから、私たちには本物がわかってるのよ」――キンバリー・ペリー

  カントリーとロックンロール、その両方への愛を両親から受け継いだ彼ら、ザ・バンド・ペリーには――キンバリーとリード、ニール・ペリーの三人だ――昔ながらのアメリカン・ミュージックの鮮やかな赤い血が流れている。

  三人は小さい頃から音楽を演奏し、作りたいという気持ちに突き動かされてきた。米国南部、アラバマ州モバイルで暑い夏を過ごしながら、やらせてくれるところならどこでも、埃っぽい酒場でも教会でも演奏してきたのだ。キンバリーが初めてギブソンのギターを肩にかけたのは――高校での最初のバンドでフロントを務めた――15歳の時。当時10歳だったリードと、まだ8歳だったニールはそのバンドの機材係だった。姉のためにギターの弦を張り替え、シンバルを磨くという仕事はしばらくするとその魅力を失い、二人は自分たちのバンドを結成し、キンバリーのバンドの前座として演奏するようになった。

 「僕のベースは、10歳の時から僕の腰にくっついてるんだよ」とリードは言う。「友だちのほとんどがリトルリーグで野球をやってる間、僕は部屋でローリング・ストーンズとザ・ビートルズのベースラインを練習してた。本当に、それしか知らないんだ」。

 別のバンドをやっていた時も、三人は夜は家で一緒にプレイした。「玄関のポーチに座って、ハンク・ウィリアムズやボビー・ジェントリーの歌を三部コーラスにして歌ったのを覚えてるわ。アラバマの蚊を追い払いながら、自分たちの音楽を通じて、昔のカントリー・ミュージックのスピリットを呼び出そうとしてた」。そして、その瞬間は2005年7月にやってきた。何年も一緒に曲を書いていた兄弟は、三人で一つのバンドを結成することにしたのだ。ザ・バンド・ペリーはその年、ザ・コカコーラ・ボトリング会社に呼ばれ、〈ニュー・フェイセズ・オブ・カントリー(カントリーの新顔)〉ツアーの全日程でオープニングを務めることになる。

 数年間ライヴでサウンドを磨いた後、2008年夏、ザ・バンド・ペリーは長年ガース・ブルックスのマネージャーを務めていたボブ・ドイルと知り合う。ボブとジョッシュ・ペグラムと組むことにしたザ・バンド・ペリーは、2008年の夏と冬の間ナッシュビルで曲を書き、最初のカントリー・レコーディング・セッションへの準備を進めた。

 「僕ら三人は作曲する部屋にそれぞれの強みを持ち込むんだ」とニールは語る。「キンバリーはメロディと歌詞をかばんにつめて持ってくる。リードのお尻のポケットにはいつも、グレイトな音楽的アイデアが入ってる。僕はユーモアと、すべてを一つにまとめる糸を持ってるんだよ」。

 レコーディングされた新曲はリパブリック・ナッシュビルのCEOと社長であるスコット・ボーチェッタとジミー・ハーネンの耳にとまり、2009年夏にはこの新しいレーベルと契約することになった。

 ザ・バンド・ペリーについて語る時、このトリオは自分たちが家族であることの重要性を強調する。「リードとニールと私は、音楽的な家系と遺伝子を受け継いでいるの」とキンバリー。「みんな同じ名作に親しんで、同じレシピから料理を作って。でもいろんなことが似ているのと同時に、私たちの魔法が生まれてくるのはそれぞれの違いからだと思う。三人で座って一緒に曲を書く時、私たちはそれぞれ独自の視点や偶然を通じて、一番面白い調合の仕方を見つけ出すのよ」。

 「親友をも超える固い結び付きが僕ら三人にはある」とニール。「家族が歌うヴォーカル・ハーモニーは、作ろうと思って作れるものじゃない。それに僕らは、人生や音楽業界の紆余曲折を一緒に乗り越えてきて、そのことをわかってるんだ。お互いを守ってるんだよ」。

 「血は水よりも濃いからね。音楽業界はタフだったりもするけど、僕ら三人は人生を音楽に捧げることだけじゃなく、一緒に人生を生きることを誓ってるんだ」とリード。「それをお互いに了解しているおかげで、安心して、自由に音楽を作れる。民主主義的だし、ここが安全な避難所になってるんだよ」。

 「自分たちの音楽を見つけるまで、私たちは長い道のりを歩いてきたわ」とキンバリー・ペリーはにっこり笑う。「だから聴く時も、末長く、ラウドな音で聴いてほしいの。ザ・バンド・ペリーはここにいて、とにかく言いたいことがめちゃくちゃにたくさんあるんだから!」。