BIOGRAPHY

テレサ・テン(Teresa Teng)/ 鄧麗君

本名:テン・リー・チュン
鄧麗君の読みは北京語で「デン・リーチュン」。中国圏以外での芸名「テレサ・テン」は、クリスチャン・ネームの“テレサ”を日本デビュー時にそのまま採用したもので、「マザー・テレサ」に由来し本人が名付けた。

生年月日:1953年1月29日
出身地:台湾雲林県龍岩村 


アジアでのBIOGRAPHY

1949 国民党軍人の父と共に一家は大陸から台湾へ渡る。その後、父は退役し商売を始める。
1953(0) 1月29日台湾・雲林県龍岩村で生まれる。本籍は河北省。
1959(6) 6歳の時に台北に転居
※この頃、歌好きの母の影響で歌を好み、ラジオで美空ひばりなのど曲を聴きよく歌っていた。
1964(11) 中華電台(ラジオ局)の素人のど自慢で優勝。各地のコンテストでも優勝し注目される。
1966(13) 台湾テレビの専属となる。
19367(14) 中国テレビの専属となり、レギュラー番組をもつ。
台北のクラブ「巴黎」のステージで70日間ロングラン記録樹立。
台湾、宇宙レコードよりデビュー。
1969(16) シンガポール首相夫人賛助によるチャリティーコンサートに招かれ出演。
第一回主演映画「謝謝総経理」撮影
1970(17) 映画と共に香港進出
1971(18) 東南アジアツアー開始(戦時中のベトナムにも行く)
香港で白花湯チャリティープリンセスに選ばれる。(歴代最年少)
2本のテレビドラマに出演(うち1本は主演)
香港、楽風(ライフ)レコードと契約。
1972(19) 香港10大スターに選ばれる。
1973(20) 主演映画「歌迷小姐」
「千言萬語」「海韻」等が大ヒット
1975(22) 香港ポリドールと契約
「小城故事」「?怎麼」「甜蜜蜜」等、各地で大ヒット。
この年、香港で2枚のアルバムがベストセラーとなる。
1976(23) 香港で初めてのソロコンサートを行なう。
1980(27) 9月「何日君再來」(78年頃録音)が各地で大ヒット。
台湾より軍の慰問を条件に帰国。
10月台北国父記念館でコンサート。
香港で初の広東語アルバム発売。
1981(28)

  ↓

1982(29)

※この頃、テレサ・テンの「何日君再來」が禁止されている大陸で隠れて聴かれ、ヤミで広がっていく。
逆に台湾では、テレサのカッセトテープを大陸に向けて風船に入れ飛ばし、自由の象徴としてアピールした。
精力的にコンサートを行い、またアルバムも大ヒット。
東南アジア一帯での人気は不動のものとなる。
大陸では“小鄧(テレサ・テン)の人気は、老鄧(鄧小平)を圧倒する”または“中国の昼は老鄧が支配し、夜は小鄧が支配する”と言われる。
1983(30) デビュー15周年。
2月2日名盤「淡淡幽情」発売
(この年、香港のレコード大賞に当たる「レコード・オブ・ザ・イヤー」獲得。
香港で2枚目の広東語アルバム「浪漫人生路」発売。
(タイトル曲は中島みゆきの「ひとり上手」のカバー)
※中国大陸で異常人気。政府は精神汚染一掃キャンペーンの一環として「何日君再來」だけでなく“セクシー過ぎる”という理由でテレサ・テンの歌を全面禁止。
テープを回収破棄するだけでなく持っているだけで財産の3分の1を没収された例もある。
12月“15周年コンサートツアー”
香港コロシアムにて連続6日間コンサート。観客動員数(10万人)・費用総額・チケット完売のスピードなど、香港の記録を全て更新。(観客の2割は大陸から来た)
1984(31) 台北(2日)・シンガポール・マレーシアにてコンサートツアー。(香港に続き大成功)
この頃はシンガポールを生活の拠点にしていた。
※大陸では徐々にテレサ・テン解禁へ方向転換せざるおえなくなる。
(台北、中華体育館でのコンサートが大陸でも放送される)
台湾の“十大傑出女青年”に選ばれる。
1985(32) 1月29日バンコク滞在中、突然“北京青年報”の電話インタビューを受ける。
※この頃、シンガポールの大財閥ロバート・コークJr氏との結婚の噂。
1986(33) ※中国大陸で解放政策の中、鄧麗君の自選歌集が出版される。
またテレビで「鄧麗君の故郷を行く」という番組が製作される。
この数年は「つぐない」「愛人」など日本のヒット曲を中国語に録音し直した曲がヒット。
1987(34) 「時の流れに身をまかせ」の中国語版「我只在乎你」が大ヒット。
1989(36) ※香港の拠点を移し、スタジオを持つ準備をしていた。
この頃、大陸より北京・上海等でのコンサートの依頼がある。
※4月中国本土では解放政策を推進した胡耀邦総書記死去。これをきっかけに北京で学生を中心とする民主化運動が盛り上がり、天安門広場で民主化を要求するストライキが起こる。これに対し政府は軍を出動させ武力による鎮圧を計る。
※5月27日香港ハッピーヴァレー競技場にて約30万人を集めた天安門学生支援8時間マラソンコンサートが行われた。出演を躊躇していたテレサは自宅でテレビを見て堪らず飛び入り参加。中共に禁止されている「我的家在山的那一辺」というフォークソングを歌い、最も熱い支持を受けた。その時の格好はノーメイク、サングラスで自ら「民主万歳」と書いたは鉢巻、「反対軍管」と書いたプラカードを提げていた。テレサの出演後、一般の寄付金が急増し(約2億円)、翌日200万人が参加した民主化要請デモへ繋がった。テレサも積極的にこのデモに参加した。
1990(37) 5月父親死去
1991(38) 6月香港で“死亡説”流れ、日本にも伝わる。
1992(39) 久々の新曲を含むアルバム「難忘的」を発売。
1994(41) 6月台湾、高尾で行われた軍のイベントに出演。40分の慰問コンサート。
(台湾全土にTV中継で放送される)
1995(42) 5月8日タイ北部チェンマイに休暇で滞在中、気管支喘息の発作による呼吸困難で死去。
5月28日台北市第一殯儀館にて国葬並みの葬儀が行われた。関係者以外にも約3万人の一般参列者が集まる。遺体は中華民国旗と民主党旗に包まれ、台北市北方の海辺を望む金山公墓に埋葬。墓地の周囲は、鄧麗君記念公園の建設予定。また政府より国民栄誉賞に当たる「華夏一等褒賞」が授与された。

日本でのBIOGRAPHY

1973(20) 日本のポリドールと契約
1974(21) 3月1日「今夜かしら明日かしら」で日本デビュー(オリコン最高チャート75位)
7月1日第2弾シングル「空港」発売
「空港」のヒットで日本レコード大賞新人賞他、多くの新人賞を受賞
1975(22) 4月22日ヤクルトホールにて日本初ライブ
※「雪化粧」「夜のフェリーボート」「ふるさとはどこですか」等がヒット
1979(26) 2月パスポート事件(歌手活動休止)
1981(28) 日本のポリドールと契約切れ
1983(30) 6月トーラスレコードへ移籍
6月1日アルバム「旅人」発売
6月21日シングル「ふたたびの」発売(この年はリリースのみで来日はなかった)
1984(31) 1月21日シングル「つぐない」発売
2月25日5年ぶりの再来日
2月27日赤坂ニューオータニ・クリスタルルームにてパスポート事件の謝罪含め、日本での活動再開を表明する記者会見兼ミニライブを行い、本格的日本再デビュー
この2~3ヶ月に一度のペースで来日し、TV・ラジオ・取材等精力的にキャンペーンを行う。また有線放送のリクエストも増え続け4月末に全国チャートベスト10入り、8月には1位獲得。
11月1日アルバム「つぐない」発売
12月1日中国語アルバム「償還」発売
日本有線大賞、全日本有線放送大賞共にグランプリ受賞
1985(32) 2月21日シングル「愛人」発売
3月1日アルバム「愛人」発売(ロンドン・アビーロードスタジオ録音)
※前年同様、来日プロモーションを行いつつ有線放送のリクエストチャートが上昇して行く。
全国有線チャート3月後半ベストテン入りし、5/20~8/19、14週連続1位の記録樹立
11月1日再録シングル「夜のフェリーボート / 女の生きがい」発売
12月15日NHKホールにてコンサート(本格的コンサートとしては日本で唯一)
12月21日中国語シングル「愛人 / 償還」発売
日本有線大賞、全日本有線放送大賞ともに2年連続受賞
12月31日NHK紅白歌合戦初出場(曲「愛人」)
1986(33) 1月22日アルバム・映像「テレサ・テンコンサートライブ」発売
(1/22カセット、2/1CD・VHD、3/5LD発売)
2月21日シングル「時の流れに身をまかせ」発売
7月31日アルバム「時の流れに身をまかせ」発売
※この年も精力的に来日し、有線も4月後半にベスト10入りし、5~8月間に計9週1位獲得
11月21日シングル「スキャンダル」発売
11月11日TBS-TV「子供が見てるでしょ」に本人役でちらりと出演。
12月20日中国語シングル「時の流れに身をまかせ」発売
12月25日中国語アルバム「酒酔的探戈」発売
日本有線大賞・全日本有線放送大賞、共に史上初3年連続グランプリ受賞。
日本レコード大賞金賞受賞
12月31日NHK紅白歌合戦出場(曲「時の流れに身をまかせ」)
1987(34) 6月2日シングル「別れの予感」発売
7月5日アルバム「別れの予感」発売
12月日本有線大賞有線音楽賞受賞
1988(35) 1月25日シングル「恋人たちの神話」発売
(関西テレビ・フジテレビ系“月曜サスペンスシリーズ―女性作家サスペンス”テーマ曲)
7月全日本有線放送大賞上半期グランプリ「別れの予感」で受賞
1989(36) 3月8日シングル「香港~Hong Kong~」発売
アルバム「浪漫主義」発売
6月24日予定していた来日キャンペーンを中止。“今は、香港を離れられない。”
(天安門広場“血の日曜日”事件等に由来して)
6月21日香港より衛星中継でテレビ朝日系「郷ひろみの宴ターテインメント」に出演。
集まったアラン・タムなどの香港スター達に囲まれ、天安門事件への抗議と平和のメッセージを送る。
7月26日シングル「悲しい自由」発売
10月、10ヶ月振りの来日、ジェフ・ベック、ロッド・スチュアートとの共演など国際的に活躍する中国系アメリカ人ベーシスト、フィル・チェン氏を同行。
11月24日TBSテレビ「テレサ・テン15周年スペシャル」放送(10月に収録)
1990(37) 3月28日シングル「涙の条件」発売(テレビ朝日系“火曜ミステリー劇場”テーマソング)パリ録音
アルバム「’90ベストコレクション~涙の条件~」発売
第5回日本ゴールドディスク大賞アルバム賞・歌謡曲演歌部門受賞
1991(38) 2月27日シングル「悲しみと踊らせて」発売
3月27日アルバム「’91悲しみと踊らせて~ニューオリジナルソングス~」発売
5月30日新星堂オーマガトキレーベルより「淡淡幽情」日本発売
7月、1年9ヶ月ぶりの来日
12月31日NHK紅白歌合戦(曲「時の流れに身をまかせ」)
1992(39) 5月27日シングル「愛の陽差し~アモーレ・ミオ~」発売
7月20日キャンペーンで来日
7月24日広島平和音楽祭出演(8/24オンエアー)
10月28日中国語ベストアルバム「莫忘今宵」発売
6枚組BOX「鄧麗君精選全集」発売
11月18日シングル「夕凪」発売
1993(40) 2月4日中村とうよう氏監修による中国語旧録音曲復刻シリーズ
「鄧麗君中国語名唱選シリーズ」スタート(①~⑧発売・現在製造中止のものも有り)
4月28日シングル「何日君再來」(ニューバージョン)発売
(’93金鳥蚊取り線香CMソング)
5月12日シングル「あなたと共に生きてゆく」(メナード化粧品BMソング)
11月、1年4ヶ月振りの来日
1994(41) 2月23日シングル「別れの予感」再発売
3月2日シングル“ベストカップリングシリーズ”3タイトル同時発売
3月NHK出演の為来日
5月TBS-TV香港ロケ出演
11月9日シングル「夜來香」発売
10月23日最後の来日
10月24日NHK「歌謡チャリティーコンサート」出演(於宮城県民会館11/23オンエアー)
11月16日アルバム「テレサ・テン全曲集’95~夜來香~」発売
1995(42) 5月8日タイ北部チェンマイに休暇で滞在中、気管支喘息の発作による呼吸困難で死去。
6月7日追悼盤緊急発売
アルバム「テレサ・テン(鄧麗君)スーパーセレクション」
中国語アルバム「鄧麗君全曲集」同時発売

その他の国でのBIOGRAPHY

1979(26)
  ↓
1980(27)
’46年アメリカへ渡る。サンフランシスコ→ロスアンゼルスに住み、USC(南カルフォルニア大学)、USLA(カルフォルニア大学ロスアンゼルス校)にて、英語・数学・生物学を専攻。
ニューヨーク・リンカーンセンター、ロスアンゼルスミュージックセンターなどアメリカ国内及びカナダでコンサートを行なう。~10月まで留学
1983(30) 2月ラスベガスのシーザースパレスにてフランク・シナトラなどと並びワンマンショーを開催。
“チャイニーズスター”として大々的に紹介される。
この時、テレサの声を称えてCrystal Clear(クリスタル・クリアー)と表現される。
1985(32) この頃、毎年ロンドンの大学のサマースクール等に通い“学生”をしながらヴォイストレーニングも行なっていた。
1989(36) 6月4日天安門広場“血の日曜日”事件
11月パリへ移住。アパートを貸りて生活する。
1990(37) 6月パリ市内シャンゼリゼ通りの近くにマンション購入。本格的にパリに落ち着く。
1992(39) 6月パリ、エフェル塔の下にあるトロカデロ広場にて天安門事件3周年集会に参加、他の参加者と共に涙ながらに「血染的風来」という曲を歌った。
1995(42) 5月8日付、米ニューヨークタイムズ紙にて死亡記事掲載。
5月20日付、米ビルボード誌が表紙で写真と見出し、扉に追悼記事を掲載。