BIOGRAPHY

THE AIRBORNE TOXIC EVENT / ジ・エアボーン・トクシック・イベント


Bio (L→R) 
Daren Taylor(Drums) ダレン・テイラー
Noah Harmon(Bass) ノア・ハーモン
Anna Bulbrook(Key&Viola) アナ・バルブルック
Steven Chen(Guitar) スティーヴン・チェン
Mikel Jollett(Guitar&Vo.) マイケル・ジョレット

 

2008年1月31日、ジ・エアボーン・トクシック・イベントがシルヴァーレイクのSpacelandのステージに立つと、400人規模の会場は大騒ぎとなった。入り口まで客はあふれ、外では案内係に中へ入れてもらうために人々が懇願していた。会場の外には400人ほどがシルヴァーレイク通りに長い列を作り、会場を四方から囲んでいた。

この日は伝統あるEastsideの会場で5週間開催したショーの最終日だった。そしてこの1ヶ月強の間、彼らはリハーサルとパフォーマンス以外の時間をすべてEagle Rockのスタジオでファースト・アルバムの収録にあてていた。ちょうど最後の夜の1週間前、アルバムに収録された胸の張り裂けるような”サムタイムズ・アラウンド・ミッドナイト”が全米ナンバーワンのロック専門ラジオ局KROQに頻繁にかかるようになったのだ。翌日には著名インディーズ専門ラジオ局Indie 103.1も後いた。バンドにはレーベルもマネージャーも広報もラジオ専門のプロモーターもついていなかった。どちらの局もまだ出来上がってから3週間もたっていない彼らの音をマスタリングされていないmp3の状態で流していたのだ。

ステージでヴォーカルのマイケル・ジョレットとギターのスティーヴン・チェンの会話はこんなものだったであろう。

チェン:「これマジで変だよ」
ジョレット:「同感だ」

一体なぜこんなことになったのか?レーベルも広報もマーケティングの専門家もついていないバンドが結成してたった1年で、どうやってこれほどの人気を獲得することができたのだろう?

ちょうどその2年前、ジョレットがまだ初めての本の執筆活動に熱中していたとき、彼は人生最悪の1週間を過ごしていた。たった7日の間に彼は自分の母親が癌に侵されていることを知り、自らは自己免疫疾患と診断される。そして長年連れ添った恋人との別れを経験し、母親の看病で病院に泊り込んでいた矢先、肺炎にかかってしまったのだ。

「僕の中で何かがはじけたんだ」ジョレットは言う。「なんていうか、すべてのことがどうでもよくなってしまった。音楽以外はね。」

1ヶ月ほどもやもやと過ごした(母親に癌が宣告された朝から彼は1日に2箱は吸っていたタバコもやめた)執筆家の元新聞記者は、とにかく音楽だけを書きたいという衝動に駆られたのだ。そしてその通りに彼は1人自分の部屋にこもり、1年間書き続けた。自分の本も書き続けたが(彼の作品の一部は2008年6月にMcSweeney’sに抜粋されている)、あるとき彼は本よりも音楽向きの詩を書いていることに気づき、そのままバンドを探しに行った。

ダレン・テイラーはFresnoからロスに戻ってきたばかりで、やることを探していた。26才の元パンク・ロックのドラマーは友人を通してジョレットと出会い、お互いにロックの雑学クイズを出し合い、少しだけ演奏をしてバンドを結成することを決めてしまう。2人は4ヶ月間ロスのダウンタウンの倉庫に缶詰状態となり、ビートやブレイクの特訓、マイクに向かって大声で歌い、足を踏み鳴らし、飲み続けた。

数ヶ月が経ち、2人が2ピースバンドという選択肢を考えていた頃に、出会ったのがノア・ハーモンだ。彼もまたパンク・ロックの信者だった。ハーモンは名高いカリフォルニア芸術大学でジャズのダブル・ベースの学位をとったばかりで、イースト・ロサンゼルスで子供たちに音楽を教えていた。彼はパンクとジャズとバロック音楽が融合した、非常に珍しいタイプだった。ブラムスとチャーリー・パーカーとミスフィッツの中間と言っていい。ある日ジョレットは彼にエレクトロニック・ベースを弾けるか聞くと、弾けるという答えがかえってきたのだ。

次がアナ・バルブルック。彼女はボストン出身でクラシック音楽からバイオリンを学んできた。ジョレットとはタコスの屋台で夜中の2時に出会い、彼は彼女にヴィオラをバンドで演奏してくれるか聞いた。23年の人生のうち、10年をシンフォニーで費やしてきた彼女は非常に多彩な能力をもっており、歌もピアノも弾けることが判明したのはある夜のふとした弾みだったのだ。

最後に加わったのがスティーヴン・チェンだ。彼はジョレットがずっと平穏な生活をしていた頃からの知り合いで、ある日キーボードを弾いてくれと呼ばれるが、彼はギターを弾きたいと主張する。数週間の東京滞在からロスに戻った後、バンドの正式なメンバーになった。

ジ・エアボーン・トクシック・イベントというバンド名はポストモダン文学家Don Delicoによる小説「White Noise」に登場する主人公が、化学物質の爆発に巻き込まれ、生死の危機に直面する(the airborne toxic event)ところから引用された。

長い歳月を下積みで終わるバンドもいれば、最初から大成功するバンドもある。ジ・エアボーン・トクシック・イベントが最初のショーを行うためEcho ParkにあるEchoに到着すると200人ほどの観衆に迎えられた。バンドはショーの前にスクラッチのレコーディングを地元メディアに送っており、バンドの激しくも文学的なソングライティング、鋭いギターリフ、力強いリズムセクションの奇妙な組み合わせはみんなをひきつけたのだ。

ジ・エアボーン・トクシック・イベントの人気は順調に上昇し続け、ショーは数を重ねるたびにその規模が拡大、西海岸からシアトル、ポートランド、サンフランシスコ、サンディエゴでも開催してゆく。ニューヨークには2回、英国にも1回訪れている。全国展開のメディアも彼らが自主制作したデビューEPに目をつけ始め、「Rolling Stones」誌は彼らをMy Space登録アーティスト中注目のトップ25に選んだ。そしてLAタイムズは2008年もっとも注目するべきバンドだと書いた。(この栄誉には過去2年、Cold War Kids とSilversun Pickupsが選ばれている)

彼らのエネルギーあふれるライヴは感情を表に出さないイースト・ロスアンゼルスのインディ・ロックファンの心をつかむまで、そう時間はかからなかった。多くは踊り、ある者は涙を流した。そして全員が一緒に歌った。

ハーモンはベースをチェロのように奏で、テイラーは廃品置き場から拾ってきた車のボンネットの上で飛び跳ねた。30個のタンバリンを観客に向かって投げる、ハーモンやバルブルックが拍手の渦の中に飛び込む、ジョレットが泣き声を出すとそれに観客が同じように応えるというのは、このバンドにとってはごく普通のことであった。

5ピースバンドが初年度に行ったいくつものショーで味わった強烈なエネルギーによる カタルシスと開放感を彼らはスタジオでもとらえようと試みたのだ。

友人のPete Minと組み、彼のEagle Rockのスタジオでバンドは半年間ずっとミックス、リミックスとリバーブをやった。

KROQ、LAタイムズとIndie 103.1による大々的なエアプレイとマスコミへの露出により、アルバムはA&Rのチャートを急上昇する。数多くのメジャーレーベルからもオファーが殺到した。しかしバンドはすぐに現代の音楽業界を取り巻く表と裏の事情を学び、彼らなりの結論に達したのだ。それは自分たちの音楽を持つこと、自分たちで運命を決めること、そしてファンに誠実でいることだ。

新生のインディーズレーベルのMajordomoが夢のようなパートナーシップを持ちかけると、(TBDと契約したレディオヘッズと同じようなもの)彼らは躊躇なくそれを受け、すべてのメジャーレーベルとの契約を捨てたのだ。

2年間の悲劇とエキサイトメントな日々、そして血の出るような努力の結果、2008年8月5日に彼らのデビューアルバムはリリースされた。

その後、彼らの評判は世界中に広がっていく、そして2009年Island Recordsと契約。

いいよ7月日本デビューを果たす。