Biography

 双子の兄弟、チャック・パノッゾ(ベース・ギター)とジョン・パノッゾ(ドラムズ)、デニス・デ・ヤング(キーボード、ヴォーカル)を中心に結成。1972年にレコード・デビューしたシカゴ出身のロック・バンド。当時のメンバーはパノッゾ兄弟とデニスにジョン・クルルスキー(ギター、オートハープ、キーボード、ヴォーカル)、ジェイムズ・ヤング(ギター、ヴォーカル)の5人だった。地元のレーベル、ウッデン・ニッケル・レコーズからのリリースとなった4枚のアルバム――『スティクス』(1972年)、『レディ/スティクス・セカンド』、『サーペント・イズ・ライジング』(共に1973年)、『ミラクルズ/スティクスIV』(1974年)はいずれも際立った成績を収めるには至らなかったものの、英プログレッシヴ・ロック勢の影響を感じさせる彼らの音楽は一部で高い評価を受け、その人気と知名度を次第に高めていく。そうした中、ウッデン・ニッケルは1973年のシングル「レディ」を再リリース。このレコードはゆっくりとチャートを上がり、1975年春に米6位のヒットになっている。

 これを追い風に、新たにA&Mと契約したスティクスは『分岐点』(1975年)を発表。先鋭的な音楽性はそのままに”ポップ化”を推し進めた同作は米58位の好成績を残した。コンポーザー/プレイヤーとして、デニス、ジェイムズに劣らない主要な役割を果たしていたジョン・クルルスキーは同作を最後に脱退するが、バンドには元MS・ファンクのトミー・ショウ(ギター、ヴォーカル)が加入。これをもってスティクスの黄金期のラインナップが完成。新生スティクスの最初のアルバム『クリスタル・ボール』(1976年)は米66位というまずまずの結果に終わったが、『グランド・イリュージョン~大いなる幻影』(1977年)からシングル・カットされた「永遠への航海」は米8位を記録。これに押され、『グランド・イリュージョン~大いなる幻影』もまた米6位の好成績を残す。以降の彼らの快進撃はよく知られるところだろう。続く『ピーシズ・オブ・エイト~古代への追想』(1978年)もまた米6位、翌1979年の『コーナーストーン』は米チャート2位まで上昇。同作からは「ベイブ」のNo. 1ヒットも生まれ、1981年の『パラダイス・シアター』はLPチャートの首位をマーク。同作所収の「ザ・ベスト・オブ・タイムズ」も米3位のヒットとなり、スティクスは、その人気と評価をいよいよ揺るぎないものにしている。 

 暫しのブランクを挟み(この間に行ったツアーの一環として初の来日公演も実現している)、1983年に発表された『ミスター・ロボット』もまた米3位、シングル・カットされた「ミスター・ロボット」と「愛の火を燃やせ」はそれぞれ3位、6位まで上昇。明けて1984年にリリースされたライヴ盤『コート・イン・ジ・アクト』も米31位をマークするが、これを待たずしてグループは活動を停止する。スティクスが、『ミスター・ロボット』以来となるオリジナル・アルバム『エッジ・オブ・ザ・センチュリー』をリリースしたのは1990年10月のことで、トミーに代わり、グレン・バートニック(ヤン・ハマーらとの共演で知られている)が参加した同作からも、「ショウ・ミー・ザ・ウェイ」(米3位)など3曲のヒット・シングルが生まれている。

 その後、再びバンドは沈黙するが1996年にはトミーの復帰とコンサート・ツアーの再開がアナウンスされる。最盛期のメンバーで行われるはずだった一連の公演は、その後のジョン・パノッゾの急死によって彼の逝去を悼むものになってしまったが、名手、トッド・サッカーマンの代打起用も奏功し好評の裡に終了。1997年にはこの際の模様を収録した『RETURN TO PARADISE』、1999年にはトッドを含むラインナップによるスタジオ・アルバム『BRAVE NEW WORLD』がリリースされる。後者のリリースから間もなくデニス・デ・ヤングの脱退が公けになるが、グループはローレンス・ゴーワン(キーボード、ヴォーカル)を後任に迎え活動を続行。現在(2016年)に至るまで、断続的にツアーやレコーディングを行ってきた。なお、2003年のアルバム『CYCLORAMA』では、健康上の理由などからフル・タイムでの活動が困難になったチャックの穴をグレン・バートニックが埋めたが、同作の発表から間もなく元ベイビーズ~バッド・イングリッシュのリッキー・フィリップスと交代している。