BIOGRAPHY
スティーヴ・ミラー・バンド / Steve Miller Band
4歳にして初めてギターを手にし、5歳でかのレス・ポールから手ほどきを受けたスティーヴ・ミラーは、10歳のときに夫婦ジャズ・デュオのディック&キズ・ハープのバッキングを務めたあと12歳のころにマークスメン・コンボを結成してセミ・プロとしての活動を始めた。その後はアーデルズ~ナイトレインズ(またはフェビュラス・ナイト・トレインズ)として演奏を続けたが、父の勧めもあって、コペンハーゲン大学に留学。しかし、音楽の道を諦めきれなかった彼は、帰国後にシカゴへと向かい、マディ・ウォーターズらブルース・マンのバッキングを担当しつつ、自身のバンドであるワールド・ウォー・スリー・ブルース・バンドを率いてその腕を磨いていった。
そんなときに出会ったのが、のちにエレクトリック・フラッグで活躍するキーボーディストのバリー・ゴールドバーグで、意気投合したふたりはゴールドバーグ・ミラー・ブルース・バンドを結成。ほどなくしてエピック・レコーズと契約した彼らは、1965年10月に「The Mother Song / More Soul, Than Soulful」を発表してレコード・デビューを果たした。しかし、バンドは短命に終わり、テキサス大学へと復学した彼が目をつけたのが、当時活況を見せていたサンフランシスコだった。そこでのジェファーソン・エアプレインやポール・バターフィールド・ブルース・バンドらの活躍に刺激を受けた彼は、ジェイムズ・カーリー・クック(g)、ロニー・ターナー(b)、ティム・ディヴィス(ds)らを集めて、66年11月にスティーヴ・ミラー・ブルース・バンドを結成する。
12月にステージ・デビューした彼らは、活発にギグを行なうようになり、67年6月にカリフォルニア州モンタレーで3日に亘って開催されたモンタレー・ポップ・フェスティヴァルの中日に当たる17日にも出演。6月27~7月2日にはフィルモア・オーディトリアムで行なわれたチャック・ベリーのコンサートでバック・バンドを務め、そのうち30日のライヴはベリーの『ライヴ・アット・フィルモア(Live At The Fillmore Auditorium)』としてマーキュリーから9月にリリースされたのだが、これがスティーヴ・ミラー・ブルース・バンドにとって初めてのレコードとなった。同じころには68年公開の映画『Revolution』のサウンドトラックに起用され、3曲を提供。アルバムは映画の公開時にユナイテッド・アーティスツより発売されている。そうした活動がキャピトル・レコーズの目に止まり、晴れて契約を交わす。その時点ではミラー(vo,g)、ボズ・スキャッグス(g,vo)、ターナー(b)、デイヴィス(ds)、ジム・ピーターマン(key)というラインナップになっており、これを機にスティーヴ・ミラー・バンドを名乗ることにした。
68年4月、「Sittin’ In Circles / Roll With It」でデビューした彼らは、6月に『未来の子供達(Children Of The Future)』(全米134位)を発表。10月には早くも2作目の『セイラー』(24位)をリリースした。このあとスキャッグスとピーターマンが脱退し、ベン・シドランが加入。69年6月に新体制で『すばらしき新世界(Brave New World)』を発売した(22位)。この作品にはポール・マッカートニーがポール・ラモーンという変名で参加している。そして11月に前作ではゲスト扱いだったニッキー・ホプキンス(p)を迎えて『ユア・セイヴィング・グレイス』(38位)を発売。その後ベースがターナーからボビー・ウィンケルマンにチェンジして70年11月に『ナンバー5』(23位)をリリース。そこからは「アメリカ万才!(Living In The USA)」、「ゴーイング・トゥ・ザ・カントリー」というスマッシュ・ヒットも生まれた。
しかし、今度はデイヴィス、シドラン、ホプキンスが抜けてしまったため、新たにロス・ヴァロリー(b)とジャック・キング(ds)を呼び寄せ、ウィルケルマンをギターに転向させて活動を続けた。そのメンバーで71年9月に『ロック・ラヴ』(82位)を発表したが、バンドは解体。72年3月の7作目『エデンからの旅(Recall The Beginning…A Journey From Eden)』(109位)では旧友のシドランの協力を仰ぎながら、ジェラルド・ジョンソン(b)とリチャード“ディッキー”トンプソン(key)をメンバーとして固定したが、ほかはセッション・ミュージシャンを集めて制作された。アルバムの売り上げは芳しくなく、しかも、その年の1月にミラーは交通事故に遭っており、それから約8か月の休養を強いられている。
そのように苦難を重ねていた彼が見事なまでに復活してみせたのが73年10月にリリースされた『ジョーカー』だった。ジェラルド・ジョンソン(b)、ディック・トンプソン(key)、ジョン・キング(ds)といったメンバーでレコーディングされたアルバムは100万枚以上を売り上げて全米2位にまで駆け上り、シングル・カットされたタイトル曲は見事に1位に輝いた。ここでバンドはついにブレイクしたのである。さらにターナーを復帰させ、『エデンからの旅』に参加していたゲイリー・マラバー(ds)からなるトリオとゲストの面々でつくった『鷲の爪(Fly Like An Eagle)』を76年5月に発表したところ、400万枚を超えるセールスとなり、最高位3位を記録。「テイク・ザ・マネー・アンド・ラン」、「ロックン・ミー」、「フライ・ライク・アン・イーグル」という3曲のシングル・ヒットも生んだ。続けて、ジョン・マサロ(g)、ケニー・リー・ルイス(g)、ジェラルド・ジョンソン(b)、マラバー(ds)、ノートン・バッファロー(harp)、バイロン・オールレッド(key)という面子で録音された77年5月の『ペガサスの祈り(Book Of Dreams)』も2位と大ヒット。8位をマークした「ジェット・エアライナー」を含む3曲がチャートを賑わせ、バンドはスタジアムを轟かす押しも押されもせぬビッグ・アクトへと登り詰めたのだった。
78年11月に発表したベスト盤『グレイテスト・ヒッツ1974-78』(18位)で70年代に区切りをつけた彼らは、しばしのインターバルをとったのちの81年10月の『愛の神話(Circle Of Love)』で80年代に突入する。マラバー、オールレッド、ジョンソンという4人で臨んだアルバムは26位にチャート・イン。続いてその4人に『ペガサスの祈り』のときに在籍していたルイスとマサロ、バッファローを呼び戻して制作したのが、82年6月にリリースされた『アブラカダブラ』だった。当初、母国アメリカのレコード会社は表題曲にさして興味を抱かなかったが、ヨーロッパでシングル・カットされるとイギリス、アイルランドで2位、スウェーデン、スイスでは1位となるなど各地で大きな支持を得た。そこでアメリカでもシングルとして発売したところ、「ジョーカー」と「ロックン・ミー」に続く3曲目の全米ナンバーワン・ヒットとなったのである。それに引っ張られる形でアルバムも最高位3位を記録。勢いに乗ったバンドは83年4月に初のライヴ・アルバム『ペガサスの復活(Steve Miller Band Live !)』(125位)を発表した。その後、マサロとジョンソンが抜けた5人体制でデジタル・レコーディングした『イタリアン・X・レイズ』(106位)を84年11月に発売。バンド結成から20周年を迎えた86年11月には『リヴィング・イン・ザ・20th・センチュリー』(65位)をリリースした。またデビュー20周年となった88年にはミラーのソロ名義で『ボーン・2B・ブルー』(108位)を出したのちポリドール・レコーズへと移籍。93年6月にはビリー・ピーターソン(b)、ゴーディ・ヌードストン(ds)、ボブ・マラク(sax)にハーピストのバッファローからなる新生スティーヴ・ミラー・バンドとして『遥かなる河(Wide River)』(85位)を発表した。
しかしながら、ミラーは長年に亘るミュージック・ビジネスに疲れていたようで活動を縮小。以降はバンドとして大きな動きを見せなかった。そんな彼らが突如として戻ってきたのは2010年6月のことである。ケニー・リー・ルイス(g)、ビリー・ピーターソン(b)、ゴーディ・ヌードストン(ds)、ジョゼフ・ウッテン(key)、ノートン・バッファロー(harp)、ソニー・チャールズ(vo)によって制作され、ミラーのニック・ネームからとったスペース・カウボーイ・レコーズからリリースされた『ビンゴ!』はチャートの37位にランク・インするなかなかの好成績を上げ、長年の功績からハリウッド・ウォーク・オブ・フェイムにも選出された。翌11年4月には『Let Your Hair Down』(189位)を発表。13年には『ジョーカー』発表から40周年を記念して大規模なツアーを敢行し、14年5月にはその模様を纏めたライヴ・アルバム『The Joker:Live In Concert』も世に送り出した。そして16年にはついにロックの殿堂入りを果たし、“スペース・カウボーイ”はまさに生ける伝説となったのだった。
09年にこの世を去ったバッファローと11年にバンドから離れたチャールズ以外のメンバーは10年から変わらず、デビューから50余年を過ぎた現在も精力的な活動を続けている。