Biography

SONATA ARCTICA


 ソナタ・アークティカは世界の端にあるケミというフィンランド北部の街で1996年生まれた。当初はトリッキー・ビーンズ(Tricky Beans)というバンド名で活動し、3作のデモ(『Friend till the End』、『Agre Pamppers』そして『PeaceMaker』)を制作。当時人気だったテレビ番組『Friend till the End, Agre Pamppers and PeaceMaker』に2度出演した。
 1997年、いくつかのメンバー交替を経て、バンドはトリッキー・ミーンズ(Tricky Means)と改名。
 1999年になるとケミにあるティコ・ティコ・スタジオで新しいデモ『FullMoon』を制作。当時のメンバーとそのパートはトニー・カッコ [Tony Kakko] (vocals/keys)、ヤニ・リマタイネン [Jani Liimatainen] (guitars)、トミー・ポルティモ [Tommy Portimo] (drums)、そしてヤンネ・キヴィラフィティ [Janne Kivilahti] (bass) だった。その後ソナタ・アークティカのトレードマークとなる、速く、メロディックで、キーボードを重視したサウンド構成にハイ・トーンのクリア・ヴォイスをのせたへヴィ・メタル・サウンドはこの時に誕生し、彼らの存在を一躍へヴィ・メタル・ファンの間に印象付ける一作となった。そしてティコ・ティコ・スタジオのAhti Kortelainenの手によってフィンランドの名門へヴィ・メタル・レーベルSpinefarmへの門が開かれ、レコード契約を獲得。これを機にバンドはソナタ・アークティカと改名した。
 1999年夏には1stシングル「UnOpened / Mary-Lou」を、そしてその秋には早くも1stフル・アルバム『エクリプティカ (Ecliptica)』を発表。さらにハロウィーンのトリビュート・アルバム『Keepers of Jericho』に「I Want Out」で、そしてスコーピオンズのトリビュート・アルバム『A Tribute to the Scorpions』に「Still Loving You」で参加。一躍その名がヨーロッパ全土で知られることになった。
 『エクリプティカ』のリリース後まもなくして、ミッコ・ハルキン [Mikko Härkin] (keys)が加入し、5人編成となった。この変更はバンドのライヴ・パフォーマンスを飛躍的に強化することになった。トニー・カッコがヴォーカル/フロントマンに専念できるようになり、かつバンドに2人のキーボーディストがいることでさらに複雑な展開も可能になったのだ。
 さらに追い風は続く。あのストラディヴァリウスのヨーロッパ・ツアーのサポート・バンドに指名されたのだ。これによりソナタ・アークティカは1999年末から2000年初頭にかけての約2か月間にわたるツアーで10か国を訪れ、かつ30以上の都市で単独ギグを行い、その知名度を飛躍的に高めることに成功した。
 このツアー終了後、ミニ・アルバム『Successor』の発表、ヤンネ・キヴィラフィティの個人的な理由による離脱と新メンバー:マルコ・パーシコスキ [Marko Paasikoski] (b)の加入を経て、同年秋に待望の2ndアルバムの制作をスタート。翌2001年初頭にはアリス・クーパー、ディオ、ラット等とともに”モンスターズ・オブ・ザ・ミレニアム・2001ツアー”に参加した。そして同年5月にいよいよニュー・シングル「 ウルフ・アンド・レイヴン」を発表。そして6月には日本先行発売の2ndアルバム『サイレンス』が登場。前作を上回る完成度のメロディック・スピード・メタル・アルバムに対する興奮冷めやらぬ中、同年9月には早くも初来日公演が実現。その後ヴァニシング・ポイントとともにガンマ・レイのヨーロッパ・ツアーのサポート・アクトとして12か国28公演に参加。さらに同年末まで”サイレンス・ツアー”としてフィンランド国内13か所における公演を行った。このツアーは翌2002年初頭のブラジル~チリにおける南米ツアー、そしてフィンランドでの凱旋公演の最終日=2012年7月27日のヨリスロク公演まで続いた。その間、初のライヴ・アルバム『ソングス・オブ・サイレンス~ライヴ・イン・TOKYO (Songs Of Silence)』を発表。2001年9月に東京で収録されたライヴで、日本では2002年3月に、そのほかの地域では7~8月にリリースされた。
 長期にわたる”サイレンス・ツアー”が終了すると、ミッコ・ハルキン (keys)が個人的な理由でバンドを離脱を表明。次作の制作に取り掛かるタイミングではあったが、新たなキーボーディストの人選は慎重に行われた。折よく、ストラディヴァリウスのイェンス・ヨハンセンがヘルプ・メンバーとしての参加を申し出てくれたおかげでレコーディングは順調に進み、イェンスが4曲でソロを担当した。そして3rdアルバム『ウィンターハーツ・ギルド』が2003年3月に発表されるに先立って、新キーボーディストとして、サイレント・ヴォイセズやレクイエム等で活躍したヘンリク・クリンゲンベリ [Henrik Klingenberg]の加入が発表となり、2月21日にヘンリクのお披露目ともなったライヴが行われた。ヘンリクのポータブル・キーボードを駆使した躍動的なパフォーマンスとテクニックは、バンドに新たなエナジーとヴィジュアル性を注入することに成功した。
 『ウィンターハーツ・ギルド』からの1stシングル「ヴィクトリアズ・シークレット」はフィンランドのヒット・チャートで1位記録。前作『サイレンス』からのシングル「ラスト・ドロップ・フォールズ」での最高位3位という自己記録を更新した。またアルバムもリリース初週にザ・ラス・マス、エミネム、T.A.T.U.を押しのけて3位を記録し、その後トップ10に5週連続でランク・インを果たした。続くフィンランド・ツアーやヨーロッパ各地で行われたフェスティヴァルに次々と出演。スウェーデン・ロック・フェスティヴァルではクイーンズライチ、イエス、ホワイトスネイク等と肩を並べた。またこの2003年にはミッコ在籍時に録音された未発表曲2曲を含むシングル『BROKEN』、そして日本独自のミニ・アルバム『タカタルヴィ』を発表している。
 『ウィンターハーツ・ギルド』までの3作でSpinefarmとの契約を終えたソナタ・アークティカは、新たな展開を求めてNuclear Blastレーベルへ移籍を果たす。翌2004年初頭にアイアン・メイデンのジャパン・ツアーに同行した後、数々のフェスティヴァルに出演しながら4thアルバムの制作を完了させた。そして2004年8月にリリースされた1stシングル「Don’t Say A Word」は見事にフィンランド・チャートの1位を獲得し、6週連続でトップ10にランク・イン。10月にリリースされた4thアルバム『Reckoning Night』もフィンランドで2位という成功を収めた(日本では17位)。
 その後もソナタ・アークティカは精力的なツアーをこなしつつ、2006年『For The Sake Of Revenge』(ライヴ)、2007年『Unia』、2009年『The Days Of Grays』と秀作を発表。そして今年2012年5月に最新作『Stones Grow Her Name』がリリースされている。