BIOGRAPHY
Secret Garden
シークレット・ガーデンは1994年、ダブリンで開催されたユーロヴィジョン・ソング・コンテストでの偶然の出会いから生まれた。当時、フィンヌーラはアイルランド国営放送局オーケストラの一員。ソロ・キャリアを目指していた。ロルフは指揮者、そして1985年にボビーソックスが歌い、ノルウェーにユーロヴィジョン優勝をもたらした楽曲「La Det Swinge(レット・イット・スウィング)」の作者の一人でもあった。
ランチ休憩中、フィンヌーラは自分の曲が入ったカセットをロルフに渡す。前年のユーロヴィジョンでも直接会うことはなかったが、ロルフの指揮で演奏したことを告げながら。「こんなひどい曲は聴いたことがない、と思ったらしいわ」と24年後、フィンヌーラは笑う。「同感せざるを得ないけど」
しかし、彼女のヴァイオリンそのものを気に入ったロルフは(ちなみにその年のユーロヴィジョンは、インターバルで繰り広げられたリバーダンスのステージが大きな話題となった)コンサート終了後、連絡を取る。音楽のアイディアを交わすうちに、二人は互いに、相手にあって自分にないものを持っていることに気づかされる。
「ロルフ自身、気づいていなかったの。彼の音楽の新たな”声”として、フィドル奏者を探していたことに。私にしても、何かを探していたものの、それが何なのかがわからずにいた。ロルフの音楽を聴いた時、そこに自分の”声”を見つけた気がしたわ。」ロルフもそれに同意する。「フィンヌーラは僕にとっての ”失われた環”だった。彼女はすぐさま、ヴァイオリンを通じ、僕が書くストーリーを語る声になったんだ」
フィンヌーラもこう言う。「すべては化学反応。彼は私のために曲を書き、私は彼のために演奏する。二人が一緒に演奏をすると、その瞬間、強い繋がりが生まれるの。二人で一つのことを考えているのよ。これまで多くの人と演奏をしてきたけど、彼との間に生まれるものは、到底他の人とでは生まれない。目に見えない音楽の絆がそこにはある、と一番最初から感じたわ」
その最初のコラボレーションはほぼ全メジャー・レーベルに断られるという結果だったが、ポリグラムの取締役社長秘書アストリッドが聴いてみるよう上司に進言したことがきっかけで、レコード契約に至る。そして「ノクターン」はユーロヴィジョンのノルウェイ代表曲に(ロルフ曰く「ごく僅差で」)選ばれ、1995年、ダブリンで行われた本戦で見事優勝したのだった。
というのが、アイルランドとノルウェーの影響が混ざり合う、シークレット・ガーデンの”めったにない関係”の成り立ちだ。そこから二人のキャリアは飛び立つ。1996年のデビュー・アルバム『ソングス・フロム・ア・シークレット・ガーデン』以来、二人が作り出す音楽はゆっくりと世界中に広まっていった。ノーベル・マーケティング・キャンペーンが功を奏し(全米ではブックストアや書籍売場で彼らの商品は展開された)これまでにない新しいマーケットに彼らの音楽は届けられた。
さらには、あのバーブラ・ストライサンドが彼らの曲(「ハートストリングス」)を大いに気に入り、歌詞を乗せて歌にし、みずからの結婚式でも歌い、1998年には「アイヴ・ドリームド・オブ・ユー」というタイトルでヒットさせた。「ユー・レイズ・ミー・アップ」(ブレンダン・グレアム作詞)はジョシュ・グローバン、ウェストライフ、ダニエル・オドネル、イル・ディーヴォといった多くのアーティストにカヴァーされる一方、カラオケでは世代を越えて歌われている1曲だ。
これまで彼らが迎えたゲスト・ヴォーカリストの中には、ラッセル・ワトソン(友情を歌った感動的な賛美歌「オールウェイズ・ゼア」)、エレイン・ペイジ(「ザ・シングス・ユー・アー・トゥ・ミー」)、ブライアン・ケネディ&トレイシー・キャンベル=ネーション(「ユー・レイズ・ミー・アップ」)、リバーダンスのヴォーカリスト、フィオヌアーラ・ギル(「スリープソング」)、ピーター・コリー(「ディド・アイ・ノット・ラヴ・ユー」)、カパケリのカレン・マシスン(「グリーンウェイヴス」)、そしてユーロヴィジョンで「ノクターン」を歌った Gunnhild Tvinnereim などが名を連ねている。
シークレット・ガーデンがこれほどの世界的アピールーー特に東南アジアやアメリカで高い人気を誇るーー理由は、彼らの音楽言語を理解するのにクラシックの知識は必要ないからだ、とロルフとフィンヌーラは考える。「楽曲を通じ、私はストーリーを語っているの。曲には始まりがあり、真ん中があり、終わりがある。たとえ言葉はなくともね」とフィンヌーラ。「だからこそ、私達には言葉による障害はないのよ」
「心で感じられるかどうかだ」とロルフも加える。「それが本質だからね、あらゆる音楽にとって」