【九度山】
みなさま、こんにちは。プロデューサーの左衛門佐です。
本日は真田親子の配流先、九度山についてお話ししたいと思います。
運命の関ヶ原で西軍についた昌幸・幸村親子。信之の必死の嘆願もあり死罪は免れ、紀州九度山へ配流となります。
九度山での生活は最小限の従者とともに暮らした寂しいものでした。
周囲は厳重に浅野氏に監視されていましたので、出かけることはできません。
家康は「真田憎し」というのもあったのでしょうが、その実は昌幸を恐れていたのではないか、と思います。
蟄居から11年、1611年に再起の夢かなわず父昌幸は病死します。昌幸は幸村に来たるべき最後の戦いにそなえて
「大坂城での戦いの必勝策」を授けたのではという推測もあります。
それこそ時間だけは毎日たっぷりあったわけですから、碁を打ちながら「あーだこーだ」と架空の戦について親子で戦略を議論していたのではないかと思います。
秀頼方と家康方の不穏な動きも草の者の諜報活動を通して察知していたと思われます。
当然、大坂の陣についても様々な戦略を用意していたと思うのです。
その一が攻め上る家康を奇襲して首を取る出撃策。その二が大坂城籠城策。
そして守りが手薄な大坂城の南方への出丸「真田丸」構築ということになったのでは、と。
歴史は過去のものです。タイムマシーンでも無ければ実際のことはわかりません。
が、起こった事象についてそれらを繋いであれこれ仮説をたてたりすることはできます。
そこが歴史のおもしろさの一つだと私は思います。
・九度山 善名称院 (真田庵)
南海電鉄なんば駅から南海高野線にて約90分乗車。九度山駅下車。徒歩約10分。