年代別ストーンズLIVEの目撃者たち:総括編/寺田正典氏その2
『オン・エア』発売記念企画
年代別ストーンズLIVEの目撃者たち
ストーンズ初のBBC音源作品『オン・エア』の発売を記念して1962年にバンドを結成して以来、2017年の現在に至るまでライヴ活動を続けているストーンズのLIVEの魅力を実際に見ている方々の言葉で語っていただく本企画。
総括編その2。
元レコード・コレクターズ編集長であり、ストーンズ研究の第一人者である寺田正典氏が語る、世界最高のロック・バンド、ザ・ローリング・ストーンズのライヴ変遷のその2。
お楽しみください。
寺田正典(総括編)
世界最高のロック・バンド、ザ・ローリング・ストーンズのライヴ変遷(その2)
1970年代前半(1971~1973年)
~ギター・バンドとしてのストーンズ・サウンドの確立~
すでに70年ツアーから元デラニー&ボニーのホーン・セクション、ボビー・キーズ(sax)、ジム・プライス(tp)を加えてライヴをやり初めていたストーンズでしたが、71年の英国ツアーからはそこにニッキー・ホプキンス(p)が参加してきたことにより、72年の名盤『メイン・ストリートのならず者』のフランスでのベーシック・トラック録音のラインナップか勢ぞろいすることになります。そのようにしてサポート・メンバーを入れつつ “時代“の音に呼応した自分たちなりのライヴの形をつくりあげていくという新しい試みがこの時代から本格化しました。その71年からは、よりリズムが立ったファンキーで大胆なアレンジを施したプレイぶりが斬新でした。多分それは意識的と言うよりは、新しくなったラインナップでライヴやレコーディングで演奏し続けるなかでの成長と見ていいと思います。「ミッドナイト・ランブラー」などは、テンポがグッと速くなるとともに、中間部のふたりのギタリストによるアドリブの応酬もより長く激しいものに。そこにスロー・ブルース・パートも加えられるなど複雑化も進みました。ミック・テイラー、ニッキー・ホプキンスの、時にアグレッシヴ、そして時にリリカルで個性的なプレイも目立つようになってきます。
72年の北米ツアーではリズム面もややソフィティスケイトされ、全体を通してライトなスピード感が目立ってきます。そこに、それまで“実験“を重ねてきた跳ねるリズムのニュアンスが適度に統合され、60年代半ばのスピード感とは違うこの時代のストーンズならではの強力なグルーヴを産み出すことになります。この年から飛行機をチャーターしてツアーを周るようになります。そこにはドナルド・サザーランドやトールマン・カポーティといった文化人やセレブらも同行させ、乱痴気騒ぎを繰り返すギャング・ロッカー的なイメージ(その究極のものが映画『Cocksucker Blues』)をうまく強調しながらメディア露出をコントロールし、ビートルズ解散後、新たに強力なライバルとして急成長してきたレッド・ツェッペリンのメンバーを悔しがらせるようなことにもなります。こうしてストーンズの特に北米ツアーは、音楽業界の範囲を超える一大イヴェントとして認知されていくようになっていきます。この年の北米ツアーのもうひとつのポイントは前座にスティーヴィー・ワンダーを起用したこと。これはワンダーの側にとってもファン層を拡げるうえで大きな意味がかった可能性が高い(このとき計画されたライヴ盤が頓挫したのは、収録曲を巡ってアブコとの権利問題がクリアにならなかったからと思われます)と思います。ちなみにこのときのスティーヴィー・ワンダーのバック・バンド、ワンダーラヴにはメンバーとしてオリー・E・ブラウン(ds)が所属。ブラウンはのちにストーンズとコラボレートすることになります。
73年は1月の〈ニカラグアン・ベネフィット・コンサート〉を皮切りに、パシフィック・ツアーへと入ったものの、そこに含まれていた日本公演は残念ながら中止。彼らは日本公演を重要視していたようで当時のツアー・マネージャーのピーター・ラッジが武道館の下見まで終わらせていた、という中での突然の中止騒ぎでした。理由はミック・ジャガーの逮捕歴。これは日本のロック界/ロック・ファンたちの間にも大きな“傷”として残る一方、“たとえ原爆を作って政府を脅したとしても来日は不可能なバンド”というストーンズの究極の“ならず者”としての存在感が日本で特に長く保持されていく原因にもなりました。この時の演奏スタイルは、基本的に前年の北米ツアーの延長線上にあるもの。ただし選曲には新しい試みがあり、「ノー・エクスペーションズ」や「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ」といった60年代のナンバーを新たなアレンジで披露したりしたこともありました。ミック・テイラーのスピーディなフレージングにバンド全体が引っ張られてしまっているうように聴こえる瞬間があったりするのもこのツアーの特色のひとつです。
秋のヨーロピアン・ツアーからはサポート・メンバーを一部変えて、ビリー・プレストン(key)やトレヴァー・ローレンス(sax)らが加わります。そのことでよりポップでムーディな表情も加わって、より表現の幅が広がったスリリングな演奏を披露しました。60年代末以降、アメリカ南部の音楽の影響が強かった彼らですが、『山羊の頭のスープ』でも感じられるニュー・ソウルや都会的なソウルや一部ファンクからの影響も見え隠れするようになってきます(その要素は『ブラック&ブルー』で大きく花開くわけです)。ミック・テイラーのプレイでは、それまでと同様のスライド・ギターに加えてワウワウ・ペダルの大胆な導入もありました。ビリー・プレストンはクラヴィネットを使ったファンク的な演奏を聴かせ、チャーリー・ワッツも瞬時にその流れに呼応するなど、新しい局面も見せてくれました。もちろんキース・リチャーズの演奏ぶりはますます重厚になり、5弦ギターによるドローン効果も生かしてリズム・ギターによって巨大でグルーヴィな壁を構築するような演奏をバックに、ミック・ジャガーは怒鳴るような迫力ある唱法も駆使しながら激しく飛び跳ねるという、ストーンズのライヴ・ヒストリーにおいても、後年ほどのゴージャスさはないにしても、最も完成度の高い演奏/ステージングを誇っているのがこのツアーだと言っていいと思います。
参考資料:『スティッキー・フィンガーズ〈デラックス・エディション〉』(71年、ザ・ラウンドハウスでのライヴ)『スティッキー・フィンガーズ〈スーパー・デラックス・エディション〉』(71年のリーズ大学公演)『ザ・マーキー・クラブ ライヴ・イン 1971』『ブラッセルズ・アフェア1973』(73年ブリュッセル公演)
1975年代後半(1975~1978年)
~それまでに完成したストーンズ・サウンドを暴力的なまでに破壊~
74年の暮れにミック・テイラーが辞めたため、75年の北米ツアーには、まだフェイセスに在籍中だったロン・ウッドがゲスト参加。ミック・テイラーのラインを多少は意識しながらも、まったくテイストの違うギター・プレイを展開。キースとの新しいコンビネーションのツイン・ギター・サウンドを聴かせるようになります。サポート・メンバーのビリー・プレストンはさらに前に出て、先に触れたオリー・E・ブラウン(perc)も加わってくる。そこでの音楽性をストレートに黒人音楽的なファンキーさと言うのはちょっと違う気もしますが、全員が多少のズレを許容しながら突っ走っていく独特のサウンドを聴かせるようになります。この猥雑さをも含むファンキーなロック・サウンドを称して、故・中村とうよう氏はかつて“サンバ”だと書きました。オープニング・シーンで会場に流れていた音楽や「悪魔を憐れむ歌」の演奏では明らかにサンバのニュアンスが含まれていますしね。都会的な黒人音楽の洒落た部分を意識しつつ、より猥雑なものを提示。その結果、シャープでクールなブラック・ミュージックを標榜しながら、どうしてもロックにしか聴こえないという新しい音楽スタイルを生み出していた、と言ってもいいと思います。73年に高いクオリティで完成したライヴ・サウンドにおけるリズム・ニュアンスの骨格の部分は活かしながら、それまでになかった重さを加えて再構築した形とも言えます。ミック・ジャガーのステージ・アクションも大きく変化し、それまでの男性的なアクションは影を潜め、操り人形を彷彿させる、“崩しの美学”を体現したようなものになりました。その翌年のヨーロッパ・ツアー中、パリ公演の演奏を“中心”に収めた『ラヴ・ユー・ライヴ』での「ブラウン・シュガー」を、『ブラッセルズ・アフェア1973』のものと聴き比べるとハッキリわかると思いますが、キースのギターもかなりラフになり、隙間を効果的に使うようになります。75年ツアーでも、翌年のヨーロッパ・ツアーでも蓮の花が開くようなあの大型ステージ・セットは限られた都市でのコンサートでしか使われなかったようですが、この75~76年ツアーのステージの象徴として『ラヴ・ユー・ライヴ』に収められた力強い演奏内容、そしてアンディ・ウォーホールによるインパクトの大きなアルバム・ジャケットとともに強い印象を残しました。また、70年代前半に比べセット・リストに記される曲数もグッと増え、演奏時間もより長くなりました。それでいて1日2ステージをこなす日もあったというのも、今から考えると特筆すべきことかもしれません。ドラッグにまつわる様々な記事も同時代的に書かれたようで、スキャンダラスなイメージもこの時代に倍増したという側面もありそうです。
その後76年8月の〈ネブワース・フェア〉と『ラヴ・ユー・ライヴ』のエル・モカンボ・サイドで聴ける77年3月のトロントでのクラブ・ギグではチャック・ベリーの「アラウンド&アラウンド」やハウリン・ウルフの「リトル・レッド・ルースター」を久しぶりにプレイするなど“バック・トゥ・ザ・ルーツ”的な試みにもチャレンジします。一方、その直後からはパンクをかなり意識していたはずで、それが明らかになったのが78年の北米ツアーと言えるでしょう。すでに75~76年の時点でホーン・セクションのふたりはいなくなっていましたが、78年になるとビリー・プレストンも外れて、ロン・ウッドのかつての同僚、イアン・マクレガン(p、org)を加え、バンドとしてはよりシンプルな方向性を志向するようになりました。そして、これもパンクからの影響か、ミックのステージ・アクションも75~76年とはまた異なるハチャメチャな“壊れ方”を見せ、ファッションも突飛で奇抜なものに変化しました。そして75~76年にはやらなかったチャック・ベリーのカヴァー曲がオープニングで演奏される、というアイデアには、まるで裸一貫でステージに出てくるようなもの、と誰もが驚きました。なお、志村 治さんの[目撃証言]にもあったように「ジョニー・B.グッド」と間違えて伝えられもしていましたが、この時取り上げられたのは「レット・イット・ロック」。タイトルもアレンジも、チャック・ベリーのレパートリーの中でも特にシンプルなナンバーでした。ただ、パンクを意識していた割に公演によってかなり演奏時間が長くなった曲がありました。それはこのツアーで増えた巨大スタジアムでの公演の際、会場を埋めた数万人のオーディエンスに対してミックがステージを走り回って満遍なくアピールするのに時間がかかったため、ということもあったようです。しかし、そのような試みが必ずしもすべて成功したとは言い難い部分もあり、7月24日のアナハイム・スタジアム公演では冗長に聞こえたのであろう演奏ぶりへの抗議としてなのか、あるいはニュー・アルバムからの新曲の演奏が続きすぎたからなのか、客席から靴が次々と投げこまれる、という事件もあった(写真家ボブ・グルーエンがその時の様子を撮影したショットを見たことがある人も多いのではないでしょうか?)。それと、この北米ツアーには翌年のヨーロッパ・ツアーがなく、69年以降、3年ごとの北米ツアーがあり、その翌年にはヨーロッパ……というルーティンは一端途切れることになってしまいました。
参考資料:『ラヴ・ユー・ライヴ』『ストーンズ〜L.A. フォーラム〜ライヴ・イン 1975』『サム・ガールズ・ライヴ・イン・テキサス ’78』『女たち―ライヴ・イン・テキサス ’78』
インタヴュー&テキスト: 山田順一