年代別ストーンズLIVEの目撃者たち:志村 治氏
『オン・エア』発売記念企画
年代別ストーンズLIVEの目撃者たち
ストーンズ初のBBC音源作品『オン・エア』の発売を記念して1962年にバンドを結成して以来、2017年の現在に至るまでライヴ活動を続けているストーンズのLIVEの魅力を実際に見ている方々の言葉で語っていただく本企画。
第5回目は志村 治氏。
ヘア&メイクアップ・アーティストである志村氏が目撃した1978年に行われたアメリカン・ツアーのアナハイム公演。
お楽しみください。
志村 治(1978)
どうしても生で観たかったストーンズ
―1978年USツアーにお出かけになった経緯は。
73年の武道館公演が中止になったことはとてもショックで、その残念で悔しい気持ちをどうしても晴らしたかったんですよ。それがぼくのテーマだったんです。もう、日本には来てくれないんじゃないかと思ったんですね。そんな想いの方も多かったと思います。そんなとき雑誌の「平凡パンチ」をたまたま読んでいたら、「平凡~」が主催して旅行会社(近畿日本ツーリスト)が組んだ、ストーンズのライヴを観るツアーの参加者を募っている記事を見つけたんです。チケット代や飛行機代、滞在費などを入れて確か全部でひとり27万円だったと思います。当時、ぼくにとってその金額は大きいうえに仕事もあるので迷ったんですが、丁度、結婚したばかりだったので、勤め先には新婚旅行ということにしてどうにかスケジュールを確保して参加したんです。4泊6日くらいの日程でしたかね。とにかく70年代にどうしても観たかったんです。当然、個人ではどうしたらよいかわからなかったので、このツアーで海外に行くしかないと決めたんですね。
灼熱のスタジアムで来日中止のリヴェンジを果たす
―それでご覧になられたのが、78年7月23日のアナハイム・スタジアム公演だったんですね。
はい。前座にピーター・トッシュやエタ・ジェイムズといったいろいろなジャンルのひとたちが出てきて面白かったんですが、会場のとにかく巨大なスタジアムを目の当たりにしてびっくりしました。8万人くらいの規模でしたからね。日本では東京ドームができる前ですから、そんなの見たことなかったです。用意されていたチケットはフィールド席だったんですが、前に行きたければ自分で動け、というシステムも初めてで戸惑いました。周りは身体の大きいアメリカ人ばかりでしたし。前に行ったら肘鉄くらって失神しちゃうんじゃないかとか不安でした。ツアーの定員は25~30名くらいだったんですが、そんな状況のなか日本人が観に行ったんですよ。その日はまた暑くて、気温が40度くらいあったんです。野外でもあったので1リットル・サイズの紙パック入りコーラを4箱も飲みました(笑)。確か6時半くらいから始まったと思うんですが、割と明るい時間帯にストーンズが出てきて、それからはもうとにかく興奮状態でした(笑)。生まれて初めて生で、しかも目の前でストーンズを観てるってことに感動しました。それまで、写真やフィルム・コンサートなどでしか見ることができませんでしたからね。それと73年のときは高校生だったんですが、多感な時期でもあったので“日本って何なんだ”っていう憤りみたいなものがあったんですが、こうして観ることができて、やっとリヴェンジしたような気持ちにもなりましたね。73年に来日していたら、その後の日本の政治や文化も違った発展の仕方をしたんじゃないかとさえ思っていたので、その欠落感みたいなものをどうしても埋めたかったんですよ。だから、あのときの27万円は高かったんですが、観に行ってよかったなって、いまつくづくそう思いますね。
―ステージの様子はいかがでしたか。
帰って来て一緒に行ったひとたちと話もしたんですが、みんな“まったく覚えていない”っていう(笑)。とにかく興奮したのと暑かったのもあったんでしょうね。結局、雑誌とかを見てチェックし直したりしました。そうしたら、1曲目が「ジョニー・B.グッド」とか書いてあって。みんなで“そんなのやるわけないよね”“じゃ、何だったんだろう”ということになって、さらに調べたら「レット・イット・ロック」だったんですよね(笑)。そうしたら今度は“「レット・イット・ロック」って何だ? 発売されてないよね”となって、マニア心に火が点いて、レコードを集めたりして。そう思うと、人生の8割方はローリング・ストーンズに費やしてきましたね。彼らを観に行くためにとかレコードを買うため、Tシャツを買うために働いてきたようなものです(笑)。このときもベロ・マークがふたつ入っているラグラン・スリーヴのTシャツと短パンを買ってきました。観る側としては、最初はひとが押し寄せて、押すな押すなという状態になるんだろうなと思っていたんですが、全然違いました。ぼくは前に行ったり、フィールドのうしろの方でも観ていたんですが、そこではピクニック・シートを敷いて観ている家族がいたりとか、まるで花火大会にでも来ているみたいで、ちょっとしたカルチャー・ショックでもありました。
帰国後も感動は続く。そしてストーンズに支えられて。
―貴重なメモリアルですね。
帰って来てからもこの日の音源が聴けないかと思ってずいぶん探したりもしました。翌24日はホーンが入ったんですよね(ボビー・キーズがサックスでゲスト出演。ニッキー・ホプキンスもピアノで参加)。23日はホーンなしだったんです。あとポイントしては3曲目くらいに「ホンキー・トンク・ウィメン」を演奏したんですけど、イントロがすごく長くて、なかなか歌に入らなかったんです。“カリフォルニアの青い空”じゃないですけど、いろいろなことを思い出しますね……。PAもいまみたいに巨大な野外スタジアムに対応できるような機材じゃなかったんで、遠くで演奏しているような感じだったんですよ。そう、次の日も観に行ったというひとから、ちらっと聞いたんですが、24日は観客がミックに向かって靴を投げたんです。ミックはそれに対して何か言い返していたらしいとかね。それは帰って来てから雑誌でも確認しましたけど“アメリカってすごいんだな”って変なところに感心しましたね。そのあとみんな靴を履かずに帰ったんですかね(笑)。その話を教えていただいた方もザ・ローリング・ストーンズの熱烈なファンで、帰りの空港では「ミス・ユー」の12インチを買ったということで見せてもらいました。しかも、それがショッキング・ピンクのカラー・レコードで“何ですか、これ!?”ってびっくりしました。ピクチャー・レコードやビートルズの赤盤なんかは知っていましたけれど、ピンク色のレコードなんて初めて見ましたから。ぼくらが行ったお店では売っていなかった。日本に帰って来てから、それを必死になって探しましてね。その話だけでも本一冊書けちゃうんじゃないかってくらいのエピソードがあります(笑)。だから、レコードに限らず情報を持ってないとダメだなって学びました。まあ、「平凡パンチ」も気づかなかったらそれまででしたからね。あとで知って悔しがるケースもあるじゃないですか。だからこそ、70年代の終わりごろの何の情報もなかった時代に、幸運にも観ることができたのは本当によかったって痛感するんですよね。セットリストも“こんなのいまやらないよな”って曲もやっていますし、あの場に自分がいたっていうのは特別な想いですね。ぼくはブライアン・ジョーンズがいた68年ごろのストーンズが特に好きだったので観たかったですけど無理だったし、ハイド・パークにももちろん行けなかった。じゃ、90年の初来日まで待てたかと言えば、絶対に待てなかった。そういう意味でもこのタイミングで観るしかなかったんですね。実は90年の〈アーバン・ジャングル・ツアー〉のときに2回目の新婚旅行と称してロンドン公演を観に出かけたんですが、そのときブライアン・ジョーンズの命日にお墓参りにも行ったんですよ。
―ストーンズへの愛が伝わってきますね。
小学生の高学年からザ・ローリング・ストーンズを好きになったんですが、その後のぼくの人生とともに動いてきて、導いてくれた存在ですね。常に背中を押してくれたと言うか。いつもストーンズと一緒にいるつもりです。いまでも常に刺激をくれる、自分のなかにいないと困るお守りみたいな感じです。
インタヴュー&テキスト:山田順一