BIOGRAPHY
パッセンジャー
2013年が始まった時点で、マイク・ローゼンバーグは自分の人生が転換期を迎えようとしていることに気付いていた。どの程度変わるのかは彼自身にもわからなかったが、たぶんそのほうが彼にとっても好都合だったことだろう。ブリクストン生まれのシンガー・ソングライターで、今やパッセンジャーの名で大勢の人々に知られる存在となった彼だが、その1年で20ヶ国のチャートのトップを飾ることになるだなんて誰かが伝えていたら、彼は正気を失ってしまっただろうから。
彼のその魅惑的な別れのバラード「Let Her Go」は、時間をかけて世界各地を席巻していった。欧州本土でヒットしたのが2012年の秋。そして、米ビルボード・チャートでトップ5入りを果たしたのは、2014年2月のことだった。そのおかげで、パッセンジャーは自身の成功をうまく受け入れることができたと言える。彼の公演に押し寄せる観客の量にも徐々に慣れることができたし、これは極めて重要なことだが、胸を引き裂かれるような美しい楽曲を書くことも、レコーディングし続けることもできたのだから。
『Whispers』は、そんなパッセンジャーの6枚目となるスタジオ・アルバム。最も古い曲のいくつかは、まだ彼がこれほど騒がれるようになる前からすでにあったものだ。いつ書いたのか自分でも定かではないそうだが、表題曲は「Let Her Go」が加速度的に売れ始めたときの、彼の頭の中の混乱ぶりを記録したのだという。一番最近になって書いたという曲でさえ、アムステルダムからオーストラリアに至るまで、世界中のいろんな公演やストリート・ライヴで何十回と演奏しては、着実に進化させてきた。
『Whispers』で聴くことができないものがあるとしたら、それはパッセンジャー自身の名声による変化の様子だろう。なぜなら彼自身、名声を得たからといって何も変わっていないのだから。今回も、プラチナディスクを達成した前作『All The Little Lights』と同じシドニーの小さなスタジオでレコーディングは行なわれた。共同プロデューサー(クリス・ヴァレーホ)も、多くのミュージシャンたちも、前作と同様の面々だ。今作は、壮麗な交響曲形式のサウンドでありながら、それほど多くの予算が吹き飛んだというわけではなかった。そしてレコーディングには合計わずか5週間しかかからなかったという。
このアルバムでリスナーが耳にするのは、愛や死、成長、そして老いといった物語だ。実話もあれば、フィクションもある。そして、すでにファンの間では人気曲となっている「Scare Away The Dark」では、我々の生命を脅かすテクノロジーについて、好き放題に毒舌を吐いている。それはステージ上でのざっくばらんなパッセンジャー同様、アルバムの中でも彼は声高に笑ったりおどけたりできるということを証明している。
「今回の作品は、たぶん僕がこれまで作った中でも最も“陽気な”アルバムだよ」。現在29歳のパッセンジャーはそう語る。「壮大な物語やものすごいアイデアがたくさん詰まっている。孤独や死について歌っている憂鬱な箇所ももちろんあるけれど、そもそも、そういうのがないとパッセンジャーのアルバムとは言えないしね。とはいえ大半は、実に前向きなアルバムさ」
これらの壮大な物語やものすごいアイデアを具現化するには、大掛かりなサウンドが必要だった。それゆえ『Whispers』には金管楽器や弦楽器が導入され、徐々にとてつもないクライマックスへと向かっていく。パッセンジャーいわく「バック・ヴォーカルの人数は相当なもの」だとか。
「僕にとってライヴでの経験は、アルバム制作とはまったく別モノなんだ」と彼は言う。「ライヴっていうのは、アコースティック・ギターとヴォーカルがあれば、驚くほどパワフルなものにすることも可能だ。歌詞を漏れなく聴くこともできれば、すごく親密なやり方で曲を届けることもできる。でも、録音物でギターとヴォーカルというこの2つの要素しかなかったとしたら、多くのリスナーはどう思うだろう。僕なら、夢中になれる構成要素はできるだけたくさんあったほうが嬉しいけどね」
『Whispers』で、パッセンジャーはギターに鉄琴、メロディカ、それにさまざまな種類の打楽器を演奏している。しかし、ピアノのパートについては「誰かきちんと演奏できる人」に任せたという。そのほか、フルートやクラリネット、ハーモニカ、ペダルスチールギターといった楽器の音色も聴くことができる。
大所帯のバック・ヴォーカル陣は、パッセンジャーの素敵な仲間でツアー・パートナーでもあるステュー・ラーセンや、シドニーのシンガー・ソングライターのジョージア・ムーニー、カナダのニューファンドランド出身のフォーク・グループ、ザ・ワンスといった面々の温かいサポートで成り立っている。
「ザ・ワンスには去年グラスゴーで開催されたケルティック・コネクションズで会ったんだ」とパッセンジャー。「彼らのヴォーカルがとにかく圧倒的でさ。で、その声を聴くやいなや、僕のアルバムでもきっとすごい仕事をしてくれるに違いないと思ってね。結局、彼らがシドニーまで来て、ほとんどすべての曲で歌ってくれることになったんだ。今回のバック・ヴォーカルには本当に満足してる。合唱隊のようでもあるし、たくさんの仲間が一部屋に集まってただ一緒に歌ってるって感じでもある。それこそまさに僕が求めていたものなんだ」
「Heart’s On Fire」は『Whispers』の中でも、おそらく最も壮大なラブソングといえるだろう。フィンガーピッキングで奏でられるまばらなギターの音色から始まり、やがて劇的で情熱的な、弦楽器をふんだんに使ったメロディーにのせて、どうしても忘れることのできない人への想いが溢れ出す。目を閉じて聴き入れば、ロイヤル・アルバート・ホールでオーケストラの演奏するさまがありありと思い浮かぶことだろう。
「『Heart’s On Fire』は郷愁をかきたてる歌だと思う」とはパッセンジャー本人の弁だ。「誰かと一緒にいるのがふさわしくないタイミングについて歌っているんだ。たとえその相手はふさわしかったとしてもね。それに、そのときはその人とは一緒にいないけど、将来のどこかのタイミングで2人の関係がより通じ合うときが来るかもしれないっていうね」
ウエスタン調のオープニングと魅力的なアレンジにのせ、頭韻体でつづられた“自然の観点から描かれた老い”というテーマを歌い上げる「Start A Fire」は、パッセンジャーいわく、彼がこれまで試みた中でも、最も大胆な曲だという。
「これまで自分では一度も書いたことがないような、かなりの大作だよ」と彼は言う。「老いを受け入れる男の人生を歌った物語さ。僕自身のことではないよ。僕の作る曲の中には、憶測が基になっているものもあるからね。とはいえ、これは一定の年齢になると誰でも感じずにはいられないことだと思う。歌詞をじっくり聴いてもらうと、とても悲しい曲だと感じるだろうね」
『Whispers』で最も印象的な物語といえば、午前3時に遭遇した、死を間近に控えた肺がん患者の男性との実話だろう。どれほど非情な心の持ち主であっても、この5分間の「Riding To New York」が終わりを迎える頃には、涙を流さずにはいられないはずだ。
「もう何年も禁煙しようとはしているんだけど」と、楽曲の生まれた経緯を説明するパッセンジャー。「たいていは吸わずにいられるんだけど、しばらくすると戻っちゃうんだよね。ミネアポリスにいたときの話なんだけど、真夜中、どうしてもタバコが吸いたくなってさ。禁煙を解除して、ガソリンスタンドまでタバコを買いに歩いて向かったんだ。火曜の朝の3時だった。外に出ると年老いた男がいて、オートバイに腰掛けてタバコを吸ってたんだ。通り過ぎようとすると、その人が言ったんだよ。『こいつは俺のこれまでの人生で最高のタバコだ』ってね。おかしなことを言うもんだなって思ったよ」
「それで、どういう意味なのか聞いてみたんだ。すると彼は教えてくれた。肺がんで、もうすぐ死ぬんだって。あとどのくらい生きられるのか、自分でもわからない。それでも、古いバイクを買うことにしたんだって。そいつでアメリカを横断して、ニューヨークに着いたら、残りの人生は家族と一緒に過ごすんだってね」
「その晩、結局タバコは買わなかったよ。それから数日で曲はほぼ書き上がった。弦楽器のパートがあって、金管楽器も少々、あと、それらを包み込むようにエレキギターとピアノが入ってる。すべてはあの、何とも不思議な午前3時の束の間の体験から生まれたんだ」
アルバム『Whispers』についてなら1日中だって語ってはいられるが、とはいえ曲を実際に聴いてもらったほうがいいだろう。シングル「Let Her Go」は成功の連鎖を続けており、2013年には音声検索アプリのシャザムの年間チャート「世界で最も“シャザム(検索)された”曲」の第9位となっただけでなく、英国のシングルで最大のセールスを記録。さらに最近ではスーパーボウルの中継で最も人気を集めたCMのBGMにも起用された。そしてYouTubeでは同曲のオフィシャルビデオがトータルで2億2200万ビューを超えている。しかし、パッセンジャー本人としてみれば、ただ単にいくつかの扉を開いただけだ。今や数百、いや数千という人々が彼の公演に足を運び、彼のほとんどの曲の歌詞を把握している。それでも彼はストリートでの演奏を今なお続けている。2009年にソロになってから、そのスタンスはずっと変わっていない。
「この先数ヶ月間は、ストリート・ライヴをたくさんやろうと思っているんだ。フェスティバル・シーズンが始まるまではね」とパッセンジャー。「僕はもうアコースティックで単純にロックすることはできない。僕自身、その状況に慣れなくちゃならなかったんだ。とはいえ、ストリート・ライヴをやるのは今でも大好きだよ。音楽の演奏形態として、とても誠実だと思うからさ。誰が聴いてもいいし、お金も必要ない。こんなに素晴らしいものが、他にあるかい?」