野宮真貴×坂口修対談 詳しすぎる渋谷系。超16,000字・渋谷系の歴史(構成:栗本斉) 

―まず聞いておかなければいけないのは、お二人の出会いです。

野宮 初対面っていつだったんだろう(笑)。私、1981年にソロ・デビューして、その後ポータブル・ロックというユニットをやってたんですよ。その時に鈴木慶一さんが作った「水族館レーベル」に参加していて、リアル・フィッシュなどと一緒にツアーを回ったことがあったんですが、たしかその時にいらっしゃったんですよね。

坂口 そうなんです、いたんです(笑)

野宮 でも覚えてない(笑)

―その頃、坂口さんは学生さんだったんですよね。

坂口 そうです。ライターみたいなことをやってて、関西に住んでいたんですけど、ヒッチハイクで東京に行って(笑)、取材と称してアーティストの方のところに遊びに行かせていただいていたら、面白がってくださる人が何人かいて。その中の一人が鈴木慶一さんだったんです。それで、ツアーにも一緒にくっついて回ったりしてました。

野宮 じゃあ、打ち上げにもいたの?

坂口 いましたよ。

野宮 やっぱり覚えてない(笑)

―その後は、定期的に野宮さんとは接点があったんですか。

坂口 ポータブル・ロックを最初に観たのは原宿にあったピテカントロプスでのライヴだったんですけど、「水族館レーベル」のツアーで東名阪をまわったりけっこう長く一緒にいました。ただ、僕はリアル・フィッシュの戸田誠司さんや渡辺等さんたちと仲良くさせてもらっていたので、ポータブル・ロックのひとたちとはあまり話はしなかったかも。

野宮 私、仲良くしてあげなかったんだ(笑)

坂口 いやいや(笑)そういうことではなくて、リアル・フィッシュって大所帯だから一人くらい増えてもかわらないし。だから、野宮さんとは密に関わることはなかったんです。

野宮 私が三代目のピチカート・ファイヴのヴォーカリストとして加入するのが1990年なんですけど、その最初の頃はライヴ来てたんですよね。

坂口 田島貴男さんがヴォーカルの時にはすでに野宮さんがコーラスをしていて、そのライヴは観に行きましたね。でも、ピチカート・ファイヴが近くなったのは、シティボーイズのマネージメントをやり始めて、ライヴをやるにあたって、ステージのサウンドトラックを小西さんにお願いするようになってから。

野宮 それはいつ頃ですか。

坂口 1992年だから、ずいぶん後ですよね。僕は1986年にはプロダクション人力舎に入って大竹まことさんのマネージャーやってたから、前みたいにツアーのおっかけもできないし。だから、ライヴは時々観に行ってたくらいかな。小西さんが渋谷のインクスティックでやってたDJのイベントなんかは遊びに行ってましたけど。でも実は、小西さんには1985年のデビュー当時に取材させてもらったこともあるんです。で、小西さんにシティボーイズのサントラをお願いしたことで仲良くなって。

野宮 きっと話が合ったんだよね。

坂口 この時もそうだったんですけど、僕がアーティストの方と仲良くなるきっかけって、その方が欲しがっていたレコードをプレゼントするとか、そういうことが多くて。レコードわらしべ長者なんです(笑)

―ということは、坂口さんはそれまでファンに近い立ち位置でピチカート・ファイヴに関わっていたけど、シティボーイズを通じて仕事としてつながったということですね。

坂口 そうですね。でもその時は、あくまでも小西さんメインなんですよ。

野宮 でも、ピチカート・ファイヴがワールド・ツアーをやった時に、坂口さん追っかけしてましたよね?(笑)

―なんでそこに坂口さんが(笑)。だってまだ、シティボーイズのマネージャーだったんですよね。

坂口 最初は1993年のニューヨークの『ニュー・ミュージック・セミナー』のライヴを観に行って。それで、3年連続で行ったんですよ。その時は遊びに行ったんです、一週間くらいが休みが取れたから。でも、そうやって一緒にいると、いつの間にか当たり前のようになって。

野宮 だからスタッフみたいになっているんですよ。大竹まことさんのマネージャーもやられてたから、すごく気が利くし、いろいろとやってくださって。

―そう思うと、坂口さんって不思議な存在ですよね(笑)

坂口 この話は裏を返せば、その時の会社は代表が大竹まことさんだったので、ゆくゆくは音楽部門のマネージメントを作って、ピチカートをメインで入れたいねって話があったんです。そのネゴシエーションも兼ねた同行ってことにして(笑)。海外デビューするから、今のうちに仲良くなっておこうというわけです。それと、海外とのコネクションも一緒になって作っておいたほうがいいじゃないか、といこともあって。最初にいるいないってけっこう大きなことだから。実際、行ったら行ったで、いろんな人に会うことができたし。それで、そのうちのひとりが、バート・バカラックさんだったんですよ。

―バカラックさんとはいつ会ったんですか。

坂口 最初は電話でしゃべったんですよね。

野宮 ピチカートで「ミー・ジャパニーズ・ボーイ」をカヴァーしているってことを話したんだっけ。

坂口 そうそう。ピチカートの楽曲を北米で管理していたのが、フジパシフィック音楽出版がアメリカで作ったウィンドスウェプトという音楽出版社だったんですけど、そこのオフィスの中にバート・バカラック・ミュージックもあったんですよ。それで、ウィンドスウェプトのオフィスに挨拶に行ったら、入ってすぐ左のドアにバート・バカラックって書いてあって、その隣にはフィフス・ディメンションのプロデューサー兼エンジニアだったボーンズ・ハウって書いてある。小西さんと「えーっ!」って。それで、マタドールから出たアルバムに「ミー・ジャパニーズ・ボーイ」が入っているからって、あらためて持って行ったんですよ。バートさん自身はいなかったんですけど、代表と秘書の方がいてとても喜んでくださって。そして次の日にピチカートがラジオに出たんです。

野宮 あの当時、ピチカートはカレッジ・チャートですごく人気があったので、番組に呼ばれてスタジオ・ライヴをやったんですよね。

坂口 そしたら、秘書の方がバートさんにピチカートが出演することを伝えてくださっていて、バートさんがラジオを聴いてとても喜んでいると電話がかかってきたんです。「本人が話したいと言っているから、ぜひ事務所にきてください」ということで。

野宮 それで事務所に行ったら、バート・バカラックさんと電話がつながっています、ってことになって。それでスピーカーフォンでみんなに聞こえるように。「初めまして」っていうご挨拶したら、バートさんは電話の向こうの部屋でピアノを弾いて、「ミー・ジャパニーズ・ボーイ」のフレーズを披露してくれて。

坂口 あと、「この曲はなんだかわかるかい?」っていって「アルフィー」の一節を弾いてくれたり、とにかく濃密な時間でした。

野宮 アメリカではまだまだ新人の私たちに対して、ご本人が話をしてくれたりピアノを弾いてくれたりって、本当に貴重な体験でしたね。大物は違うなぁって感動しましたね。

坂口 その時は実際には会えなかったんですけど、秘書の方とはコンタクトが取れる状態になって。それで、帰国したらすぐソニーから小西さん監修の『レディメイド・シリーズ』っていうコンピレーション企画があって、そこでバカラックの楽曲集を作るということで、ご本人にも「一言コメントください!」ってお願いしたら、電話で録音させてもらえて。それで、翌年バートさんとロサンゼルスで会うんですけど、その時は野宮さんはいなかったんですよね。

野宮 そうなんですよ。私の代わりに小西さんと坂口さんが行ってくれて(笑)

坂口 ビーチでランニングした後で汗かいてましたから。スニーカーとトレーナー姿で。トマトジュース頼んでました(笑)

野宮 その時も何かお土産持って行ったんだっけ(笑)

坂口 一応、日本でしか発売されていないCDとか持っていきましたね(笑)

野宮 さすが!

坂口 あと、ピチカートのワールド・デビューの話でいうと、ファンの人がウェルカム・パーティーを開いてくれたのを覚えていますか。

野宮 ティム・バートンに会った時だ!

坂口 そうそう。あのパーティーって画廊で行ったんですけど、実はその時、「君の瞳に恋してる」の作者のボブ・クリューさんが個展をやっていて彼もいらしたんですよ。あの方は絵も描く人で。それでその日は、バート・バカラックさんと話せたし、その前にはボーンズ・ハウさんにも会ってるし、「これでブライアン・ウィルソンに会えたら、僕たち死んじゃうかもね」なんてことを小西さんと話した記憶があります。(笑)

野宮 そんなことも含めて、坂口さんはいつの間にかピチカートと一緒にいるという印象でしたよね。

Interview01
ボブ・クリューさんと
1994年 L.Aにて
アルバム「5×5」リリース・プロモーション

―でも、そこまで野宮さんやピチカートのことを知っている人も貴重ですよね。

野宮 そうなんですよ。私は1981年にデビューしてますけど、その頃からずっと見てくれている人って実はあまりいなくて。

坂口 野宮さんは最初はムーンライダーズ・ファミリーというイメージだったんですけど、そのあとピチカートに行ったじゃないですか。ライダーズと渋谷系って両方押さえている人って意外に少ないんですよね。それが二人の共通項!

野宮 同じ東京っぽいグループだけど、ちょっと違いますもんね。

―その後のお二人のご関係は続くんですか。

野宮 ピチカート時代はけっこう一緒にいた記憶があるんですけど、解散してからは私もソロでやったりしていて、その間はしばらくお会いしてなかったですね。

坂口 解散直前はいろいろありましたけどね。

野宮 そうそう、シティボーイズの舞台にも出させてもらったこともありました。その時はステージで歌うシーンがあって、坂口さんが舞台の音楽もプロデュースされてたから、レコーディングも一緒にしたりして。

坂口 ちょうど2000年なんですけど、その時は、80年代にelレーベルをやっていてたルイ・フィリップさんにサントラをお願いしたんです。友達の皆川勝くんがポリスターのトラットリア・レーベルで彼の新作と旧譜をリリースしてたんで。プロモーション来日したとき、ソフト・ロックのレア盤エタニティ―ズ・チルドレンのレコードをさがしているっていうのを聞いて、たまたまうちにストックがあったからプレゼントしたら、「何でもしてあげる」って(笑)。それでサントラをお願いしたんですよ。オープニングとエンディングを書き下ろしてもらって、野宮さんに歌っていただきました。

―じゃあ、お二人が密に仕事をされたのはそれが最初ということですか。

坂口 そうですね。小西さん抜きでダイレクトにやったのはそれが最初です。

野宮 小西くんのシティボーイズのサントラの時に、私がコーラスやったりというのもなかったですよね。

坂口 無いですね。あえてあの頃は、水森亜土さんとか「宇宙戦艦ヤマト」のスキャットでおなじみの川島和子さんにお願いしたんです。そこはピチカート色を出しすぎないように。ピチカートって、野宮さんの歌も好きだったんですけど、「オケだけでも成立する究極のノベルティ・ミュージックじゃん」って思っていたんですよ。だから、小西さんには「歌の無いピチカートというイメージで作って欲しい」といって、シティボーイズのサントラでいろいろ試してもらいました。だから、野宮さんには意図的にお願いしなかったんです。あとレコーディングで関わったのは、音楽プロデュースで参加したフジテレビ『サタスマ/少年頭脳カトリ』の野宮さんが一人多重で歌ってくれたオープニングテーマの時とピチカートが解散する直前の最初のソロ・アルバムの時だったかな。

野宮 カプリ島でレコーディングした時ね!ソロはイタリア録音したかったんです。なぜなら、その前年、イタリアのラウンジフェスティバルにピチカートが出たときに知り合ったバンドがいてもう一回会いたいなと思って。それで、VIP200というバンドと、モンテフィオリカクテルという兄弟ユニットに、次の年に「ソロ・アルバムを手伝って欲しいな」ということになって。それで、イタリアのミュージシャンと、当時ミラノに住んでいた岩村学くんに参加してもらいました。その頃はレコード会社も海外レコーディングとか行かせてくれたし(笑)それで、カプリ島にマライア・キャリーなんかも使っている、すごいスタジオがあると聞いて。その時にも坂口さんが来てくれたんです。

坂口 そこは宿泊もできるリゾート・スタジオでね。その前にシティボーイズのサントラでイタリア・レコーディングしたことがあったんですよ。『黄金の七人』とかそういう古い映画のサントラのマスター・テープを探していたら、イタリアまで行ったほうが早いやってことになって。それで、ローマにあるGDMというレコード会社の倉庫に行って、そこで『女性上位時代』のマスターを見つけたりするんですけど。そしたら、隣のスタジオに『黄金の七人』のスキャットで有名なエッダ・デローソさんがいて。その方がまだ現役で歌っていたので、ピエロ・ピッチオーニさんとか「マナ・マナ」のピエロ・ウミリアニさんとかと一緒にレコーディングしてもらったんですよ。それでけっこうイタリアとのコネクションが出来て。ちょうど野宮さんがイタリアでレコーディングしたいという話があったから、いろいろ探してもらったら、そのカプリ島のスタジオを紹介されたんです。その頃、イタリアで唯一デジタル・レコーディングが出来たのがそこだけだったんですよ。

野宮 カプリ島って適度な湿度があるので、ヴォーカリストにとっても最適らしいんですよね。

坂口 そして、当時はまだリラだったんだけど、支払いはポンドで払って欲しいって。ヨーロッパの音楽業界ってポンド建てだったんですよ、なぜか? 今はユーロになって変わっちゃったんだけど。そういったスタジオのコーディネーションということで、一緒に行かせてもらったんです。まさに、1992年から2000年まで、会社には「ピチカート、そろそろ来ますから」とかっていう話で(笑)

野宮 でも、本当に坂口さんの事務所に行ってたらよかったのにね。その後の展開も変わっていたかもね(笑)

坂口 (笑)。そんなわけで、密に仕事をすることになったのは、その2000年前後くらいからですね。

―ということは、いわゆる渋谷系全盛期を一緒に過ごされたということですよね。

野宮 そうだよね。ところで渋谷系とはなんですか(笑)。一歩引いて見てみると。

坂口 人によって、渋谷系ってきっと違うんですよ。僕の中では、やっぱりピチカートとトラットリア・レーベル、クルーエル・レコードといった周辺の人たちに加えて、海外で知り合った人たちなんですけど。一番大きかったのは、過去のものだと思っていた音楽が、みなさん現役だったということがわかったことかな。それが、渋谷系を好きでいてよかったなってことですね。だから、シティボーイズのサントラなんかでも、若い人たちとベテランの人たちが一緒にコラボレーションできないかなって、いつも考えていましたね。時代を超えて何かを一緒に作ることやその場所というのが、渋谷系だったかなと思います。

―野宮さんはどうですか。そもそも渋谷系と言われていることに対してはどう思っていましたか。

野宮 当時は、「へー、そう呼ばれてるんだ」という感じで(笑)。その頃、渋谷系って言われていたミュージシャン同士で、フェスをやったり一緒にイベントやることって意外になかったんですよ。だからあまり会うこともなかった。小山田くんがピチカートの『BOSSA NOVA 2001』をプロデュースしてくれたりとかそういうのはあったんですけど。私にとっての渋谷系のひとつのキーワードは「オシャレ」。『Olive』という雑誌が好きで、アニエス・ベーのボーダーを着ている女の子がイメージ。実は音楽のジャンルでいうと様々なスタイルがあったし。そういう意味で共通しているといえば、コンテンポラリー・プロダクションの信藤三雄さんが手がけたCDジャケットのデザインなのかもしれない。それまでの80年代のジャケットからガラッと変わって、CDのパッケージがインテリアとして部屋にも飾れるくらい素敵になった。渋谷系の人たちって、音楽だけじゃなくて古い映画やファッション、写真やグラフィックデザインにも精通していて、リスペクトをもって自分たちのビジュアルも表現していたから。音楽とアートディレクションの両方が一体となっていたのが渋谷系かな。

坂口 「ジャケ買い」という言葉も渋谷系ならではですからね。

―逆にオシャレじゃないと渋谷系に入れなかったのかもしれないですね。

坂口 その反動もあってグランジなんかも出てくるわけだけど。でもビジュアルという意味では、日本独自のムーヴメントかもしれないですね。もともとLPの時代ジャケットは飾ればアートとしても存在できましたしね。でもCDになると単純に小さいので、わかりやすいようにアーティストの顔をドーンと載せるじゃないですか。目立たせるために、そういうジャケットが増えちゃったんですよね。でも、ベタすぎてオシャレではなかったところ、そこはウォークマンみたいにものを小さくする技術に長けた日本人が、ジャケットもミニチュアのアートにしちゃえばいいじゃんっていう発想。それが、信藤さんや小西さんの発見だったのかもしれないですね。

野宮 みんな本当はアナログの方が好きだから、CDって好きじゃなかったんですよ。味気ないプラスチック・ケースで。だから、オシャレなものにするために、いろいろとアイディアを出して工夫し始めたんですよね。

坂口 形態は変えられないから、最初はトレイの底を透明にしたんですよね。ビジュアル面を増やすために。そういうところの発想からですよね。

―裏側が表になったりとか、

野宮 その方が写真も大きく使えるしね。

坂口 そのうち、箱入りになったりとか。

―ピチカートの『月面軟着陸』の小さなブックレットも衝撃的でした。

坂口 逆に小さくするという発想もすごかったですよね。

野宮 持ってるとシャカシャカ音が鳴るし(笑)

坂口 あと、ダイレクトにプラスチック・ケースに印刷するというのもありました。

野宮 ただ、LPサイズのデザインを小さくするだけではダメだから、新しい発想が生まれました。

坂口 そういう意味でも、信藤さんこそが渋谷系なんですよ。もちろんそれまでにもユーミンさんを手掛けていらっしゃるし、ミスチルなんかも信藤さんですけど、そういった人たちも渋谷系に思えてきちゃうんですよね。それはアートワークの力ですよね。

―でも、ピチカートの解散とともに、渋谷系は終息していきました。

坂口 そこから我々もしばらく会わない時期が続くんですよ。

野宮 そうですね。それで、久々に会ったのが、またバート・バカラックなんです。

―その間は、まったくご一緒されていないんですか。

坂口 そんなことはないですよ。僕がBSフジの「HIT SONG MAKERS~栄光のJ-POP伝説~」という番組を監修させてもらって、そのナレーションを野宮さんにお願いしたりとか。あとは、「ワールド・プレミアム・ライブ」というNHKの海外アーティストの番組でMCしてもらったりとか。

野宮 そういうお仕事はしていたんですけど、一緒に何かを作るっていうことはなかったですね。だから、今回のアルバムやライヴの話になっていったのは、まさにバカラックがきっかけなんです。2012年のビルボードライブに観に行った時に、ふと坂口さんのことを思い出したんですよ。「絶対来てるな」って(笑)それで久しぶりに電話をしてみたんです。「今日いますよね」って(笑)

坂口 それで「もちろん!」ってことになって。

野宮 「やっぱり」って(笑)

坂口 そうそう、野宮さんは2回公演のうちの最初の方だったんですけど、あまりにも良かったと言って2ndステージのチケットもその場で買われたんですよね。

野宮 高かったけどね(笑)これはもう一回観なきゃって。

坂口 それで、2回目が終わった後で一緒に楽屋に行ったんですよ。

野宮 実は、その前の2008年の来日時にもお会いしてるんですけど、それ以来という感じで。

坂口 それで楽屋挨拶の後、ビルボードライブの近くでお茶をして、いろいろと話をしたんです。

野宮 ちょうどその頃、今後何を歌っていこうかなあって思っていた時で。

坂口 その直前に『30 ~Greatest Self Covers & More!!!~』というアルバムを出されていて。

野宮 そういえば、バカラックさんにも渡しましたよね。

坂口 それで、この時がセルフ・カヴァーだったので、その後はどういう展開がいいのかって話になって。

野宮 『30 ~Greatest Self Covers & More!!!~』はピチカートのカヴァーが中心だったから、「ここまで渋谷系を今も歌っている歌手っていないよね」って。そして、バート・バカラックのライヴを観て「やっぱりいい曲は時代を超えていいよね」って。渋谷系のルーツでもあるし、バカラックのカヴァーをやってみようかという話になったんですよ。

―それは坂口さんからの提案だったんですか。

坂口 そうですね。

野宮 それで、そこから「一緒に何か作りましょう」ということになったんです。

野宮 そんなことも含めて、坂口さんはいつの間にかピチカートと一緒にいるという印象でしたよね。

Interview02
バート・バカラック 2013年ビルボードライブ東京にて

坂口 カヴァーといえば由紀さおりさんとピンク・マルティーニのアルバム『1969』をヒットさせた、当時はEMIミュージックの執行役員で子安次郎さんという方がいらっしゃって、じゃあ「カヴァーといえば子安さんかな」ということで、お声がけして野宮さんに会っていただいたんです。それが2013年ですね。それでアルバムが作れればいいなって話をしていた時に、バカラックだけじゃなくて「50年前の1963年というキーワードも面白いんじゃないですか」っておっしゃられて。たぶんそれは由紀さんの1969年のイメージもあったんでしょうね。それで思いおこしてみたら、1963年にはルビー&ザ・ロマンティックスの「Our Day Will Come」があったり、バカラック作品を梅木マリさんや越路吹雪さんがカヴァーした曲もあったり。よくよく考えてみると、どれもEMIの前身の東芝音工がリリースしていて、子安さんもEMIなわけだし。渋谷系ルーツの裏テーマとしてはディグスEMIという、そういうイメージが出てきてたんです。それから、たまたまその打ち合わせの前に少し時間があったので、近くの中古レコード店に行ったら、これまた東芝エクスプレス・レーベルで由紀さおりさんの「生きがい」っていう曲のシングル盤があったんですよ。すでに持ってたんですけどきれいな盤だったから買って行って、「この曲に渋谷系を感じるんですよね」って出したら。

野宮 そう、私もすごく好きな曲で。

坂口 しかも、子安さんも大好きだという話になって、意気投合したんです。そうやってCDのための選曲をしていたら、同じタイミングでビルボードライブ公演の話が来て、そちらの方の選曲に進んでいったんです。ユーミンさんの「Hong Kong Night Sight」もいいよねってことになったり。そうやって選んでいったので、最初のビルボードライブのセットリストは、オリジナル・ラヴも小沢健二くんも実は全部東芝関係の楽曲なんですよ。

―それは、レコーディングを見据えて選曲されていたんですか。

坂口 そうです。トワ・エ・モワや尾崎亜美さんなんかも全部そう。CDが前提にあって、ライヴ企画があったからあてはめたというか。でも、なかなかCDの方が進まなかったんですよ。ちょうどEMIさんもユニバーサルさんと吸収合併する時期で。

―そうやって行われたのが、2013年の最初のビルボードライブ公演ですね。

野宮 それで、《渋谷系スタンダード化計画》という言葉が生まれて、毎年恒例のライヴになっていったんです。

―《渋谷系スタンダード化計画》として、最初のビルボードライブが行われたのが、2013年の11月。その模様は、ライヴ盤として『実況録音盤! 野宮真貴、渋谷系を歌う。』としてまとめられ、2014年に第二弾ライヴが行われました。そして、ようやくニュー・アルバム『世界は愛を求めてる。 What The World Needs Now Is Love ~野宮真貴、渋谷系を歌う。~』の話になるわけですが、選曲はどのように決まっていったんですか。

坂口 最初は、2013年と2014年に行った過去2回のライヴの集大成として、アルバムを制作しようと考えました。それと、渋谷系の歴史も考慮しました。バート・バカラックとロジャー・ニコルズに始まり、はっぴいえんど、村井邦彦さん、ユーミンさんは選びたいなと。

―いわゆる渋谷系の曲に関しての選曲基準ってあるんですか。

坂口 こういう言い方をすると失礼かもしれないんだけど、90年代の人たちって結構ヘタウマなんですよ。それが当時の味でもあるんだけれど、曲自体はすごくいいのに語り継がれていないなあという思いがあって。そういういい音楽を、歌の上手い野宮さんと演奏の上手いミュージシャンによって表現すれば、より楽曲が認知されるんじゃないかって。

―渋谷系ってどこか流行りモノっていう印象がありますからね。

坂口 でも、もともとの渋谷系のルーツになっている楽曲っていうのは、名曲だらけじゃないですか。これらの曲をベースにしているから、90年代の渋谷系も名曲がたくさんあるわけです。だから、そういった曲をさらにブラッシュアップして、次世代に残していければいいなとは思いますね。元祖渋谷系の野宮さんが歌うということで、さらに説得力を持つんじゃないかなとも思いますし。アレンジに関しても、そのままカヴァーした方がいいなと思えるものは、そこも重視しています。

Jk
東京は夜の七時(小西康陽/小西康陽)
日本コロムビア株式会社

―では、収録曲について順番にお聞きしたいのですが、やはり冒頭はピチカート・ファイヴのヒット曲「東京は夜の七時」ですね。

野宮 私の代表曲だしわかりやすいと思うから選んだというのもありますね。これから楽しいことが起こるよ、というようなワクワクする気分になる曲です。

坂口 渋谷系といえばこの曲は外せないじゃないですか。今回はスタンダードというコンセプトでもあるので、4ビートのジャズ・アレンジにしてみました。

野宮 ビルボードライブも開演が7時だったので、オープニングで歌いました。そういえばSNSで毎日夜7時に写真をアップするのを日課にしているんでけど、ライヴの時はみんなで記念撮影もしましたね。

―「What The World Needs Now Is Love」は、何度も話に出ているバート・バカラックの名曲ですね。この曲を選んだ理由はなんですか。

Jk
WHAT THE WORLD NEEDS NOW IS LOVE
(Hal David/Burt Bacharach)

野宮 他にもいろいろと候補はあったんです。ビルボードライブでは「チャンスが欲しいの」の越路吹雪さんによる日本語ヴァージョンを歌ったし。でも、時代が時代だけに、この曲が持つ「世界は愛を求めてる」というメッセージを、今伝えたいなって思ったんですよね。

坂口 野宮さんは海外でも認知されているから、“世界は野宮を求めてる”というメッセージも含めて、この曲を選んだということもありますね。

―スウィング・アウト・シスターのコリーンが参加しているんですよね。

野宮 来日した時にライヴを観に行って楽屋でお会いしたんですけど、彼女もピチカートのことをよく知っていて喜んでくれたんですよ。一時期はスウィング・アウト・シスターとピチカートが並んでいるようなこともあったよね、なんて話をしたりして。それで、今度何か一緒にやりましょうってことになって。

坂口 その時、僕は行けなかったんですけど、その後野宮さんから誘ってもらって、彼らの別のライヴに行ったんです。実はスウィング・アウト・シスターとは、1997年に来日してレコーディングしていた時に六本木WAVEでばったり会って、自分が作ったバート・バカラックのコンピレーションCDをその場で買ってプレゼントしたことがあったのでそれ以来なんです。スウィング・アウト・シスターって、打ち込みの時代に生楽器でバカラックの世界観を作っていたじゃないですか。だから、渋谷系のひとつの形なのかなとも思って。1stアルバムが打ち込み、2ndが生楽器ってピチカートと同じ時期に同じことをしていましたから。

野宮 そういうことがあったので、今回参加してもらうことをお願いしたら、快くOKしてくださったんです。

―この曲は英語ヴァージョンと別に、小西康陽さんが訳詞した日本語ヴァージョンもボーナストラックに入っているんですよね。

野宮 英語もいいんですけど、この曲を日本語でも歌ってみたいなあと思ったんです。それで小西くんに書いてもらえたら最高だなって思って、お願いしました。小西くんはオリジナル曲に付ける歌詞も素敵なんですけど、訳詞も素晴らしいんですよ。

Jk
LOVE SO FINE(Tony Asher/Roger Nichols)

―続いては、ロジャー・ニコルズ&ザ・スモール・サークル・オブ・フレンズの「LOVE SO FINE」ですね。彼らのアルバムは、渋谷系のバイブルと言われています。

野宮 私は小西くんに教えてもらうまでは知らなかったんですけど、ピチカートやフリッパーズ・ギターなど渋谷系のアーティストの多くに影響を与えていましたね。

坂口 彼らのアルバム『Roger Nichols And The Small Circle Of Friends』は1967年暮れに発表されているんですが、日本のみならず本国でもほとんど知られていなかったんです。でも、細野晴臣さんが日本で最初に手に入れた人だという説があるんです。FENのアルバムを特集する番組で聴いて注文したそうです。その後、大瀧詠一さんが1972年にはっぴいえんどのレコーディングで渡米した際に手に入れて、スタジオで山下達郎さんに聴かせて。あと、大瀧さんのラジオ番組で流れていたのを小西康陽さんが耳にして、新宿の輸入レコード屋さんに入荷するという情報を音楽雑誌の広告でゲットして、朝一番から並んで無事手に入れたそうです。そして小西さんが1987年の再発CDに入魂のライナーノーツを書いて、それを若き日の小山田圭吾くんたちが聴いて。そう考えると、このアルバムは、渋谷系を繋ぐ名盤といってもいいですよね。

Jk
或る日突然(山上路夫/村井邦彦)

―一転して、トワ・エ・モワのヒット曲「或る日突然」ですね。

坂口 村井邦彦さんが作曲した代表曲ですね。冒頭部分のメロディが、バカラックの名曲「雨にぬれても」に似ているんですが、「或る日突然」の方が半年くらい発表が先なんですよ。あと、山上路夫さんの詞は、小西康陽さんの作風に相当影響を与えていると思います。

野宮 念願叶って、村井邦彦さんとデュエットできたことが何よりも嬉しいです。歌は同じスタジオで一緒に歌いました。いつもライヴではひとりで歌っていたのですが、ようやく恋人を見つけた気分です(笑)。私はお相手がいると気合が入るので、歌いやすいんです。
素敵な「或る日突然」になって大満足です。

―作者の村井邦彦さんとデュエットしているんですか。

坂口 村井さんは普段L.A.に住んでいらっしゃるんですが、ちょうど古希のお祝いコンサートで来日されたのでしつこくお願いして実現しました。オリジナルの芥川澄夫さんもそうですが、村井さんの歌い方ってなんだか小西さんの声に聴こえてきませんか。

Interview01
村井邦彦 2015年都内レコーディングスタジオにて

Jk
中央フリーウェイ(荒井由実/荒井由実)

―続いても村井さん絡みなんですが、ユーミンが荒井由実時代に書いた名曲「中央フリーウェイ」です。

坂口 ユーミンさんも野宮さんと一緒にコンサートを観させてもらって、楽屋であいさつしたんです。そこでご本人にライヴで「HONG KONG NIGHT SIGHT」をカヴァーしたっていう話をしました。

野宮 そしたら、「あの曲、野宮さんに合ってると思う」なんて話をしてくださって。

坂口 でも、「HONG KONG NIGHT SIGHT」はライヴ・アルバムにも入っているので、別の曲にしようと。

野宮 それでさっきも話に出た村井さんの古希祝いのコンサート“ALFA MUSIC LIVE”にプレゼンテーターとして出演させてもらったこともあって、そのお返しに村井さんが設立したアルファ・レコード在籍時代のユーミン・ナンバーを選曲しました。

坂口 この曲って実はかまやつひろしさんのために書かれたんですよ。「セブンスターショー」という番組に出演された時にティン・パン・アレーを従えて共演しているんですが、そのアレンジを完コピしてみました。実は、ユーミンさんのオリジナル版はMike BairdとLeland Sklarがリズム隊なのでティン・パンは演奏していないんです。でも、先日の“ALFA MUSIC LIVE”でやっと聴くことができました。あと、偶然なんだけど2013年にスウィング・アウト・シスターも実はカヴァーしているんです。

野宮 いつかティン・パン・アレーの演奏で歌ってみたいですね。それが夢です。

―野宮さんは、ユーミンはよく聴いていたんですか。

野宮 聴いていましたね。従兄弟がアルバムを持ってて、それで初めて聴いて。その後は、ボーイフレンドが作るドライブ用のカセットテープにユーミンの曲はよく入っていましたね。

Jk
ドリーミング・デイ(大貫妙子/山下達郎)
Ⓒ1976 The Niagara Enterprises Inc.

―次は山下達郎さんの「ドリーミング・デイ」です。大瀧詠一さんからの誘いで、伊藤銀次さんと1976年に参加したアルバム『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』の収録曲ですね。

坂口 達郎さんの曲は女性には歌うのが難しいと思って悩んだんですが、これなら同じシュガー・ベイブに在籍していた大貫妙子さんが作詞だし、シリア・ポールさんもカヴァーしているので合うかなと思って選びました。

野宮 私が歌ったヴァージョンは、達郎さんとシリアさん両曲のプロデューサーだった大瀧さんに敬意を表して、ニューオーリンズ風のアレンジになっています。

―そして、スクーターズの「オー・ハニー」ですが、渋谷系の代名詞といてもいいグラフィック・デザイナーの信藤三雄さんが在籍していたことで知られるバンドですね。

Jk
オー・ハニー(中西保子/中西保子)
スクーターズ「娘ごころはスクーターズ」
徳間ジャパンコミュニケーションズ

坂口 さっきも話したように、“信藤さん=渋谷系”ということを発見してから、早い時期に「オー・ハニー」を取り上げるつもりでいたんです。スクーターズのライヴは、僕も学生ライターの頃から欠かさず観ていましたから。それで、2014年の9月にもライヴを観に行ったら、信藤さんがMCで“最近、小西くんと会った時、この曲がスクーターズで一番ピチカート・ファイヴっぽいコード進行って言われたの”とおっしゃっていて納得しました。

野宮 ライヴでもずっとカヴァー候補になっていたんですよ。だからその話には驚きましたね。

―松田聖子さんの「ガラスの林檎」は、ちょっと意外な選曲でした。

坂口 でも、松本隆さんが作詞、細野晴臣さんが作曲だから、はっぴいえんどのコンビだし、渋谷系のルーツといってもいいんです。“蒼ざめた月が 東からのぼるわ”と始まる歌詞からして、もう単なるアイドル歌謡ではないですし。そう考えると、はっぴいえんどからたった十余年で、ニュー・ミュージックが歌謡曲と融合して堂々とお茶の間に認知された曲だといえますね。この「ガラスの林檎」の2年後に、ピチカート・ファイヴは細野さんプロデュースでデビューすることになるんです。

野宮 実は、聖子さんには勝手にシンパシーを感じています。年齢も誕生日も近いし、新宿二丁目で人気という点でも共通点がありますし(笑)

Jk
音楽のような風(EPO/EPO)
ⒸMIDI INC.

―EPOさんの「音楽のような風」もユニークな選曲ですね。

坂口 EPOさんって、竹内まりやさんのレコーディングでL.A.に行った時に、ロジャー・ニコルズさんに会っているんですよ。そう思っていろんな曲を聴いていると、どれも渋谷系っぽいんです。あと、1984年に北海道限定で配布されたノベルティ・ソング「Twinkle Christmas」というのがあって、なんと小西さんがアレンジを手掛けているんですよ。それもロジャー・ニコルズ風で。そう思って聴いてみると、EPOさんの曲の作り方って渋谷系なんです。スティーヴィー・ワンダーやシルヴィアに影響を受けてたりとか。そうしたら、どんどん渋谷系に聞こえてきちゃったんですよね。いろいろ悩んだんですけど、普遍的にいい曲がないかなと考え抜いて、この曲に決めました。

野宮 選曲のミーティングでこの曲を聴いて、全員一致でとても盛り上がったんです。その後もずっとEPOさんの曲を聴いていましたね。

坂口 あと、この曲のリズムが何かに通じるなあと思っていたら、ピチカートの「ベイビィ・ポータブル・ロック」にリズムの構造が似ているんです。それで、ちょっとアレンジも意識してみました。

Jk Flippers
ラテンでレッツ・ラブまたは
1990サマー・ビューティー計画
(Double Knockout Corporation)
ⒸPolystar Co., Ltd.

―「ラテンでレッツ・ラブまたは1990サマー・ビューティー計画」というのは、フリッパーズ・ギターのセカンド・アルバム『CAMERA TALK』収録曲ですね。

野宮 カジヒデキくんとは別企画のライヴで共演する機会があって、その時に「この曲を一緒にデュエットしたい」といわれて歌ってみたらすごくはまったんです。それで2014年のビルボードライブにもゲストに来てもらってデュエットしました。そいう流れもあったので、今回のアルバムでもカジくんに参加してもらったんです。

坂口 フリッパーズの曲はずっとやってみたいと考えていたんですが、選ぶのがなかなか難しかったんです。でも、こういうデュエットならぴったりですよね。オリジナルで小山田くんとデュエットしているのは、ピチカート・ファイヴの初代ヴォーカリストだった佐々木麻美子さんだったし。“元祖渋谷系の女王”野宮さんと“最後の渋谷系”カジくんが歌うことで、さらに曲の意味も深まったと思います。

Jk Flippers
パリの恋人/トーキョーの恋人
(小西康陽/小西康陽)
観月ありさ「ARISAIII LOOK」
日本コロムビア株式会社

―「パリの恋人/東京の恋人」は、小西さんが観月ありささんのために詞曲とアレンジを手掛けた楽曲です。こんなのがあったんですね。

坂口 小西さんが曲を書いているけど野宮さんがまだ歌っていない、という基準でセレクトしてみました。アレンジはロジャー・ニコルズをイメージしています。

野宮 この観月さんのヴァージョンは、曲もいいんですけど、アルバムのジャケットを信藤さんが手がけていたんです。昔の『VOGUE』誌をモチーフにしていてとてもかわいくて、ちょっとジェラシーを感じました(笑)。「こう来たか!」って(笑)

―じゃあ当時も聴いていたんですね。

野宮 そうですね。小西くんは当時アイドルにもたくさん曲を書いていたから、私が仮歌を入れることもあったんですよ。キョンキョンとか。この曲も、もしかしたら仮歌うたったかもしれない、忘れたけど。

坂口 この曲を選んだ理由には、パリというキーワードもありました。というのも、野宮さんが少し前にパリに行かれたんですよね。

野宮 そうなんです。渋谷系って、ゴダールの映画とか、フレンチ・ポップスのアイドルとか、ファッションもそうですけど、フレンチテイストも重要なので。それで、2015年のビルボードライブは、「フレンチ渋谷系」をテーマにしようと提案しました。

Interview04
ロジャー・ニコルズさんと
1994年 東京にて 雑誌「ブルータス」撮影

―最後は、小沢健二さんの「ぼくらが旅に出る理由」です。この曲は少し前からカヴァーされていましたよね。

Jk
ぼくらが旅に出る理由
(小沢健二/小沢健二)

野宮 はい。ファッション・デザイナーの丸山敬太さんのコレクションで歌ったのがきっかけです。2013年の秋冬コレクションの際に、「ぼくらが旅に出る理由」をテーマにショートムービーを作りたいということで、歌を頼まれました。映像にも歌姫として出演しています。楽曲をカヴァーするために許諾を取らないといけなかったんですが、小沢くんも「野宮さんが歌うのであれば」と快く言っていただいて。

坂口 今回のアルバムは、基本的にオリジナルのアレンジを踏襲しているんです。でも、この曲に関しては原曲ともコレクション用とも違うアプローチをしてみました。

野宮 当時もいい曲だと思っていたけど、今あらためて聴いてみると、当時とは違った風に聞こえてきて。この曲が作られて20年経ちましたけれど、その間に震災など悲しい出来事もありましたし。大切な人を愛しく思う気持ちを歌っているので、今だからこそ本当に心に響くんじゃないかなと思いますね。

坂口 あと、昔のスタンダード歌手って、古い曲を探してきてカヴァーしてヒットさせ、その曲をまた自分のものにしていくじゃないですが。この小沢くんの曲に限らずなんですが、野宮さんもそういう役割になってもらえたらいいなあという思いもあります。それで歌い継いでいって、スタンダード・ナンバーにしちゃえばいいかなと。

―スタンダードというのは、何十年も前の古い曲だけでなく、20年前の渋谷系も今の音楽も、いいものはいいということですよね。

坂口 その通りです。そうやっていい曲をたくさん歌ってもらって、いろんな人を巻き込んで行ければなあと思っています。

―野宮さんは、いわゆる過去のスタンダード・ナンバーだけでなく、同時代の仲間だったりライバルの曲も歌うわけじゃないですか。そこに違和感は感じないんですか。

野宮 それはないですね。実はあまり当時聴いていなかったというのもあるんだけど(笑)、ライバルだと思ったこともないし。だからフレッシュな気持ちで歌っています。本当にいい音楽はいいという、シンプルなことだと思います。

―今後、この<渋谷系スタンダード化計画>という壮大なプロジェクトは続いていくんでしょうか。

野宮 続きます。まだまだたくさんいい曲がありますから。

坂口 いろいろアイディアはあるんですけど、秘密の企画もあってまだ言えないんです(笑)。

野宮 ぜひ、期待しておいてください!