<Part1>渋谷系誕生前夜からピチカート・ファイヴ全盛期まで。
<Part2>バート・バカラックとの出会いと、二人の初コラボレーション。
<Part3>イタリア・レコーディングの思い出と、二人にとっての渋谷系。
<Part4>再びバート・バカラック、そして《渋谷系スタンダード化計画》へ。
シンガーの野宮真貴と、プロデューサーの坂口修。この二人がアルバム『世界は愛を求めてる。 What The World Needs Now Is Love ~野宮真貴、渋谷系を歌う。~』でコラボレートしたのは、歴史と理由があった!
1980年代初頭の出会いから、渋谷系全盛期、そして現在にいたるまでを、余すことなく語り合うスペシャル対談。これさえ読めば、あなたも渋谷系の秘密の一端を理解できるだろう。(聞き手:栗本斉)
渋谷系誕生前夜からピチカート・ファイヴ全盛期まで。
――まず聞いておかなければいけないのは、お二人の出会いです。
野宮 初対面っていつだったんだろう(笑)。私、1981年にソロ・デビューして、その後ポータブル・ロックというユニットをやってたんですよ。その時に鈴木慶一さんが作った「水族館レーベル」に参加していて、リアル・フィッシュなどと一緒にツアーを回ったことがあったんですが、たしかその時にいらっしゃったんですよね。
坂口 そうなんです、いたんです(笑)
野宮 でも覚えてない(笑)
――その頃、坂口さんは学生さんだったんですよね。
坂口 そうです。ライターみたいなことをやってて、関西に住んでいたんですけど、ヒッチハイクで東京に行って(笑)、取材と称してアーティストの方のところに遊びに行かせていただいていたら、面白がってくださる人が何人かいて。その中の一人が鈴木慶一さんだったんです。それで、ツアーにも一緒にくっついて回ったりしてました。
野宮 じゃあ、打ち上げにもいたの?
坂口 いましたよ。
野宮 やっぱり覚えてない(笑)
――その後は、定期的に野宮さんとは接点があったんですか。
坂口 ポータブル・ロックを最初に観たのは原宿にあったピテカントロプスでのライヴだったんですけど、「水族館レーベル」のツアーで東名阪をまわったりけっこう長く一緒にいました。ただ、僕はリアル・フィッシュの戸田誠司さんや渡辺等さんたちと仲良くさせてもらっていたので、ポータブル・ロックのひとたちとはあまり話はしなかったかも。
野宮 私、仲良くしてあげなかったんだ(笑)
坂口 いやいや(笑)そういうことではなくて、リアル・フィッシュって大所帯だから一人くらい増えてもかわらないし。だから、野宮さんとは密に関わることはなかったんです。
野宮 私が三代目のピチカート・ファイヴのヴォーカリストとして加入するのが1990年なんですけど、その最初の頃はライヴ来てたんですよね。
坂口 田島貴男さんがヴォーカルの時にはすでに野宮さんがコーラスをしていて、そのライヴは観に行きましたね。でも、ピチカート・ファイヴが近くなったのは、シティボーイズのマネージメントをやり始めて、ライヴをやるにあたって、ステージのサウンドトラックを小西さんにお願いするようになってから。
野宮 それはいつ頃ですか。
坂口 1992年だから、ずいぶん後ですよね。僕は1986年にはプロダクション人力舎に入って大竹まことさんのマネージャーやってたから、前みたいにツアーのおっかけもできないし。だから、ライヴは時々観に行ってたくらいかな。小西さんが渋谷のインクスティックでやってたDJのイベントなんかは遊びに行ってましたけど。でも実は、小西さんには1985年のデビュー当時に取材させてもらったこともあるんです。で、小西さんにシティボーイズのサントラをお願いしたことで仲良くなって。
野宮 きっと話が合ったんだよね。
坂口 この時もそうだったんですけど、僕がアーティストの方と仲良くなるきっかけって、その方が欲しがっていたレコードをプレゼントするとか、そういうことが多くて。レコードわらしべ長者なんです(笑)
――ということは、坂口さんはそれまでファンに近い立ち位置でピチカート・ファイヴに関わっていたけど、シティボーイズを通じて仕事としてつながったということですね。
坂口 そうですね。でもその時は、あくまでも小西さんメインなんですよ。
野宮 でも、ピチカート・ファイヴがワールド・ツアーをやった時に、坂口さん追っかけしてましたよね?(笑)
――なんでそこに坂口さんが(笑)。だってまだ、シティボーイズのマネージャーだったんですよね。
坂口 最初は1993年のニューヨークの『ミュージック・セミナー』のライヴを観に行って。それで、3年連続で行ったんですよ。その時は遊びに行ったんです、一週間くらいが休みが取れたから。でも、そうやって一緒にいると、いつの間にか当たり前のようになって。
野宮 だからスタッフみたいになっているんですよ。大竹まことさんのマネージャーもやられてたから、すごく気が利くし、いろいろとやってくださって。
――そう思うと、坂口さんって不思議な存在ですよね(笑)
坂口 この話は裏を返せば、その時の会社は代表が大竹まことさんだったので、ゆくゆくは音楽部門のマネージメントを作って、ピチカートをメインで入れたいねって話があったんです。そのネゴシエーションも兼ねた同行ってことにして(笑)。海外デビューするから、今のうちに仲良くなっておこうというわけです。それと、海外とのコネクションも一緒になって作っておいたほうがいいじゃないか、といこともあって。最初に居るいるいないってけっこう大きなことだから。実際、行ったら行ったで、いろんな人に会うことができたし。それで、そのうちのひとりが、バート・バカラックさんだったんですよ。(続く)
バート・バカラックとの出会いと、二人の初コラボレーション。
――バカラックさんとはいつ会ったんですか。
坂口 最初は電話でしゃべったんですよね。
野宮 ピチカートで「ミー・ジャパニーズ・ボーイ」をカヴァーしているってことを話たんだっけ。
坂口 そうそう。ピチカートの楽曲を北米で管理していたのが、フジパシフィック音楽出版がアメリカで作ったウィンドセプツという音楽出版社だったんですけど、そこのオフィスの中にバート・バカラック・ミュージックもあったんですよ。それで、ウィンドセプツのオフィスに挨拶に行ったら、入ってすぐ左のドアにバート・バカラックって書いてあって、その隣にはフィフス・ディメンションのプロデューサー兼エンジニアだったボーンズ・ハウって書いてある。小西さんと「えーっ!」って。それで、マタドールから出たアルバムに「ミー・ジャパニーズ・ボーイ」が入っているからって、あらためて持って行ったんですよ。バートさん自身はいなかったんですけど、代表と秘書の方がいてとても喜んでくださって。そして次の日にピチカートがラジオに出たんです。
野宮 あの当時、ピチカートはカレッジ・チャートですごく人気があったので、番組に呼ばれてスタジオ・ライヴをやったんですよね。
坂口 そしたら、秘書の方がバートさんにピチカートが出演することを伝えてくださっていて、バートさんがラジオを聴いてとても喜んでいると電話がかかってきたんです。「本人が話したいと言っているから、ぜひ事務所にきてください」ということで。
野宮 それで事務所に行ったら、バート・バカラックさんと電話がつながっています、ってことになって。それでスピーカーフォンでみんなに聞こえるように。「初めまして」っていうご挨拶したら、バートさんは電話の向こうの部屋でピアノを弾いて、「ミー・ジャパニーズ・ボーイ」のフレーズを披露してくれて。
坂口 あと、「この曲はなんだかわかるかい?」っていって「アルフィー」の一節を弾いてくれたり、とにかく濃密な時間でした。
野宮 アメリカではまだまだ新人の私たちに対して、ご本人が話をしてくれたりピアノを弾いてくれたりって、本当に貴重な体験でしたね。大物は違うなぁって感動しましたね。
坂口 その時は実際には会えなかったんですけど、秘書の方とはコンタクトが取れる状態になって。それで、帰国したらすぐソニーから小西さん監修の『レディメイド・シリーズ』っていうコンピレーション企画があって、そこでバカラックの楽曲集を作るということで、ご本人にも「一言コメントください!」ってお願いしたら、電話で録音させてもらえて。それで、翌年バートさんとロサンゼルスで会うんですけど、その時は野宮さんはいなかったんですよね。
野宮 そうなんですよ。私の代わりに小西さんと坂口さんが行ってくれて(笑)
坂口 ビーチでランニングした後で汗かいてましたから。スニーカーとトレーナー姿で。トマトジュース頼んでました(笑)
野宮 その時も何かお土産持って行ったんだっけ(笑)
坂口 一応、日本でしか発売されていないCDとか持っていきましたね(笑)
野宮 さすが!
坂口 あと、ピチカートのワールド・デビューの話でいうと、ファンの人がウェルカム・パーティーを開いてくれたのを覚えていますか。
野宮 ティム・バートンに会った時だ!
坂口 そうそう。あのパーティーって画廊で行ったんですけど、実はその時、「君の瞳に恋してる」の作者のボブ・クリューさんが個展をやっていて彼もいらしたんですよ。あの方は絵も描く人で。それでその日は、バート・バカラックさんと話せたし、その前にはボーンズ・ハウさんにも会ってるし、「これでブライアン・ウィルソンに会えたら、僕たち死んじゃうかもね」なんてことを小西さんと話した記憶があります。(笑)
野宮 そんなことも含めて、坂口さんはいつの間にかピチカートと一緒にいるという印象でしたよね。
――でも、そこまで野宮さんやピチカートのことを知っている人も貴重ですよね。
野宮 そうなんですよ。私は1981年にデビューしてますけど、その頃からずっと見てくれている人って実はあまりいなくて。
坂口 野宮さんは最初はムーンライダーズ・ファミリーというイメージだったんですけど、そのあとピチカートに行ったじゃないですか。ライダーズと渋谷系って両方押さえている人って意外に少ないんですよね。それが二人の共通項!
野宮 同じ東京っぽいグループだけど、ちょっと違いますもんね。
――その後のお二人のご関係は続くんですか。
野宮 ピチカート時代はけっこう一緒にいた記憶があるんですけど、解散してからは私もソロでやったりしていて、その間はしばらくお会いしてなかったですね。
坂口 解散直前はいろいろありましたけどね。
野宮 そうそう、シティボーイズの舞台にも出させてもらったこともありました。その時はステージで歌うシーンがあって、坂口さんが舞台の音楽もプロデュースされてたから、レコーディングも一緒にしたりして。
坂口 ちょうど2000年なんですけど、その時は、80年代にelレーベルをやっいてたルイ・フィリップさんにサントラをお願いしたんです。友達の皆川勝くんがポリスターのトラットリア・レーベルで彼の新作と旧譜をリリースしてたんで。プロモーション来日したとき、ソフト・ロックのレア盤エタニティ―ズ・チルドレンのレコードをさがしているっていうのを聞いて、たまたまうちにストックがあったからプレゼントしたら、「何でもしてあげる」って(笑)。それでサントラをお願いしたんですよ。オープニングとエンディングを書き下ろしてもらって、野宮さんに歌っていただきました。
――じゃあ、お二人が密に仕事をされたのはそれが最初ということですか。
坂口 そうですね。小西さん抜きでダイレクトにやったのはそれが最初です。(続く)
イタリア・レコーディングの思い出と、二人にとっての渋谷系。
野宮 小西くんのシティボーイズのサントラの時に、私がコーラスやったりというのもなかったですよね。
坂口 無いですね。あえてあの頃は、水森亜土さんとか「宇宙戦艦ヤマト」のスキャットでおなじみの川島和子さんにお願いしたんです。そこはピチカート色を出しすぎないように。ピチカートって、野宮さんの歌も好きだったんですけど、「オケだけでも成立する究極のノベルティ・ミュージックじゃん」って思っていたんですよ。だから、小西さんには「歌の無いピチカートというイメージで作って欲しい」といって、シティボーイズのサントラでいろいろ試してもらいました。だから、野宮さんには意図的にお願いしなかったんですよ。あとレコーディングで関わったのは、音楽プロデュースで参加したフジテレビ『サタスマ/少年頭脳カトリ』の野宮さんが一人多重で歌ってくれたオープニングテーマの時とピチカートが解散する直前の最初のソロ・アルバムの時だったかな。
野宮 カプリ島でレコーディングした時ね!ソロはイタリア録音したかったんです。なぜなら、その前年、イタリアのラウンジフェスティバルにピチカートが出たときに知り合った、バンドがいてもう一回会いたいなと思って。それで、VIP200というバンドと、モンテフィオリカクテルという兄弟ユニットに、次の年に「ソロ・アルバムを手伝って欲しいな」ということになって。それで、イタリアのミュージシャンと、当時ミラノに住んでいた岩村学くんに参加してもらいました。その頃はレコード会社も海外レコーディングとか行かせてくれたし(笑)それで、カプリ島にマライア・キャリーなんかも使っている、すごいスタジオがあると聞いてその時にも坂口さんが来てくれたんです。
坂口 そこは宿泊もできるリゾート・スタジオでね。その前にシティボーイズのサントラでイタリア・レコーディングしたことがあったんですよ。『黄金の七人』とかそういう古い映画のサントラのマスター・テープを探していたら、イタリアまで行ったほうが早いやってことになって。それで、ローマにあるGDMというレコード会社の倉庫に行って、そこで『女性上位時代』のマスターを見つけたりするんですけど。そしたら、隣のスタジオに『黄金の七人』のスキャットで有名なのエッダ・デローソさんがいて。その方がまだ現役で歌っていたので、ピエロ・ピッチオーニさんとか「マナ・マナ」のピエロ・ウミリアニさんとかと一緒にレコーディングしてもらったんですよ。それでけっこうイタリアとのコネクションが出来て。ちょうど野宮さんがイタリアでレコーディングしたいという話があったから、いろいろ探してもらったら、そのカプリ島のスタジオを紹介されたんです。その頃、イタリアで唯一デジタル・レコーディングが出来たのがそこだけだったんですよ。
野宮 カプリ島って適度な湿度があるので、ヴォーカリストにとっても最適らしいんですよね。
坂口 そして、当時はまだリラだったんだけど、支払いはポンドで払って欲しいって。ヨーロッパの音楽業界ってポンド建てだったんですよ、なぜか?今はユーロになって変わっちゃったんだけど。そういったスタジオのコーディネーションということで、一緒に行かせてもらったんです。まさに、1992年から2000年まで、会社には「ピチカート、そろそろ来ますから」とかっていう話で(笑)
野宮 でも、本当に坂口さんの事務所に行ってたらよかったのにね。その後の展開も変わっていたかもね(笑)
坂口 (笑)。そんなわけで、密に仕事をすることになったのは、その2000年前後くらいからですね。
――ということは、いわゆる渋谷系全盛期を一緒に過ごされたということですよね。
野宮 そうだよね。ところで渋谷系とはなんですか(笑)。一歩引いて見てみると。
坂口 人によって、渋谷系ってきっと違うんですよ。僕の中では、やっぱりピチカートとトラットリア・レーベル、クルーエル・レコードといった周辺の人たちに加えて、海外で知り合った人たちなんですけど。一番大きかったのは、過去のものだと思っていた音楽が、みなさん現役だったということがわかったことかな。それが、渋谷系を好きでいてよかったなってことですね。だから、シティボーイズのサントラなんかでも、若い人たちとベテランの人たちが一緒にコラボレーションできないかなって、いつも考えていましたね。時代を超えて何かを一緒に作ることやその場所というのが、渋谷系だったかなと思います。
――野宮さんはどうですか。そもそも渋谷系と言われていることに対してはどう思っていましたか。
野宮 当時は、「へー、そう呼ばれてるんだ」という感じで(笑)。その頃、渋谷系って言われていたミュージシャン同士で、フェスをやったり一緒にイベントやることって意外になかったんですよ。だからあまり会うこともなかった。小山田くんがピチカートの『BOSSA NOVA 2001』をプロデュースしてくれたりとかそういうのはあったんですけど。私にとっての渋谷系のひとつのキーワードは「オシャレ」。『Olive』という雑誌が好きで、アニエス・ベーのボーダーを着ている女の子がイメージ。実は音楽のジャンルでいうと様々なスタイルがあったし。そういう意味で共通しているといえば、コンテンポラリー・プロダクションの信藤三雄さんが手がけたCDジャケットのデザインなのかもしれない。それまでの80年代のジャケットからガラッと変わって、CDのパッケージがインテリアとして部屋にも飾れるくらい素敵になった。渋谷系の人たちって、音楽だけじゃなくて古い映画やファッション、写真集やグラフィックデザインにも精通していて、リスペクトをもって自分たちのアートとかすごく好きで、ビジュアルも表現していたから。音楽とアートディレクションの両方が一体となっていたのが渋谷系かな。
坂口 「ジャケ買い」という言葉も渋谷系ならではですからね。
――逆にオシャレじゃないと渋谷系に入れなかったのかもしれないですね。
坂口 その反動もあってグランジなんかも出てくるわけだけど。でもビジュアルという意味では、日本独自のムーヴメントかもしれないですね。もともとLPの時代ジャケットは飾ればアートとしても存在できましたしね。でもCDになると単純に小さいので、わかりやすいようにアーティストの顔をドーンと載せるじゃないですか。目立たせるために、そういうジャケットが増えちゃったんですよね。でも、ベタすぎてオシャレではなかったところ、そこはウォークマンみたいにものを小さくする技術に長けた日本人が、ジャケットもミニチュアのアートにしちゃえばいいじゃんっていう発想。それが、信藤さんや小西さんの発見だったのかもしれないですね。
野宮 みんな本当はアナログの方が好きだから、CDって好きじゃなかったんですよ。味気ないプラスチック・ケースで。だから、オシャレなものにするために、いろいろとアイディアを出して工夫し始めたんですよね。
坂口 形態は変えられないから、最初はトレイの底を透明にしたんですよね。ビジュアル面を増やすために。そういうところの発想からですよね。
――裏側が表になったりとか、
野宮 その方が写真も大きく使えるしね。
坂口 そのうち、箱入りになったりとか。
――ピチカートの『月面軟着陸』の小さなブックレットも衝撃的でした。
坂口 逆に小さくするという発想もすごかったですよね。
野宮 持ってるとシャカシャカ音が鳴るし(笑)
坂口 あと、ダイレクトにプラスチック・ケースに印刷するというのもありました。
野宮 ただ、LPサイズのデザインを小さくするだけではダメだから、新しい発想が生まれました。
坂口 そういう意味でも、信藤さんこそが渋谷系なんですよ。もちろんそれまでにもユーミンさんを手掛けていらっしゃるし、ミスチルなんかも信藤さんですけど、そういった人たちも渋谷系に思えてきちゃうんですよね。それはアートワークの力ですよね。(続く)
――でも、ピチカートの解散とともに、渋谷系は終息していきました。
坂口 そこから我々もしばらく会わない時期が続くんですよ。
野宮 そうですね。それで、久々に会ったのが、またバート・バカラックなんです。
――その間は、まったくご一緒されていないんですか。
坂口 そんなことはないですよ。僕がBSフジの「HIT SONG MAKERS~栄光のJ-POP伝説~」という番組を監修させてもらって、そのナレーションを野宮さんにお願いしたりとか。あとは、「ワールド・プレミアム・ライブ」というNHKの海外アーティストの番組でMCしてもらったりとか。
野宮 そういうお仕事はしていたんですけど、一緒に何かを作るっていうことはなかったですね。だから、今回のアルバムやライヴの話になっていったのは、まさにバカラックがきっかけなんです。2012年のビルボードライブに観に行った時に、ふと坂口さんのことを思い出したんですよ。「絶対来てるな」って(笑)それで久しぶりに電話をしてみたんです。「今日いますよね」って(笑)
坂口 それで「もちろん!」ってことになって。
野宮 「やっぱり」って(笑)
坂口 そうそう、野宮さんは2回公演のうちの最初の方だったんですけど、あまりにも良かったと言って2ndステージのチケットもその場で買われたんですよね。
野宮 高かったけどね(笑)これはもう一回観なきゃって。
坂口 それで、2回目が終わった後で一緒に楽屋に行ったんですよ。
野宮 実は、その前の2008年の来日時にもお会いしてるんですけど、それ以来という感じで。
坂口 それで楽屋挨拶の後、ビルボードライブの近くでお茶をして、いろいろと話をしたんです。
野宮 ちょうどその頃、今後何を歌っていこうかなあって思っていた時で。
坂口 その直前に『30 ~Greatest Self Covers & More!!!~』というアルバムを出されていて。
野宮 そういえば、バカラックさんにも渡しましたよね。
坂口 それで、この時がセルフ・カヴァーだったので、その後はどういう展開がいいのかって話になって。
野宮 『30 ~Greatest Self Covers & More!!!~』はピチカートのカヴァーが中心だったから、「ここまで渋谷系を今も歌っている歌手っていないよね」って。そして、バート・バカラックのライヴを観て「やっぱりいい曲は時代を超えていいよね」って。渋谷系のルーツでもあるし、バカラックのカヴァーをやってみようかというって話になったんですよ。
――それは坂口さんからの提案だったんですか。
坂口 そうですね。
野宮 それで、そこから「一緒に何か作りましょう」ということになったんです。
坂口 カヴァーといえば由紀さおりさんとピンク・マルティーニのアルバム『1969』をヒットさせた、当時はEMIミュージックの執行役員で子安次郎さんという方がいらっしゃって、じゃあ「カヴァーといえば子安さんかな」ということで、お声がけして野宮さんに会っていただいたんです。それが2013年ですね。それでアルバムが作れればいいなって話をしていた時に、バカラックだけじゃなくて「50年前の1963年というキーワードも面白いんじゃないですか」っておっしゃられて。たぶんそれは由紀さんの1969年のイメージもあったんでしょうね。それで思いおこしてみたら、1963年にはルビー&ザ・ロマンティックスの「Our Day Will Come」があったりとか、バカラック作品を梅木マリさんや越路吹雪さんがカヴァーした曲もあったり。、よくよく考えてみると、どれもEMIの前身の東芝音工がリリースしていて、子安さんもEMIなわけだし。渋谷系ルーツの、裏テーマとしては「ディグスEMI」という、そういうイメージが出てきてたんです。それから、たまたまその打ち合わせの前に少し時間があったので、近くの中古レコード店に行ったら、これまた東芝エクスプレス・レーベルで由紀さおりさんの「生きがい」っていう曲のシングル盤があったんですよ。すでに持ってたんですけどきれいな盤だったから買って行って、「この曲に渋谷系を感じるんですよね」って出したら。
野宮 そう、私もすごく好きな曲で。
坂口 しかも、子安さんも大好きだという話になって、意気投合したんです。そうやってCDのための選曲をしていたら、同じタイミングでビルボードライブ公演の話が来て、そちらの方の選曲に進んでいったんです。ユーミンさんの「Hong Kong Night Sight」もいいよねってことになったり。そうやって選んでいったので、最初のビルボードライブのセットリストは、オリジナル・ラヴも小沢健二くんも実は全部東芝関係の楽曲なんですよ。
――それは、レコーディングを見据えて選曲されていたんですか。
坂口 そうです。トワ・エ・モワや尾崎亜美さんなんかも全部そう。CDが前提にあって、ライヴ企画があったからあてはめたというか。でも、なかなかCDの方が進まなかったんですよ。ちょうどEMIさんもユニバーサルさんと吸収合併する時期で。
――そうやって行われたのが、2013年の最初のビルボードライブ公演ですね。
野宮 それで、《渋谷系スタンダード化計画》という言葉が生まれて、毎年恒例のライヴになっていったんです。
(後編へ続く)