BIOGRAPHY
NELLY
2000年、夏。 ミシシッピ川の堤防から、灼熱の蒸気が立ち上った。 アメリカ合衆国の田舎町、ミッドウェスト(中西部)に位置するメトロ地域で生まれた当時無名のラッパー。その彼が『カントリー・グラマー』をリリースした途端、発売第一週目で25万枚越えのセールスを記録。 間もなくネリーはシングル曲、「E.I.」、「ライド・ウィッミー」を大ブレイクさせ、スターとしてのポテンシャルを世に知らしめた。そして遂に、このアルバムは900万枚のセールスを突破、ミズーリ州セントルイス出身の”生意気な”ラッパーは、世界中に熱を届けることとなる。
デビューしたばかり、しかもなじみの薄い中西部出身という理由で、西海岸/東海岸ばかりに注目していた音楽評論家たちはネリーというアーティストを過小評価していた。しかしネリーはこのあと、彼らの評価を次々と覆していく。2年後、彼はセカンド・アルバム『ネリーヴィル』をリリース。その魅力は世界中を巻き込み、600万枚のセールスを記録。シングル曲「ホット・イン・ヒア」、そして「ジレンマ」はそれぞれグラミー賞を獲得する。
米国西部への”玄関”的役割を果たすセントルイス。そのセントルイスは世代に関係なく輝き続けるアーティストを次々と輩出している - チャック・ベリー、アイク&ティナ・ターナー、そしてマイルス・デイヴィス。ヒップホップ・サウンドが強い影響力を持つ現代ではネリーは若者たちの代弁者となっている。ネリー独特の南部バウンスと中西部訛りはヒップホップ・ビート、そしてリズミカルなフックパートと相性ピッタリだ。トータル・アルバム・セールスが3500
万枚を突破した今もネリーはミュージック・シーンのトップ・アーティストとして君臨し続けている。一方で、彼のヴォイスは出身地の”タフさ”をそのままキープし、生まれ故郷への想いは常に持ち続けている。 そして遂にネリーは5作目『ブラス・ナックルズ』で、新たな姿を見せてくれようとしている。
彼の経歴はまさにパーフェクト。プラチナム・セールスを獲得したリミックス・ベスト・アルバム『ザ・リインヴェンション~ダ・ダーティ・ヴァージョンズ』を
2003年にリリース。(セント・ルナティックスの)マーフィー・リー、そしてP.ディディとコラボレートした「シェイク・ヤ・テイルフェザー」でグラミー賞(Best
Rap Performance by a Duo or
Group部門)を獲得。音楽マーケットが不安定な時代にも関わらず、ネリーは2004年リリースのダブル・ディスク・アルバム『スウェット/スーツ』でプラチナム・セールスを記録。 『スーツ』盤では、大ヒット曲「オーヴァー・アンド・オーヴァー」でカントリーミュージックの大御所ティム・マックグロウとコラボレートを果たすなど、従来とは異なるスタイルにも挑戦。『スウェット』、『スーツ』の2作はビルボード・アルバム・チャートにてそれぞれ1位と2
位を獲得した。
ソロ・アーティストとして活躍するネリーであるが、そんな彼は同時にチーム・プレイヤーでもある。彼は自身の所属するグループ、”セント・ルナティックス”(アリ、マーフィー・リー、キーワン、スロー・ダウン)をフックアップ。2001年にはプラチナム・セールスを記録したアルバム『フリー・シティ』もリリース。これが功を奏し、それぞれのメンバーはソロキャリアを。中でもマーフィー・リーの『マーフィーの掟』は大ヒットを記録した。
ネリーは生まれながらのアーティストであると同時にビジネスでもその才能を発揮している。男性向けファッション・ブランド”VOKAL”、女性向けには”Apple
Bottoms”をそれぞれ設立し話題となる。エナジー・ドリンクの”Pimp
Juice”(ヒット曲「ピンプ・ジュース」にインスパイアされ)も発売し、既に数百万本売り上げており、人気ナンバー1のエナジー・ドリンクとして人気を誇っている。
ネリーはスポーツの世界とも縁が深い。母校のユニバーシティ・シティ高校では野球部に所属。ポジションはショートで、またスラッガーとしても名高かった。卒業後、メジャーリーグのピッツバーグ・パイレーツ、そしてアトランタ・ブレーブスからもスカウトされている。アメリカンフットボール(NFL)の祭典、「スーパーボウルXXXV」(2001年)、「スーパーボウルXXXVIII」(2004年)のハーフタイムイベントでもパフォーマンスを披露。最近では、「スカイボックス」なるスポーツバー(兼グリルレストラン)も地元セントルイスにオープン。また、マイケル・ジョーダらと共にNBAチーム=シャーロット・ボブキャッツのオーナー株主の1人となっていることは有名である。
彼は過酷なトレーニングを積み、映画『ロンゲスト・ヤード』にも出演。バート・レイノルズ、アダム・サンドラー、そしてクリス・ロックらと共演を果たし、ハリウッドスターの傍らでもネリーは堂々と自身の才能を見せつけたのである。
ほとんどのアーティストは、ややもするとスターという地位に自分を見失いがちだ。しかしネリーは、リアルで居続けている。その理由は恐らく地元セントルイス、そして支えてくれた人々によるところが大きいだろう。姉のジャッキー・ドナヒューが白血病でこの世を去ってから、彼は「Jes
Us 4
Jackie」を設立。これは、アフリカ系アメリカ人に対する骨髄移植、幹細胞移植の教育を目的とした活動だ。ドナーと患者の適合などに取り組み、現在までに少なくとも9名の命を救っている。ネリーはこの他にも、「4Sho4Kids
Foundation」も設立。 これは、発達障害(とくにダウン症候群)を抱えて生まれてきた子供たち、そして生まれながらに麻薬中毒の子供たちの暮らしを良くすることを主として活動を行っている。
ここまで多種多様な活動を行うネリーに果たして音楽活動の時間など残っているのだろうか?
し彼のような独特の”ヴォーカル”、そしてそれを渇望するオーディエンスがいる限り、その時間は作り出される。この夏、ミシシッピ川で誕生した”声”は灼熱の炎を上げようとしている。