BIOGRAPHY
Ms.JADE
Ms.ジェイド・ストーリー / PHILLY’S FINEST フィリーズファイネスト
天才女性ラッパーMs.ジェイドは、注目を集めるために胸の谷間をチラつかせる必要もなければ、男を喜ばせるテクについて話す必要もない。
その理由は? それはラップやポップ、R&Bシーンにいる今日の若手女性ミュージックスター達とは違って、真のマイクスキル、少数の人が調和するフロー、彼女自身の人生経験と最も深い部分での思いから抜粋されたリリックでMs.ジェイドが人を引き付けるからだ。
Beat Club/Interscope
Recordsからリリースされた彼女のフル・デビューアルバム、『ガール・インターラプティド』の収録トラックを聞けば、スーパー・プロデューサーと言
われるティンバランドが彼のBeat
Clubと彼女を契約させた理由が明らかになるだろう。そんな彼は「女性版B.I.G.とハード版ロクサーヌ・シャンテを足して2で割ったようなラッ
パー」と彼女を説明する。2002年上旬にリリースされたアルバムは、
ダンスビートにMs.ジェイドのメロウなボーカルを乗せた曲、ティンバランドのプロデュースによるファースト・シングル”フィール・ザ・ガール”を収録。
「ちょっとした最初のホット・ソングといった感じね」と若手でありながらも経験豊富な22歳のラッパーは言う。「バックグラウンドでクレイジーな事をやっていたのはティム(ティンバランド)。私はリラックスした感じに聞こえるわ」
やはり間違いない。Ms.ジェイドは柔軟以外の何者でもない。彼女は「ホワイ・U・テル・ミー・ザット」でもにも参加している彼女の昔の恋人に対して、”
あなたは私の青春時代をもて遊んだ。あなたなんか大嫌いよ、これで分かったでしょう”と繰り返し歌い、激しく非難している。またティンバランドがプロデュースした9曲の中の1曲、「シーズ・ア・ギャングスタ」でも彼女は激しい。”私のラップ・スタイルはギャングスタで横暴”とMs.ジェイドは言う。
「私はまさに乗っ取ろうとしているの。そういうところがギャングスタね。だからこれはストリートの曲よ」
Ms.ジェイドは1979年8月3日、シェボン・ヤングとして、タイルと絨毯工場で働く父親と、栄養士助手の母親の間に生まれた。経済的に苦しい時期も
あった両親だが、一人っ子だった彼女を何不自由なく育てるよう励んできた。Ms.ジェイドが育ったのは、フィラデルフィアのナイスタウンと呼ばれる名ばか
りの地区。「ちっともナイス・タウンなんかじゃなかったわ」とMs.ジェイドが言うエリアは、実際、評判ほど悪くもない場所だ。「ご近所さんはみんな顔見
知りのような小さな地域よ。みんな同じ学校に通ってた。私は生まれてからずっとこの場所で育ち、一度も引っ越したことがないの」
間もなく彼女が身につけた音楽に対して、Ms.ジェイドの両親は理解を表した。幼かったMs.ジェイドはロッカー、パット・ベネターの作品に興味を持ち、
大好きなテレビCMのテーマ・ソングを覚えたりもした。彼女が9歳の頃には、ジャネット・ジャクソンの音楽、特に1986年にリリースされたダンス・ポッ
プ・ディーバのアルバム『コントロール』にすっかり魅せられてしまった。彼女の母親がジャクソンのカセットを買い与えてから間もなく、Ms.ジェイドは歌
詞を覚え、学校のタレントショーでお気に入りの曲を歌った。
その3年後、Ms.ジェイドがラジオで聞いたのが女性ラッパー、MCライトとクイーン・ラティファ。それは結果的に、彼女をラップ・ミュージックへと導く
きっかけとなった。「リリース前の時点で、クイーン・ラティファの曲”レディーズ・ファースト”を丸暗記したのを覚えてるわ」とMs.ジェイドは想い出
す。「ランチタイムの間、ずっと歌ってたの。この曲を歌って欲しいって人が寄ってくるもんだから、まるで私が書いた曲であるかのように嬉しかったわ」クリ
スマスの日、母親が彼女のためにMCライトのテープを買ったとき、Ms.ジェイドは何度も再生しては巻き戻し、歌詞を全部書き出した。「とっても夢中だっ
たの」と彼女は言う。「ただ、全ての言葉を知りたかっただけなの。言葉という言葉。それが”uhs”なのか”ahs”なのかとか…そんな小さなことまで」
フィラデルフィア北東部のアブラハム・リンカーン高校に通っていた頃、Ms.ジェイドの得意教科は英語と音楽だった。高校2年生のとき、彼女は
『Waiting to
Exhale(ため息つかせて)』のサウンドトラックから「ハウ・クド・ユー・コール・ハー・ベイビー」の演奏を披露し、学校のタレントショーで見事優勝
した。1997年に彼女が卒業するまでには、まだほんの一握りのラップしか書いていなかったとはいえ、Ms.ジェイドはリル・キム、フォクシー・ブラウン、メイスやノートリアスB.I.G.などを聴きまくっていた。
フィリーのダウンタウン、センター・シティーのゴードン・フィリップス美容学校でヘアスタイリストの勉強をしていたMs.ジェイドは、当時の地元ラッ
パー、ミーク・ミルズのレコーディング・バックグラウンド・ボーカルをバイトとして引き受けたりもしていた。彼女自身で書いたラップをプロデューサー、
ディーン・マーダに聞かせたところ、彼はとても気に入ってくれ、もっと書くように彼女を励ました。「それ以降、毎日書くようになったわ。だって言いたい事
が山ほどあったんだもの」と、映画『モータル・コンバット』の女性ファイターからラップ名を得たMs.ジェイドは言う。「ラップを書いているなんて誰にも
言わなかった。ただやっただけ。難しくもなかった。ごく自然と思い付いて、だから沢山書いたの。次々に頭の中に思い浮かんだことを書き留めていったの」
Ms.ジェイドは仕事場でラップを書き、そしてニューヨーク行きのバスに乗り、Atlantic
Recordsとプロダクション契約のあるクレッグ・キングに会いに向かった。キングは彼のアーティストのアルバムにMs.ジェイドを起用したが、実際、
どの作品もリリースされることはなかった。1999年に美容学校を卒業したあとも、Ms.ジェイドはラップを書き続け、その頃には現在のマネージャーでも
あるテランス・グラスゴーと働いていた。そして後に「ホワイ・U・テル・ミー・ザット」としてInterscopeから再リリースされることになった曲、
「テイク・イット・オン・ザ・チン」を含むソロ4曲をMs.ジェイドは収録した。
彼女のストリートの真実性を強めるために、Ms.ジェイドは、ライムというライムをお互い競い合う近所のラッパーチーム、サイファーズに参加した。そこで
彼女の挑戦的で何でもありのリリック、例えば最も人気のある彼女のフリースタイル・ライム”ザ・ビッチ・ラップ”にある、”I hate a
jo jo bitch, a no doe bitch, a try to test my skills, now that’s a
no no bitch, a fake brag bitch, a switch tag
bitch…”をMs.ジェイドは披露した。
後日、グラスゴーはMs.ジェイドをウィル・スミスのアシスタント、チャーリー・マックに紹介した。フィリー育ち、1988年のDJジャジー・ジェ
フ&ザ・フレッシュ・プリンスの曲「チャーリー・マック-ザ・ファースト・アウト・ザ・リモ」で名をとどめた男だ。そしてマックとグラスゴー、
Overbrook
Entertainment(ウィル・スミス主宰)のA&R代表者、オマー・ランバートが手を組んで彼らが新しく設立した制作会社、215
EntertainmentにMs.ジェイドを契約させた。フィリーのプロデューサー、スタックスによる8、9曲のレコーディング後、Elektra
Entertainmentのジェイ・ブラウンと彼のニューヨーク・オフィスでのミーティングをするところまで、Ms.ジェイドはこぎつけた。彼女がブラ
ウンの前で数曲のラップを披露したところ、彼は彼女を階上に連れて上がり、話を聞いて即座にティンバランドとの話をつけてくれたラッパーのミッシー・エリ
オットと面会させた。「彼女は”何の用事で私のところに?”って聞いてきたの」とMs.ジェイドは言う。「だから”契約のことで”と言ったら、”決まった
わよ”って彼女が答えたの」
その次の週、エリオットはレコーディングのためにMs.ジェイドを呼び出した。それがエリオットの2001年のアルバム『ミス・E…・ソー・アディク
ティヴ』に収録されたティンバランドのプロデュースによる1曲「スラップ!・スラップ!・スラップ!」だ。またMs.ジェイドはリル・モーの「スーパー
ウーマン」のリミックスにもラップで参加した。「不安と嬉しさで頭の中がグチャグチャだったわ」と歌詞を全て手掛けるMs.ジェイドは言う。「ほとんど緊
張しっぱなしだった。このミッシーとティンバランドの出来事すべてにおいて。でも自分の出来上がりが最高だったからとても嬉しかったわ」
それからMs.ジェイドはロサンジェルスへと向かい、2001年のティンバランド&マグーのアルバム『インディーセント・プロポーザル』に収録さ
れた曲「イン・タイム」のレコーディングを3週間かけて行った。またこのLA滞在中朝6時まで12時間のセッションを行ったりと、彼女自信のアルバム用の
レコーディングにも取りかかった。「彼女はとても挑戦的で強い女性」とティンバランドは明かす。ティンバランド特有のビート・スタイルに合わせるのは簡単
なことではなかったが、ティムとラッパー、ペティ・パブロの手助けによってMs.ジェイドはタイミングを完全に覚えることが出来た。
2000年8月、ティンバランドの新しいBeat Clubレーベルと正式に契約したMs.ジェイドは、Beat
Clubと契約したInterscopeのアーティストにもなった。2001年、彼女は自身のアルバムの最終仕上げを行いながら、ティンバランドがリミッ
クスしたネリー・ファータドの曲「ターン・オフ・ザ・ライト」やBeat
Clubのレーベルメイト、ババ・スパークスのヒット曲「アグリー」にもラップで参加した。
しかし最近のMs.ジェイドの主な焦点は、ラッパーのジェイ-Zがゲスト参加したノリノリのパーティー・ソング「カウント・イット・オフ」も収録されてい
る彼女のアルバム、『ガール・インターラプティド』だ。その一方、ビート・ブローカーズが制作を担当、フィリーのR&Bシンガーでもあり長年の友
人でもあるロニーシャ(ニッシュ)がゲストボーカルを担当した曲「キープ・ユア・ヘッド・アップ」をMs.ジェイドは精神的に深く感じている。
「これは3人の女の子の人生の話」とMs.ジェイドは言う。「上手く行かないときでも、胸を張って生きようって歌ってるの」ザ・ビート・ブローカーズのス
タックスとジャーミー、ドンも『ガール・インターラプティド』収録トラックの3曲をプロデュースしている。Ms.ジェイドの発言は、アルバムの中で彼女が
最も大好きな曲となり、ファータドが参加している曲「チン・チン」の中にギッシリと詰まっている。
「私はただ頂点にまっすぐ進みたいの」と言うMs.ジェイドは、彼女のミュージシャンとしてのキャリアが映画の役へと導く結果となり、そして経済的に彼女
の家族をサポートし、そして国際的な品揃えのブティックをオープンするチャンスを与えてくれることを望んでいる。また、辛い仕事を乗り越えて、誰でも自分
の好きな人生を送れるようになる、という前例をMs.ジェイドは作ろうとしているのだ。「私は決してすぐに溶け込むようなタイプの人間じゃないし・・・」
Ms.ジェイドは続ける。「セクシー系のノリにもついていけないわ。私は、ナイスな胸やお尻だからという理由じゃなくて、私の音楽が好きだからと言ってく
れる人に聴いてもらいたいの。こんなに良い音楽だもの、気に入って欲しい。そんな単純なことなのよ。私は誰かの物まねじゃないし、私みたいな女性ラッパー
は他にいないと思うの。そう、私は素敵なの。だからリスペクトしてね」
翻訳・戸崎順子/Translated by Junko Tozaki