BIOGRAPHY
Mick Jagger / ミック・ジャガー
本名マイケル・フィリップ・ジャガー。
1943年7月26日、イングランドのケント州ダートフォードで生まれる。実弟のクリスもアーティスト。2008年の『ローリング・ストーン』誌における“史上最も偉大なシンガーベスト100”で16位に選出されている。
ウェントワース小学校からダートフォード・グラマー・スクールへと進んだころに駐留米軍兵士を通じて初めてブルースに触れ、音楽に目覚めたミック・ジャガーだったが、そのままロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに進学。その通学のためダートフォード駅に向かった61年10月17日、ウェントワース小学校のクラスメートだったキース・リチャーズと運命の再会を果たし、ともに音楽好きと知って意気投合したふたりは仲間たちとリトル・ボーイ・ブルー&ザ・ブルー・ボーイズを結成。バンドは62年にザ・ローリング・ストーンズへと発展し、以降はそのフロントマンとしてスタートから50余年を過ぎた今もなおシーンの最前線を走り続けている。
そんなミックの初めてのソロとしての仕事は、鬼才ケネス・アンガーが監督を努めて69年に公開された短編映画『我が悪魔の兄弟の呪文』の音楽制作だった。そこでのミックはモーグ・シンセサイザーを使って、魔術的神秘家アレイスター・クロウリーに捧げられた実験的映像のイメージを増幅させている。
次に彼が挑んだのは俳優業で、ストーンズでの活動の合間を縫いながら、ドナルド・キャメル、ニコラス・ローグ共同監督による『パフォーマンス/青春の罠』とトニー・リチャードソン監督の『太陽の果てに青春を』という2本の映画(ともに70年公開)に出演。前者では引退してもなお遊蕩生活に溺れる元ロック・スターのターナーを演じ、後者ではオーストラリアに実在した、ならず者のネッド・ケリー役を務めて銀幕デビューを飾るとともに、70年11月には『パフォーマンス~』の劇中歌「メモ・フロム・ターナー(ターナーのメモ)」がシングルとして発売されてソロ・デビューも果たした(『太陽の果てに青春を』のサウンドトラックではオーストラリアの伝承歌「野生児」を披露している)。ミックはこのときの映画出演を機に、映画/映像の世界への関わりも持つようになる。
70年代はストーンズの活動に邁進しつつも(72年にはストーンズの『レット・イット・ブリード』録音時のセッションをニッキー・ホプキンス、ライ・クーダー、ビル・ワイマン、チャーリー・ワッツとの連名による『ジャミング・ウィズ・エドワード』として発表したこともあった)、78年には自らが創設したローリング・ストーンズ・レコードに元ウェイラーズのピーター・トッシュを誘い、キース・リチャーズとともに『ナッティ・ブッシュ・ドクター〈解禁せよ!〉パート2』の制作をアシスト。そこからシングル・カットされた「ドント・ルック・バック」ではトッシュとのデュエットを聴かせた。
83年、アメリカのケーブル・テレビ局であるショウタイム・ネットワークスのファミリー向けテレビ・ドラマ『フェアリーテール・シアター』における「小夜啼鳥」の回に主役のナイチンゲールで出演したのが5月10日に放送されたが、その後、8月にローリング・ストーンズ・レコードが英CBS/米コロムビアと契約を結んだ際にソロ・アーティストとしての活動も薦められたことで本格的にソロへと乗り出すことを決意。手始めとして84年6月にジャクソンズ・フィーチャリング・ミック・ジャガー名義による「ステイト・オブ・ショック」を発表する。マイケル・ジャクソンとデュエットしたこの曲は全米チャート3位/全英14位を記録するヒットとなり、大きな話題を呼んだ。
そして翌85年3月にはビル・ラズウェルとナイル・ロジャースという時代の寵児を共同プロデューサーに迎えて、初のソロ・アルバムとなる『シーズ・ザ・ボス』をリリース。ジェフ・ベック、ピート・タウンゼント、ホール&オーツ・バンドのG.E.スミス、シックのバーナード・エドワーズ、スライ&ロビー、シック~パワー・ステーションのトニー・トンプソン、ハービー・ハンコック、ヤン・ハマー、レイ・クーパーといった豪華なミュージシャンを揃えて、ストーンズとは異なるシャープでコンテンポラリーなサウンドを提示したアルバムは全英6位/全米13位にランク・イン。「ジャスト・アナザー・ナイト」、「ラッキー・イン・ラヴ」といったシングル・ヒットも生まれて新たな門出を飾ると同時に、7月にはアフリカ難民救済のためのイヴェント〈ライヴ・エイド〉に出演。アメリカ会場であるJFKスタジアムのステージに立ち、ソロ・パフォーマンスを披露するとともにデヴィッド・ボウイと共演した「ダンシング・イン・ザ・ストリート」のヴィデオ・クリップを全世界同時に公開し、8月にはそれをチャリティ・シングルとして発売。見事、全英1位/全米7位に送り込んだ。
また、MTVの普及とそこでのマイケル・ジャクソンの成功に関心を抱いていたミックは、ジュリアン・テンプル監督を起用して自身が主演するヴィデオ映画『ミック・ジャガーのおかしな逃避行(ランニング・アウト・オブ・ラック)』を制作。その一部はプロモーション・ヴィデオにも活用されるなど音だけでなく視覚性にも訴える活動を展開したのだった。
86年にはストーンズの『ダーティ・ワーク』の発表もあったが、ミックはそれに伴うツアーよりもソロ活動を優先させ、6月に公開された映画『殺したい女』のサウンドトラックに「ルースレス・ピープル」を提供。87年9月に2枚目のソロ・アルバム『プリミティヴ・クール』を発表した。ユーリズミックスのデイヴ・スチュワートとキース・ダイアモンドを共同プロデューサーに立て、前作にも参加したジェフ・ベック、G.E.スミスをはじめリヴィング・カラーのダグ・ウィンビッシュ、サイモン・フィリップス、フィル・アシュリー、リチャード・コットルを基本メンバーとするバンド・サウンドが強調されたアルバムは全英26位/全米41位をマークするなど好評を得たのだが、ミックのソロ活動の意欲はアルバム制作だけでは収まらず、88年にはジョー・サトリアーニ、ジミー・リップ、ダグ・ウィンビッシュ、サイモン・フィリップス、フィル・アシュリー、リチャード・コットル、シビル・スコビー、バーナード・ファウラー、リンダ・モーラン、リサ・フィッシャーというメンバーによるバンドを編成して、日本、オーストラリア、インドネシア、ニュージーランドを回るツアーを行なった。
そのツアーの最初の開催地となったのが日本で、初日となった3月15日の大阪公演を皮切りに、22日の東京ドームこけら落とし公演のほか名古屋でもコンサートを開き、73年の幻のストーンズ来日公演を知るファンはもちろんロックとは縁遠かった一般層をも熱狂の渦に巻き込んだ(日本ツアーにはパーカッショニストのツトム・ヤマシタが帯同。23日には同時期に日本を訪れていたティナ・ターナーが客演し、ミックはそのお返しに27日に大阪城ホールで行なわれたティナのコンサートに飛び入りした)。しかし、ストーンズをないがしろにして進められるミックの活動をよしとしなかったキース・リチャーズは、彼への批判を公然と口にするようになり、ふたりの関係性の悪化から、ついにストーンズが解散するとまことしやかに囁かれるようにもなったのだった。
それでも、89年にはミックとキースが和解。ストーンズが同年に発表した『スティール・ホイールズ』とそれに伴う大規模な世界ツアーの成功によって危機を乗り越えたことにより、ミックもソロ活動を再開して92年にエミリオ・エステバス主演の映画『フリージャック』に悪役のヴァセンダックとして出演。映画制作会社のジェゲッド・フィルムも立ち上げた。93年2月には3作目となる『ワンダーリング・スピリット』をリリース。このアルバムは前2作のような流行に乗った音楽性から一変し、70年代のストーンズの作品を彷彿させる音づくりとなり、ミックのソロに反対していた人々も黙らせる全英12位/全米11位という成績を収めた。また94年にはロンドン交響楽団の演奏でストーンズ・ナンバーの「悲しみのアンジー」をソロで歌った『シンフォニック・ローリング・ストーンズ』が発売。97年にはマーティン・シャーマンが30年代のベルリンを舞台に書いた戯曲をショーン・マサイアス監督が映画化した『ベント/堕ちた饗宴』にグレタ/ジョージ役で出演するとともに主題歌の「Street Of Berlin」も担当した。
新たなミレニアムへと突入した01年11月には、レニー・クラヴィッツやU2のボノ、エアロスミスのジョー・ペリー、マッチボックス・トゥエンティのロブ・トーマスとカイル・クック、ピート・タウンゼント、ジム・ケルトナーといった錚々たるゲストを集めた(愛娘のエリザベスとジョージアもコーラスで参加)4作目『ゴッデス・イン・ザ・ドアウェイ』を発売。ストーンズのツアーで出会ったマット・クリフォードを創作のパートナーにし、マーティ・フレデリクセン、ジェリー・デュプレシス、ワイクリフ・ジョン、クリス・ポッターらを共同プロデューサーに指名して“新しい時代に相応しいレコード”を目指したアルバムは、チャート・アクションこそ全英44位/全米39位に止まるも、フェイヴァリットに挙げるファンは多い。これに合わせてアルバムの制作課程を追ったドキュメンタリー映像作品『ビーイング・ミック』を制作。またマイケル・アプテッド監督の映画『エニグマ』のプロデュース(カメオ出演も)も行ない、映画『エゴイスト』には男性エスコート・サービスを仕事とするルーサー・フォックス役で出演した。
02年には“ポップ・ミュージックへの貢献”を称えて叙勲され、翌03年12月12日にバッキンガム宮殿で開催された叙任式でチャールズ皇太子からナイト位を授けられている。04年4月、『殺したい女』のサウンドトラック以来の重要なコラボレーターとして関係を続けてきたデイヴ・スチュワートと66年の映画のリメイク作品である『アルフィー』のサウンドトラックを制作。ミックの歌声もたっぷり聴くことができ、準オリジナル・アルバムとも言えるこの作品からは「オールド・ハビッツ・ダイ・ハード」がシングル・カットされ、第62回ゴールデン・グローブ賞で最優秀主題歌賞に輝いた。そして07年10月には未発表トラックも含むキャリア初のベスト・アルバム『ヴェリー・ベスト・オブ・ミック・ジャガー』をリリース。それまでの活動を総括して見せたのだった。08年に入ると映画の方に力を注ぎ、ロジャー・ドナルドソン監督の『バンク・ジョブ』に銀行員役で登場したほか、メグ・ライアン主演の『明日の私に着がえたら』にはプロデューサーの一員として加わっている。
11年、デイヴ・スチュワート、ジョス・ストーン、ダミアン・マーリー、A・R・ラフマーンらとスーパーヘヴィを結成。ミックが初めてストーンズ以外のバンドを組んだことで話題となった彼らは9月にバンド名をタイトルにしたアルバムを発表し、全英13位/全米26位という好成績を残した。また11月にはブラック・アイド・ピーズのウィル・アイ・アムのソロ・シングル「T.H.E (The Hardest Ever)」にジェニファー・ロペスとともに参加。14年にはまた映像の世界に取り組み、敬愛するジェームス・ブラウンの伝記映画『ジェームス・ブラウン~最高の魂(ソウル)を持つ男~』と『ミスター・ダイナマイト:ファンクの帝王ジェームス・ブラウン』をプロデューサーとして手がけた。さらに16年にはマーティン・スコセッシ監督とのタッグでHBOのテレビ・ドラマ「VINYL -ヴァイナル- Sex, Drugs, Rock’n’Roll & NY」を制作。いずれも音楽をテーマにした映像作品ということもあり、かなりの反響を呼んだ。
そして17年7月28日、何の前触れもないままにシングル「ガッタ・ゲット・ア・グリップ/イングランド・ロスト」を緊急リリース。ミックらしいサプライズとひさびさのソロ活動再開でファンを沸かせたのだった。
この間、さまざまなアーティストにも協力し、レコードへの参加やステージでの共演など数多くこなしている。また、78年のラトルズのテレビ映画『ラトルズ4人もアイドル!』をはじめ『キンスキー、我が最愛の敵』(99年)、『黄金のメロディ マッスル・ショールズ』(13年)、『バックコーラスの歌姫(ディーバ)たち』(14年)といったドキュメンタリーにコメントを寄せたり、アニメーション『ザ・シンプソンズ』には本人役で登場するなど幅広い活動も行なっている。
私生活では数々の女性と浮名を流し、8人の子どもをもうけてひ孫までいる大ファミリーの長として知られ、世界有数の資産家、セレブリティーとしても常に注目を集めている。かつてはデカダンなロック・スターの生活に浸ったこともあったが、あるときから健康的な毎日を送るようになり、ストイックなまでに自身のフィジカルをコントロールしている。以前からクリケット好きとしても有名で、そのためにジェゲッド・インターワークスという会社まで設立。またサッカー・ファンでもあるが“ミックが応援したチームは負ける”というありがたくないジンクスまであるなど、とにかく話題に事欠かない。なお、00年には母校であるダートフォード・グラマー・スクールの敷地内に芸術や音楽、舞台などで活躍する人材を育成すべく、ミック・ジャガー・センターを設立している。
19年3月にはストーンズの〈No Filter US Tour 2019〉開始直前に大動脈弁狭窄症を指摘され、4月4日にニューヨークのプレビステリアン病院において心臓弁の手術を行なって世界中のファンを心配させたが、無事回復してツアーを成功に導いた。続いて9月には裕福な美術品コレクターであるジョセフ・キャシディ役を演じた映画『The Burnt Orange Heresy』が第76回ヴェネツィア国際映画祭においてプレミア上映されたが、今後は一般公開が待たれるところである。
デビュー以来、史上最強のロックンロール・バンドの先頭に立ち、そのときどきの時代の流れに敏感に反応し、空気を俊敏に読み取りながら歩みを進めてきた彼は、音楽シーンに大きく貢献するだけでなく、ほかのさまざまな分野においても多大なる影響を与えてきた。最高のヴォーカリスト兼ソングライター/パフォーマーであり、個性的な俳優でもあり、有能なプロデューサー、優秀なビジネスマンという多彩な顔を持つミック・ジャガーの行動からは、いつ何時たりとも目が離せない。