Biography

Mia -a(新谷洋子氏ライナーより抜粋)

タイトルはずっと前から分かっていた。父のニックネームを借りた『ARULAR』、母に捧げた『KALA』、自分の愛称に因んだ『MAYA』に続いて、今度は彼女の本名で、ヒンドゥー教の女神の名でもある『MATANGI』と命名。でも、昨年末に登場すると報じられながら度々延期され、出るのか、出ないのか、出るならいつ出るのかとヤキモキさせられたものだ。何しろM.I.A.は、『MAYA』発表の半年後、2010年の大晦日には早くも新曲を交えたミックステープ『Vicki Leekx』を無料ダウンロードで提供し、本作に向けて動き始めていたのだから。
最終的には「リリースしてくれないならリークする!」と、レーベルを脅したとか脅さなかったとか、とにかくここに『MATANGI』が到着した。本名をタイトルに掲げていよいよ本質に迫るということなのか、彼女が「全作品の集大成」と予告していたからには、ここまでの歩みをおさらいする必要があるのかもしれない。
本名マタンギ(マヤ)・アラルプラガサム、生まれはロンドンだが、両親はスリランカの少数民族タミル人であり、彼女は生後6カ月でスリランカに帰国している。仏教徒である多数派のシンハラ人が主導する政府のもとで、長年差別を受けてきたヒンドゥー教徒のタミル人は、70年代に入って権利拡大や自治権を求める運動を起こし、マヤの父もタミル人組織のひとつEelam Revolutionary Organization of Student(タミル・イーラム解放のトラ=LTTEではない)のリーダーとして活動。その後LTTEによる独立宣言を機に、タミル人と政府の対立は内戦に発展し、一家は戦火を逃れて、彼女が10歳の時に難民として英国に渡り、ロンドン南部で暮らすことに――。(ちなみに内戦は2009年5月に政府軍の勝利で終結し、戦争犯罪を巡る論争が今も続いている)
そんなマヤは音楽とアートを愛して育ち、名門のセントラル・セント・マーティン美術学校で映像制作とファイン・アートを専攻。在学中から将来を嘱望されていたが、従兄弟がLTTEの自爆攻撃に加わって戦死したことがウェイクアップ・コールとなり、ルーツを再認識して、自分の体験を忠実に反映した意義ある表現方法を模索し始める。そしてタミル文化に根差したグラフィックを手掛けたり、ビデオカメラを手に故郷を訪れたりしていた中で、音楽作りと出会った。ツアー・フィルムを撮影するべくエラスティカのツアーに同行した彼女は、前座を務めるカナダ人のエレクトロ・プロデューサー/MCのピーチズから、シークエンサーを使ったトラック・メイキングの手ほどきを受け、デモ制作をスタート。“missing in action(戦闘中行方不明)”を意味するM.I.A.の名義で、インディのShowbiz Recordingから500枚限定のアナログ・シングル『Galang』を発表したところ、一躍脚光を浴びてXLと契約。2004年7月に『Sunshowers』で正式なシングル・デビューを果たすのである。
以上2曲は共に、パルプのスティーヴ・マッケイと元Add N to(X)のロス・オートンから成るCavemenがプロデュースしたが、2005年春にお目見えしたファースト『ARULAR』ではほかにもポップ畑のリチャードXや、駆け出しのDJだったディプロともコラボ。ダンスホール、ヒップホップ、エレクトロ、パンクなどなど多彩なスタイルをDIY的に融合し、ロンドンやカリブ諸国のスラングをリリックに交えて、敬愛するザ・クラッシュやパブリック・エネミーの後を継ぐ21世紀のレベル・ミュージックを生み出した。
その『ARULAR』はメディアに絶賛されマーキュリー賞候補にも挙がり、音楽と同じ折衷主義で貫いた自前のアートワークや唯一無二のファッションでもM.I.A.は注目を浴びるのだが、本格的ブレイクはセカンド『KALA』(全米チャート最高18位・全英39位)を2007年発表してからのこと。当初は同作をアメリカで制作する予定だったもののマヤはビザの問題で入国できず、インド、トリニダード、リベリア、オーストラリア……と世界中を旅しながら音の材料を集めてゆく。それらをディプロとスウィッチらの手を借りて曲にまとめた同作は、第三世界からグローバリゼーションの現実を検証するアルバム――といったところか?そしてリリースから1年後の2008年夏になって、ザ・クラッシュの『ストレイト・トゥ・ヘル』をサンプリングしたサード・シングル『Paper Planes』が、映画『パイナップル・エクスプレス』の予告編に使われたことを機に、全米チャートを4位まで上昇して大ヒット。グラミー賞レコード・オブ・ジ・イヤー候補にも挙がり、『KALA』もアメリカだけでゴールド・セールスを記録。と同時に、ボリウッド映画音楽の大物コンポーザー=A.R.ラフマーンと共作し、『スラムドッグ・ミリオネア』のサントラに使われた『O…Saya』が、アカデミー賞の最優秀オリジナル楽曲賞にノミネートされたことも手伝って、いよいよメインストリーム級に認知度を高めてゆく。
ほかにも、レーベルN.E.E.T.を設立して新進女性MCライ・ライやスレイ・ベルズを世に送り出し、2009年2月に息子イキッドを出産するなど話題を提供し続けた彼女。出産2日前に、臨月のボディをシースルーのドレスに包んでジェイZ、カニエ・ウェスト、リル・ウェイン、T.I.を従えて行なったグラミー授賞式でのパフォーマンスも、一大マイルストーンと言えるのだろう。しかしアメリカとM.I.A.の関係は複雑だった。単純な平和主義者ではなく、歯に衣を着せずにタミル人の窮状を訴え、かつ、搾取され紛争に苦しむ第三世界の人々の代弁者であろうとするマヤは誤解を招き易く、LTTEがアメリカでは国際テロ組織に指定されているため、虎をアートワークに使う彼女をテロリストのシンパと見做す声さえ上がった。殊にオバマ政権になって音楽シーンがノンポリ化してからは、マヤのアグレッシヴさは尚更目立ったのかもしれない。
でも、彼女にとってアートはポリティカルな主張として機能しなければ意味を持たず、主張をトーンダウンするつもりはさらさらないことが、産休後のカムバック第一声で明らかになる。そう、2010年春にお披露目された『MAYA』からの先行シングル『Born Free』だ。ロマン・ガヴラスが監督した、人種差別やジェノサイドをテーマにした寓話仕立ての衝撃的ビデオに、世界は騒然。M.I.A.の評価はさらに分極化する中、2010年夏に登場したサード『MAYA』(全米チャート最高9位/全英21位)では、ディプロやスウィッチに加えて、ダブステップ畑のラスコや弟のSuguをプロデューサーに起用。ノイジーで攻撃的なエレクトロ・パンク路線を志向し、テクノロジーとコミュニケーションの関係などに目を向けた。
それからの3年間、冒頭でも触れたレーベルとの綱引きの傍らで、もうひとつ大きな騒動が起きている。マドンナのシングル曲『Give Me All Your Luvin’』にニッキー・ミナージュと共にフィーチャーされた彼女は、2012年2月に行われたNFLのスーパーボウルのハーフタイム・ショウでも、マドンナのパフォーマンスにゲスト出演。1億人以上が見ていた生放送イベントで、禁じ手の中指を立てて、「アメリカを侮辱する行為」と激しい非難を浴びせられたのである。以後、ただでさえメディア不信になっていたためか、この件については言及を避けていたマヤ。4作目でどう出るのか、関心を集めていたことは言うまでもない。