BIOGRAPHY

ミシェル・ンデゲオチェロ | Meshell Ndegeocello


ミシェルは、1969年に米軍に所属していた父親(サックス奏者でもあった)の赴任先だったベルリンで生まれている。
本名はメアリー・ジョンソン。ミシェル・ンデゲオチェロは、”鳥のように自由”という意味のスワヒリ語である。

70年代の初めに家族と共にベルリンから米国のヴァージニア州に移り、それからワシントンD.C.で暮らすようになる。ワシントンD.C.では、地元のゴー・ゴー・ミュージック・シーンに加わり、クラブで演奏しながらベースの腕を磨いた。
名門ハワード大学で音楽を学び、本格的にプロのミュージシャンを目指すようになった。ハワード大学は全米でもっとも有名な黒人大学で、ダニー・ハサウェイやロバータ・フラック、リロイ・ハトスンなどもこの大学の出身者である。

その後ニューヨークに進出したミシェルは、さまざまなバンドのオーディションを受ける。そのバンドの中にはリヴィング・カラーも含まれていて、一時はバンドに加入するという噂も流れたが、ミシェルはソロ・アーティストとして活動する道を選択した。
ミシェルが制作したデモ・テープは、ワーナー・ブラザーズ、マーヴェリック、ペイズリー・パークによる争奪戦を巻き起こした。その結果、マーヴェリックと契約したミシェルは、『Plantation Lullabies』(93)、『Peace BeyondPassion』(96)、『Bitter』(99)、『Cookie:The Anthropological Mixtape』(02)、『Comfort Woman』(03) の5枚のアルバムをリリースした。

 
ミシェルの才能は、単に優れたベーシストという枠にとどまるものではない。彼女は自分で曲を書き、歌も歌う。また、ベースのみならず、キーボードやギターなども演奏するし、自らアレンジもする。すなわちシンガー・ソングライターにしてマルチ・インストゥルメンタリストである。
だからこそミシェルは、これまでソロ・アーティストとしての道を歩んできたと言ってもいいが、彼女自身はバンドで活動することを夢見ていたという。たぶんこうした気持ちを常に胸に秘めていたということが、これまで積極的にセッション活動を行なってきた要因のひとつなのだろう。

実際にミシェルは、これまで数多くのレコーディングやライヴのセッションに参加し、多彩なアーティストと共演を重ねてきた。マドンナ、ローリング・ストーンズ、サンタナ、プリンス、チャカ・カーン、ジョン・メレンキャンプ、スクリッティ・ポリッティ、アラニス・モリセット、ジョー・ヘンリー、サラ・マクラクラン、ベースメント・ジャックス、ハービー・ハンコック、スティーヴ・コールマン、マーカス・ミラー、ハーヴィ・メイスン……これらはほんの一部に過ぎない。

ちなみに近年のミシェルのセッション・ワークの中でもっとも重要なアルバムとして、フェラ・クティのトリビュート・アルバム『Red Hot + Riot:The Music and Spirit of Fela Kuti』(02)、ジェルバ・ブエナの『President Alien』(03)、RHファクターの『Hard Groove』(03)を挙げておこう。なお、RHファクターはジャズ・トランペッターのロイ・ハーグローヴのプロジェクトで、ミシェルはエリカ・バドゥやQティップらと共演している。

渡辺 亨/Watanabe Toru