BIOGRAPHY
MACY GRAY / メイシー・グレイ
数々のミュージック・アワードを受賞、音楽キャリア、そしてその演技力で、メイシー・グレイはエンターテインメント界で真のスーパースターとしての名を築いてきている・・・。
1970年、オハイオ州カントンにて本名ナタリー・マッキンタイアとして生を受ける。シャイで臆病な子供だったが、7歳でピアノをはじめ、両親の聴いていた音楽、スティーヴィー・ワンダー、マーヴィン・ゲイ、アレサ・フランクリンやオールド・スクール・ヒップホップといった様々な音楽に感化されミュージシャンになることを決意する。ミュージシャンを目指しロスに居を移したメイシーは、自身のバンドを結成、ジャズやポップス・スタンダードを歌いプロのキャリアをスタートさせた。その才能は当然のように徐々にミュージック・ビジネスの注目を浴び、アトランティック・レコードと早くも契約するも、その逸材をどうビジネス的に作品にしたらよいか、レコード会社側もマーケティングに困り、結果、その契約は座礁、破棄となってしまった。失意の中にあった彼女を救ったのはepic・レコード。そのユニークさを自由なレコーディング環境のもとパッケージ、制作することに成功した彼女のデビュー・アルバムは無事1999年リリースとなった。誰もの予想を超える大成功を収めたそのデビュー作『オン・ハウ・ライフ・イズ』でメイシーはそのハスキーな歌声、スタイルからニーナ・シモン、ビリー・ホリデイの再来と謳われ現代のミュージック・シーンに彗星の如く現れたのだった。1999年、シングル「アイ・トライ」で”ベスト・ニュー・アーティスト”としてグラミー賞を受賞、アルバムは700万枚というセールスをたたき出した。続く2001年に発表したセカンド・アルバム『ジ・イド』でも、「サイコパス」、「セクシュアル・レヴォリューション」、そして「スウィート・ベイビー」を通し彼女のソウル、ロック、ファンク、ヒップホップといった音楽背景から来る幅広い音楽性が受け入れられ驚異的な成功を収めた。またそれに続くワールド・ツアーは、イスラエル、オーストラリア、日本、そしてメイシー人気度の非常に高いヨーロッパ各地、スペイン、イタリア、ドイツ、オランダまでに及んだ。
2003年7月には待望のサード・アルバム『ザ・トラブル・ウィズ・ビーング・マイセルフ』をリリース。このアルバムは彼女が自身の内面を探り、どれだけセンシティブ、またユニークな部分を表現できるか、というトライアルなコンセプトをみせた冒険作的内容となった。評論家たちはこのアルバムを彼女の最高傑作と絶賛。有力紙ニューヨーク・タイムスや雑誌ローリング・ストーン、ピープル、エンターテインメント・ウィークリー、さらにはロサンゼルス・タイムスのアルバム・レヴュー欄でも軒並みの賞賛を得ている。そこからのシングル「ウェン・アイ・シー・ユー」、「シー・エイント・ライト・フォー・ユー」はラジオやTVでへヴィ・ローテーションを獲得、まさに彼女の代表曲に仲間入りを果たした。
そしてメイシーは2007年ブラックアイド・ピーズの頭脳、ウィル・アイ・アムのレーベル=ウィル・アイ・アム・ミュージックへの移籍。
ジャスティン・ティンバーレイクやファーギー、リンダ・ペリー、さらにはナタリー・コールらをゲストに招き、期待のコラボレーションを実現したアルバム『BIG』をリリースし、大ヒットを記録。
まさに順風満帆といったキャリアを謳歌した彼女であったが、この『BIG』リリース以後更に売れるために「一番売れっ子のプロデューサーとソングライターを雇って、私は痩せればいい」というアイデアが脳裏をよぎったものの、音楽業界のスター製造工場の中で知らず知らずのうちに自分を売ってしまった事に気付き、自分らしさとは何かと思い悩んだ。「人からこうあるべきだという人間ではなく、如何にして自分らしくやっていくか」。自分のインスピレーションに従い、そしてそれを理解してくれる人間とのみ制作活動をする。
2010年、レーベルをコンコードに変え原点に立ち戻って作り上げた、メイシーの”自分らしさ”の結晶『ザ・セルアウト』をリリースする。