BIOGRAPHY

=衝撃のアーミングから始まった世界進出=

Loudnes A 20150181年5月、レイジーに在籍していた樋口宗孝(ds)、高崎 晃(g)が、みずからの音楽性を追求するために新バンド結成を決意する。オーディションにより、元アースシェイカーで活動し、当時はソウル・ミュージックに傾倒していた二井原 実(vo)、高崎と幼なじみだった山下昌良(b)を迎え“ラウドネス”を結成。8月より、ファースト・アルバムのレコーディングを開始した。そして、11月、日本のハード・ロック・シーンを揺るがすファースト・アルバム『誕生前夜〜THE BIRTHDAY EVE』をリリース。
オープニングに収録されている高崎によるアーミングが、日本のロック・シーンを塗り替える序章となった。12月には、浅草国際劇場 でデビュー・コンサートが行なわれる。“ハード・ロックは売れない”という当時の音楽業界の見方に反して、2,700枚のチケットはソールドアウトになり、ラウドネスは100分に渡っての圧倒的なライヴを見せつけた。
その後、精力的な活動を行っていたラウドネスは、82年7月にセカンド・アルバム『戦慄の奇蹟〜DEVIL SOLDIER』を、83年1月にはサード・アルバム『魔界典章〜THE LAW OF DEVIL’S LAND』をリリース。この2作品では、当時、“日本のエンジニアではヘヴィ・メタルは録れない”ということからアメリカ人エンジニアであるダニエル・マ クレンドンを起用。すでに“日本のバンド”の常識では考えられないクオリティのサウンド、テクニックを確立していた。
そして、83年7月には、初のUSツアーを大成功に収めるという快挙を達成。そのままの勢いで、8月からはヨーロッパ・ツ アーを敢行。日本のみならず、世界を視野に入れた活動を展開していく。9月からは、イエスの大ヒット・アルバム『ロンリー・ハート』を手掛けたエンジニア ジュリアン・メンデルスゾーンを迎え、4枚目のアルバムとなる『撃剣霊化〜DISILLUSION』の制作をイギリスで行なう。メンバーにとって、初とな る悲願の海外レコーディングを達成する。
84年5月、83年に行なったアメリカ・ライヴが、アメリカのアトランティック・レコード関係者の目にとまり、日本のバンドとして は初となるワールドワイド契約を結ぶ。この年の8月から、オジー・オズボーンなどの仕事でも知られる世界的な名プロデューサー、マックス・ノーマンを迎 え、ワールドワイドでリリースする第1弾アルバムのレコーディングをロサンゼルスで開始する。
85年1月、記念すべき世界発売となるアルバム『THUNDER IN THE EAST』をリリース。日本のチャートで最高位4位を記録。4月からは全米ツアーを開始。5月付けのアメリカ「ビルボード誌」のチャートでは、日本人バン ドとしては異例の74位を記録し、チャート・インした3月2日から連続19週に渡ってチャート・インし続けた。
8月からは、モトリー・クルーと全米ツアーを敢行。8月14日には、日本のバンドとしてははじめてニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンのステージ に立つという快挙を成し遂げる。同年12月より、前作と同じくマックス・ノーマンをプロデューサーに迎え、アトランティック・レコード第2弾となるアルバ ムのレコーディングに突入。
87年8月、大物プロデューサーであるエディ・クレイマーを迎えたアルバム『HURRICANE EYES』をリリース。『THUNDER IN THE EAST』以降、すべて英詞だったラウドネスだが、日本のファンのために、このアルバムでは日本語ヴァージョンもリリースした。さらに、88年5月には、 日本のファンに向けたミニ・アルバム『JEALOUSY』をリリース。世界的なバンドとなったラウドネスだが、日本のファンを大切にする気持ちを忘れては いなかった。
しかし、88年12月、二井原が脱退を表明。日本だけでなく、世界の衝撃が走る。
89年9月、幾多のオーディションの末、“日本には二井原以上のヴォーカリストはいない”と判断。アメリカ人ヴォーカリストである マイク・ヴェセーラ(元オブセッション)を迎え、『SOLDIER OF FORTUNE』をリリース、国内ツアーだけでなく、日本語解禁前の韓国、変換前の香港、そしてシンガポールでの初のアジアツアーを行い各国で反響を呼ぶ。91年2月には、往年のリメイク・ナンバーを含む『ON THE PROWL』をリリースし、アメリカツアーを行うが、やはりメンバー間の考え方の違いなど、国籍の壁は厚く、作品としては、91年10月にリリースした『SLAP IN THE FACE』を最後にマイクは脱退。その後、新作のプリプロ中に、バンドのボトムを支えてきた山下昌良も脱退し、第2期ラウドネスは終焉を迎える。
しかし、かねてからメンバーに参加を要請されていた元EZOの山田雅樹(vo)がラウドネスに加入を発表。 さらには、日本で大ブームを巻き起こしていたX Japanのベーシストであった沢田泰司(b)が、恒例の東京ドーム公演を最後に脱退、即LOUDNESSへの参加も決定し、ここにオリジナル・メンバー以来、最強のラインナッ プで第3期ラウドネスがスタート。92年6月にリリースしたアルバム『LOUDNESS』は、オリコン初登場2位を記録。沢田泰司の加入により、これまで ラウドネスを知らなかった若いファン層もラウドネスの魅力に取り付かれることになる。
この第3期ラウドネスは、93年1月まで、長期に渡りツアーをこなす。しかし、その後、数々のトラブルにより、沢田、さらにはリーダーである樋口が脱退を表明。ラウドネスは、その存続自体が窮地に立たされることとなる。
94年、一時は脱退も決意していたという山田雅樹が戻り、高崎とともに第4期ラウドネスをスタート。ドラマーには、山田の旧友であ り元EZOの本間大嗣を迎え、アルバム『HEAVY METAL HIPPIES』の制作をスタート。ベースは、高崎自身が担当した。そして、12月=クラブ・チッタ川崎でのライヴより、元アンセムの柴田直人(現アンセ ム)が正式加入を発表。第4期ラウドネスのラインナップが完成する。
95年4月、このラインナップで、全国ツアーを開始。このライヴは、訪れたファンの名前をすべてアルバムにクレジットするというライヴ作『LOUD’N’RAW』としてリリースされる。また、香港ライヴも行ない大成功におさめる。
97年2月、サンフランシスコに渡米し、ニュー・アルバムのレコーディングを行なう。7月には『GHETTO MACHINE』としてリリース。さらに、12月にはアジアの熱いファンの要望に応え、再び香港でライヴを行なう。
98年8月、前作に続きサンフランシスコ・レコーディングによるアルバム『DRAGON』をリリース。9月からは、札幌ペニーレーン24を皮切りに2年半ぶりとなる国内ツアー“LOUDNESS CLUB GIG’98 DRAGON”を行なう。
99年5月、イギリス、オランダ、ベルギー、ドイツと巡る“RISING DRAGON EURO TOUR ’99”を敢行。オランダでは、毎年5万人の観衆を動員するヨーロッパ最大のヘヴィ・ミュージック・フェスティバル“DYNAMO OPEN AIR ’99”のメイン・ステージに立つ。
99年7月、第4期ラウドネスにとって最後となるアルバム『ENGINE』リリース。
2000年に入り、高崎自身が、オリジナル・ラインナップによるラウドネスの再結成を考える。5月には、オリジナル・ラウドネス復活を宣言。オリジナル・メンバーによるプリプロダクションをスタートする。
01年3月、13年ぶりとなるオリジナル・メンバーによるアルバム『SPIRITUAL CANOE〜輪廻転生』リリース。全国ツアーも行ない、帰ってきたラウドネスにファンは大狂乱。さらには、このオリジナル・メンバーによる活動続行も宣 言。7月には、富士急ハイランド・コニファーフォレストにてラウドネス主催イヴェント“HARD ROCK SUMMIT IN FUJI-Q”を開催。新旧のロック・アーティストによる共演が実現する。
01年9月、海外を代表するスラッシュ軍団アナイアレイターを迎え、クラブ・ツアーを敢行。
01年11月、復活したオリジナル・メンバーとしては2作目にあたり、デビュー20周年記念アルバムとなる新作をリリース予定。 また、ニュー・アルバムのリリースに伴う全国ツアーを行なう。
02年3月、“LOUDNESS PRESENT LOUD’N FEST VOL.1”をクラブチッタ川崎で行う。約一年ぶりのオリジナルアルバム『BIOSPHERE』リリース。
03年9月13日、クラブチッタ川崎で“LOUD FEST 2003”開催。
WRENCH、COCOBAT 、BRAHMAN、 等が参加。
04年に入り復活第4弾アルバム『TERROR』をリリース、最大の冬フェス“SONIC MANIA04”に出演、KORNEVANESCENCE、BACKYARD BABIES等と共演。その熱いヴァイブそのまま反映すべく、7月にはLOUDNESS史上初のシングルCD『CRAZY SAMURAI』をリリース。そして、結成25周年プロジェクトとして、第一弾企画セルフカバー『ROCK SHOCK』を発売する。
05年7月22日、ドイツにおける、ヨーロッパ最大規模“EARTSHAKER FEST 2005”出演、その圧倒的パフォーマンスに約3万人を超える群集は魅了され、LOUDNESSのワールドワイドな存在感をまざまざと感じさせられたライ ブだった。その後アメリカ、ヨーロッパからの数々のオファーにより、ワールドツアーのブッキングが開始された。
8月には世界的な格闘家、K-1 武蔵選手との見事なコラボレーションによる、武蔵・入場テーマ曲 『The Battleship MUSASHI』リリース。
06年2月、SHIBUYA-AXにて“LOUDNESS LIVESHOCKS world circuit 2006 chapter1”ツアーをスタートさせ、その後3月よりアメリカツアーを行う。
そのアメリカツアーの様子を収録した LIVE DVD「LOUDNESS IN AMERICA06」を8月にリリース。そして11月には国際フォーラムにて結成25周年記念LIVE “Thanks 25th Anniversary LOUDNESS LIVESHOCKS 2006”を行う。
12月にALBUM「BREAKING THE TABOO」をリリース。
07年2月、LIVESHOCKS 2007 WORLD CIRCUIT CHAPTER2 CLUB QUATTROツアー(東京、名古屋、大阪)を行う。
08年2月、ALBUM「METAL MAD」をリリース。
4月14日、樋口宗孝が肺細胞癌治療のため休養する。
同月に行われた METAL MAD CLUB QUATTROツアー(東京、名古屋、大阪)は闘病中の樋口宗孝の代打とし管沼孝三氏が出演。見事成功に収める。
その後半年間にわたり、過酷な闘病生活を送っていたが、同年11月30日午前10時44分、樋口宗孝が肺細胞癌のため死去。
海外征服という亡き樋口宗孝の野望を引き継ぎ、休む間もなく、活動を続行。

14年、結成時に樋口と高崎が掲げた、当初からのバンドの目標である海外への挑戦を本格的に試みるため、自らのマネージメント/レーベルとなるKATANA MUSICを立ち上げ、基幹となる国内のレーベルをUniversal Music / Thunderball667へ移籍。Thunder In The East 2と呼ぶに相応しいアルバムを前作より二年ぶりに完成させ、二井原氏のヴォーカルは全曲英語、そして高崎晃の至高のギター・サウンドは、ここ数年で最高のレベルに達していると言って良いと思うほどの楽曲群が並んだ。既に、3末にカリブ海で行われた、Monsters of Rock Cruise 2014(www.monstersofrockcruise.com)で、世界から集まった4,000人のオーディエンスの前で新曲も披露、世界への挑戦が再度ここから始まる。