BIOGRAPHY
バーンスタイン年表
- 1918
- 8月25日、父サミュエル・バーンスタイン、母ジェニーの長男として、アメリカ、マサチューセッツ州ボストン近郊のローレンツに生まれる。父はウクライナ系のユダヤ人移民。当初の名はルイスで、後にレナードと改名した。
10歳のとき、叔母が屋根裏部屋に置いていたピアノで音楽に目覚める。 - 1929
- ボストン・ラテン・スクールに入学。
- 1931
- ニューイングランド音楽院でスザーン・ウィリアムズに、翌年ヘレン・コーツにピアノを習い始める。
- 1934
- ボストン・パブリック・スクール・オーケストラとグリーグのピアノ協奏曲の第1楽章を演奏。
- 1935
- ハーバード大学の音楽専攻課程に入学。
作曲をウォルター・ピストンに学び、在学中に初の作品「クラス・ソング」を作曲する。 - 1937
- 指揮者ディミトリ・ミトロプーロス、作曲家アーロン・コープランドと出会い、大きな影響を受ける。
ラヴェルの協奏曲で、コンサート・ピアニストとしてデビュー。 - 1938
- 自作を交えたピアノ・リサイタルを開催。
- 1939
- フィラデルフィアのカーティス音楽院に入学。フリッツ・ライナーに指揮を学ぶ。
- 1940
- タングルウッドでセルゲイ・クーセヴィツキーに指揮を学ぶ。
- 1941
- カーティス音楽院を卒業。
- 1942
- 初の出版作となった「クラリネット・ソナタ」を初演。
- 1943
- 8月、ロジンスキーに認められ、ニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮者に任命される。
11月14日、急病のワルターの代役でニューヨーク・フィルを指揮し、センセーショナルなデビューを飾る。 - 1944
- ピッツバーグ交響楽団で交響曲第1番《エレミア》を初演。
バレエ_《ファンシー・フリー》、ミューージカル_《オン・ザ・タウン》初演。 - 1945
- ニューヨーク・シティ交響楽団の音楽監督に就任(~1948)。
最初のレコード録音を行う(セントルイス_交響楽団を指揮した交響曲第1番《エレミア》ほか)。 - 1946
- ヨーロッパを初訪問し、プラハ、ロンドンで指揮する。
- 1947
- イスラエル・フィルを初めて指揮。以後、終生親密な関係を築く。
- 1949
- 交響曲第2番《不安の時代》を自らのピアノ独奏で初演。
- 1951
- チリ出身の女優でピアニストのフェリシア・モンテアレグレと結婚。
イスラエル・フィル初の国外ツアーとなった北米公演を成功に導く。 - 1952
- 歌劇《タヒチ島の騒動》初演(1983年に《静かな場所》として改訂)。
長女ジェイミー誕生。 - 1953
- マリア・カラス主演のケルビーニ《メデア》を指揮してミラノ・スカラ座にデビュー。
ミュージカル_《ワンダフル・タウン》初演。 - 1954
- 映画《波止場》の音楽を作曲。
《セレナード》初演。 - 1955
- 長男アレクサンダー誕生。
- 1956
- ミュージカル《キャンディード》開幕。
- 1957
- ミュージカル《ウェスト・サイド・ストーリー》開幕。
ニューヨーク・フィルの首席指揮者(1958年より音楽監督)に就任。アメリカ生まれの指揮者としては史上初の快挙だった。 - 1958
- ニューヨーク・フィルのヤング・ピープルズ・コンサートに出演開始。脚本、司会、指揮のすべてを手がけ、1962年から始まったテレビ中継でも人気を集める(~1970)。
- 1959
- ニューヨーク・フィルを率いてモスクワ公演を行い、ショスタコーヴィチの交響曲第5番の演奏が、来場していた作曲者から絶賛される。
- 1961
- ニューヨーク・フィルを率いて初来日。東京文化会館の杮落とし公演を行う。
- 1962
- 次女ニーナ誕生。
- 1963
- 交響曲第3番《カディッシュ》初演。
- 1965
- 合唱曲《チチェスター詩篇》初演。
- 1966
- ヴェルディの《ファルスタッフ》を指揮してウィーン国立歌劇場にデビュー。
ウィーン・フィルと初の録音を行う。 - 1968
- ウィーン国立歌劇場のR.シュトラウス《ばらの騎士》で成功を収め、ウィーン・フィルとの結び付きが強まる。
- 1969
- 「作曲の時間をとるため」、ニューヨーク・フィルのポストを辞任。
以後、ヨーロッパを中心に活躍。ウィーン・フィル、イスラエル・フィルのほか、
コンセルトヘボウ管、バイエルン放送響、フランス国立管などに客演を続け、圧倒的な人気を博する。 - 1970
- ニューヨーク・フィルとの2度目の日本ツアーを行う(大阪万国博覧会の公演を含む)。
- 1971
- 《ミサ曲》初演。
- 1972
- ドイツ・グラモフォンでの初の録音を行う(マリリン・ホーン主演/メトロポリタン歌劇場のビゼー《カルメン》)
- 1974
- ニューヨーク・フィルとの3度目の日本ツアーを行う。
- 1975
- ウィーン・フィルを指揮してザルツブルク音楽祭に初出演。
ニューヨーク・フィルを主体にした最初のマーラー交響曲全集を完成。 - 1977
- イスラエル・フィルを指揮してグラモフォンに自身の3つの交響曲を録音。
- 1978
- 妻フェリシア死去。
- 1979
- 10月、ベルリン・フィルと生涯唯一の共演を行う。この時演奏されたマーラーの交響曲第9番は、没後にライヴ音源がリリースされ、大きな話題を呼んだ。
ドイツ・グラモフォンに録音したウィーン・フィルとのベートーヴェンの交響曲全集完成。
ニューヨーク・フィルとの4度目の日本ツアーを行う。 - 1980
- 《ディヴェルティメント》初演。
- 1984
- キリ・テ・カナワ、ホセ・カレーラスを主役に配した《ウェスト・サイド・ストーリー》の全曲盤を録音。
- 1985
- 8月、「広島平和コンサート」で交響曲第3番《カディッシュ》等を指揮。
9月、イスラエル・フィルとの日本ツアーで、マーラーの交響曲第9番の伝説的名演を残す。
第8番、第10番を除く2度目のマーラーの交響曲全集を、ウィーン・フィル、ニューヨーク・フィル、コンセルトヘボウ管を指揮して完成(後に、1970年代録音の第8、10番を加えた全集としてリリースされた)。 - 1989
- ロンドン_交響楽団と《キャンディード》全曲を演奏&録音。
12月、ベルリンの壁崩壊を受けて、東西ドイツ、アメリカ、ソ連、フランス、イギリスの混成メンバーによるオーケストラを指揮し、ベートーヴェンの《第九》を演奏。「歓喜の歌」の「Freude」を「Freiheit(自由)」に変えて話題を呼ぶ。 - 1990
- 6月、札幌でパシフィック・ミュージック・フェスティバルを開始。
7月、ロンドン交響楽団を指揮して日本公演を行うも、体調悪化のため途中で帰国。
8月19日、タングルウッド音楽祭でボストン交響楽団を指揮し、これが最後の舞台となる。
10月9日、指揮活動からの引退を表明。
10月14日、ニューヨークで死去(享年72)。
作成:柴田克彦