BIOGRAPHY
忌野 清志郎(いまわの きよしろう)
1951年-2009年。バンドマン。
1968年高校在学中にRCサクセション結成。1970年「宝くじは買わない」でデビュー。「雨あがりの夜空に」「スローバラード」「い・け・な・いルージュマジック」など多種多様なヒット曲を放つ。
恒例の武道館、日比谷野音等 LIVE パフォーマンスでも数々の伝説を作った。
91年の RC活動休止後も、ソロ活動の他、映画・ドラマ出演や絵本の執筆、サイクリストなど活動は多岐に渡る。
2008年2月『忌野清志郎 完全復活祭 日本武道館』では、当時の日本武道館最多動員数を記録。
2020年、デビュー50周年を迎えた。
■ 1951年 4月2日 東京都中野区にて産声、つまり最初のシャウトを発声。
ちなみに世間的には黒沢明監督の「羅生門」がベニス国際映画祭でグランプリを獲得、国産初のLPレコードが発売され、500円札が誕生して、サンフランシスコ講和条約が締結、美空ひばりの「越後獅子の唄」と津村謙の「上海帰りのリル」が流行っていた。
■ 1966年 11月23日 つまり勤労感謝の日に同級生の小林和生、破廉ケンチと共にRCサクセションの前身となるバンドを結成。なんと15歳。
■ 1967年 都立日野高校に入学。高校進学によって前記のメンバーが離ればなれになり一時的にバンドは解散。忌野、小林に別メンバーでバンドを結成。この頃からオリジナル曲をレパートリーに入れ、喫茶店(歌声喫茶?)にて初ライヴ。
■ 1968年 再び、破廉ケンチを迎え入れ「RCサクセション」を結成。
ちなみに世間的には猛烈なサイケデリック&アングラ・ブーム、メキシコ・オリンピックでは日本サッカーが銅メダルで、GSとカレッジ・ポップスが流行って、ピンキーとキラーズが「恋の季節」で、映画界はニュー・シネマで、子供は全員が「巨人の星」と「ハレンチ学園」を読んでいた。
■ 1969年 4月当時人気番組だったTBSテレビの「ヤング720」のオーディションに合格、6月に出演を果たした。演奏曲は「どろだらけの海」。8月には東芝主催の「カレッジ・ポップス・コンサート」オーディションに受かって出演。この模様は11月に東芝音工から実況録音盤としてリリース、「どろだらけの海」が収録され、RCのデビュー前の貴重な音源となった。当時全盛のフォーク・トリオのスタイルで活動していたが、ビート感を最大限に活かした演奏と忌野の持つ圧倒的なボーカルスタイルは明らかに他のバンドと一線を画す個性を放っていた。
■ 1970年 高校3年にして3月5日「宝くじは買わない」(c/w「どろだらけの海」)で東芝音工より堂々デビュー。忌野清志郎元年となる。高校を卒業。12月5日2ndシングル「涙でいっぱい」リリース。活動の拠点は渋谷・宮益坂付近にあった「青い森」。
■ 1971年 ホリ・プロダクションに入社。「青い森」に出演していた「古井戸」の仲井戸麗市と出会う。
ちなみに世間的にはドル・ショックで ボウリング・ブームで尾崎紀世彦が「また逢う日まで」で小柳ルミ子がデビューして「non-no」が創刊、仮面ライダーで「ある愛の詩」で大鵬が引退。
■ 1972年 2月5日シングル「ぼくの好きな先生」、アルバム『初期のRCサクセション』リリース。しかし、3人でレコーディングしたはずが実際出来上がってみるとバックはスタジオ・ミュージシャンの演奏に差し替えられていて、この時点で業界に対する不信感がすでに芽生える。「ぼくの好きな先生」がヒット、世の中にRCの名を知らしめる。7月にシングル「キミかわいいね」、12月には「三番目に大事なもの」、アルバム『楽しい夕に』をリリース。TVK「ヤングインパルス」にレギュラー出演。
■ 1973年 フォークのニュー・ミュージック化が進む中でRCはエレキに持ち替えたもののアングラ化の方向へ。友人の井上陽水と共作した 「帰れない二人」「待ちぼうけ」が収録された井上氏のアルバム『氷の世界』が日本初のミリオンセラーに。RCとしては不遇な時期になりつつあったが忌野は多額の印税を手にハモンドオルガンなどを購入。初のMOOK「RCサクセションのすべて」(アロー出版)発売。
■ 1974年 所属事務所内でのゴタゴタもあってほとんど仕事のない状態が続く。年末に久々のワンマン・ツアーを開催したが集客が悪く途中で公演中止の憂き目に。練習の日々が続く。
■ 1975年 事務所には秘密でレコーディングを開始。ポリドールに移籍。
ちなみに世間的にはベトナム戦争がやっとこさ終わって、ディスコ が流行り始めて、長嶋が監督になったのに赤ヘル軍団が大活躍、山口百恵は「冬の色」で野口五郎は「私鉄沿線」でキャンディーズは「年下の男の子」で中島みゆきが「時代」、で、キャロルは解散した。
■ 1976年 1月21日シングル「スローバラード」発売。その後のRCの重要なレパートリーになっている傑作であるが当時は全く売れなかった。4月21日アレンジャーに星勝、ゲストにサンフランシスコ・ベイエリアのナンバーワン・ファンク・バンド「タワー・オブ・パワー」を迎えるなどして制作されたアルバム『シングル・マン』発売。オーソドックスなR&B感覚をベースに、今でも十分通用するスケール感のあるこの作品は後に名盤として高い評価を受けるが、当時は評価は低くて発売後間もなく廃盤。10月11日シングル「わかってもらえるさ」発売。ライヴは矢沢永吉、井上陽水らの前座がほとんど。
■ 1977年 1年前からほとんど舞台には出ていなかったギターの破廉ケンチが正式脱退。それでもコンスタントに活動を持続。
■ 1978年 フォーク・デュオ「古井戸」の仲井戸麗市が掛け持ちでサポート・ギターで参加したのに加え、「カルメン・マキ&OZ」のギタリスト・春日博文、「ミスター・スリム・カンパニー」などで活躍していたドラムの新井田耕造(現・耕三)を迎え入れ、よりヴァイタルなエレクトリック志向を大胆に打ち出す。この頃、ボブ・ディラン、デビッド・ボウイらの影響もあってメイクを始める。渋谷の「屋根裏」を拠点にそのセンセーショナルなステージが次第に評判になり始めた。
■ 1979年 7月21日シングル「ステップ!」発売。RCサクセション名義であるものの、演奏は全てスタジオ・ミュージシャンによるもの。しかし、評判は徐々に良くなっていた。春日博文に代わって小川銀次、キーボードに原田真二のバックなどをしていたGee2wooが参加。12月の「ジョニー、ルイス&チャー」の武道館公演の前座や大晦日の「浅草ロックフェス」に出演し、客席を総立ちにさせる。また廃盤になっていた「シングル・マン」の再発実行委員会(吉見佑子氏ら)が発足され自主制作でプレス。雑誌の対談企画でジェームズ・ブラウンと対面。JBから「ソウル・ブラザー・ナンバーツー」と呼ばれた。
ちなみに世間的にはインベーダー・ゲームが大ヒット、ウォークマン第一号が発売されて、江川が巨人入り、スリーマイル島で原発から放射能が漏れ、「がんばれ!タブチくん!」で「機動戦士ガンダム」で「銀河鉄道999」で、沢田研二は「カサブランカ・ダンディ」だった。
■ 1980年 1月21日シングル「雨あがりの夜空に」発売。発売記念として1月19日から4日間に渡って渋谷「屋根裏」でライヴ。4日間で述べ800人を動員し動員記録を打ち立てる。4月5日に今は無き久保講堂でワンマン・ライヴ。観客総立ちの盛り上がりを見せ、この模様を収めたライヴ盤『RHAPSODY』が新生RCのアルバムとしてキティレコードから6月5日に発売された。さらに5月に「ボスしけてるぜ」、10月「トランジスタ・ラジオ」の2枚のシングル、そして12月5日にアルバム『PLEASE』をリリース。チャート上位に登場するようになった。久保講堂でのライヴ終了後、ギターの小川銀次が脱退し、Gee2wooは正式加入し、忌野、小林、仲井戸、新井田、Gee2wooの5人のバンドとして固まった。
■ 1981年 5月30、31日の日比谷野外音楽堂公演の即日完売を始め、全国ツアーは大盛況。西武球場での「スーパー・フェス・シャワーリング・ジャム」をはじめ夏のイベントではメイン・アクト、トリを務めRCの人気は決定的なものとなる。年間100本近いライヴを行い、12月24日には初の日本武道館単独公演を行う。11月21日アルバム『BLUE』発売。雑誌「宝島」の中でもRCを大きく取り上げていたJICC出版局がRCの単行本「愛しあってるかい」を発売。
■ 1982年 2月14日、資生堂のキャンペーン・ソングとして坂本龍一と組んでリリースしたシングル「い・け・な・いルージュマジック」がチャート1位を獲得。RCサクセションはロンドン・レコードに移籍、自身のレーベル「BARCA」を設立。5月5日品川プリンスホテルにて 雑誌「ビックリハウス」主催によるイベント「ヘンタイよいこ白昼堂々秘密の大集会」に、忌野、仲井戸麗市、坂本龍一、 矢野顕子、鈴木さえこ、どんべい……というメンバーの「へンよいバンド」として出演。8月7日横浜スタジアム、8日大阪住之江競艇場にてチャック・ベリー、サム・ムーアらを招きイベント「THE DAY OF R&B」開催。6月「サマーツアー」、12月「つ・き・あ・い・た・い」とシングル・リリース。10月25日にはアルバム『BEAT POPS』、12月10日に『THE DAY OF R&B』を発売。またRCのホーン・セクションとして活躍していた梅津和時率いるドクトル梅津バンド(DUB)とのコラボレーション・アルバム『DANGER』を11月25日発売。
■ 1983年 あまりに多忙な生活がたたって体調不良になり前半はライヴ活動を押さえる。ハワイにてレコーディング、6月にシングル「Oh! Baby」、7月5日にアルバム『OK』リリース。11月には三菱・ミラージュのCF曲として「ベイビー!逃げるんだ。」リリース。自ら出演もし、CFキャラクターとしてもお茶の間と業界の高い評価を得る。ニューヨーク・ロケのプロモーションビデオも話題に。6月25、26日に渋谷公会堂で行ったライヴの模様を収めた2枚組のアルバム『THE KING OF LIVE』リリース。初の詩集「エリーゼのために」(弥生書房)、カメラマン・おおくぼひさこによる写真集「RCサクセション写真集」(ロッキング・オン)が発刊される。この年、RC以外にDr.梅津バンドとのユニット・DANGERや春日博文とのユニット・ガラムなど課外活動も目立った。
■ 1984年 ロンドン・レコードから東芝EMIに移籍。7月にシングル「不思議」、11月23日には怒りをあらわにした曲を集めたサイドとラヴ ソングを集めたサイドに分かれたアルバム『FEEL SO BAD』をリリース。1983年12月25、26日に日本武道館で行われたライヴの模様を収めたビデオ『THE KING OF LIVE』を4月10日にリリース。ニューヨークで撮り下ろしたソロ写真集「N.Y CITY MIND」(シンコーミュージック)と現在映像界で活躍する翁長裕撮影のRCの写真集「I Feel Good」発刊。
ちなみに世間的にはロス疑惑で、グリコ・森永事件で、「オールナイトフジ」で、マイケル・ジャクソンが「スリラー」でマドンナが「ライク・ア・バージン」で、レーガン大統領と中曽根首相が再選されて、都はるみが引退で紅白「みそら事件」。
■ 1985年 所属事務所・りぼんを離れ、独立事務所「うむ」を設立。4月1日西武劇場(現パルコ劇場)にて独立記念コンサート「スー パーエイプリルフール」を開催。泉谷しげる、坂本龍一、矢野顕子、三浦友和らがゲスト参加。4月シングル「すべてはALRIGHT」リリース。パルコのCFに初めてRCのメンバー全員で出演。8月11日には西武球場にてワンマン・ライヴ。11月21日アルバム『HEART ACE』、12月シングル「SKY PILOT」リリース。12月21日にはCF界の鬼才・川崎徹の企画・演出によるプロモーションビデオ集『SPADE ACE』リリース。おおくぼひさこ写真集「すべてはALRIGHT」(パルコ出版)発刊。DANGERの2ndミニ・アルバム『DANGERII』を7月20日リリース。
■ 1986年 単身渡英、ロンドンにてリミックス作業を行って、スローナンバーを集めた12inch「NAUGHTY BOY」制作、4月23日リリース。 突如企画が浮上し、 清志郎とJOHNNY,LOUIS & CHARが組んでアニメ「県立地球防衛軍」のサウンドトラック制作。3月にシングル「S.F.」、3月30日アルバム『県立地球防衛軍』リリース。また、RCサクセションとしても精力的にツアーなどを行い、8月16、17、23、24日には日比谷野外音楽堂にてコンサートを行う。その模様を収録したアルバム(10月12日)とビデオ(11月21日)『THE TEARS OF A CLOWN』リリース。秋にはソロ・アルバム制作のため、単身渡英。
■ 1987年 イギリスのカルト・バンド「IAN DURY & BLOCKHEADS」のメンバーとソロ・アルバム制作、RCとは違った面を打ち出したソロ作品 を発表。2月4日シングル「AROUND THE CORNER」、2月25日にはアルバム『RAZOR SHARP』リリース。TVプロモーションを集中的にこなす。またレコーディング・メンバーを従えてのツアーも話題になり、ライヴ盤として6月5日『HAPPY HEADS』リリース。2ndソロ・シングル「E-JAN」9月リリース。この間、RCサクセションの活動も活発。「週間FM」に連載していた「忌野旅日記」単行本化(音楽之友社、後に新潮文庫)。また70年代に書いていた日記と詩をまとめた「10年ゴム消し」(六興出版、後に河出書房新社)発刊。
■ 1988年 2月25日RCサクセションとしては2年ぶり、しかも2枚組のアルバム『MARVY』リリース、同時にシングル「NAUGHTY BOY」発売。引き続きレコーディング 作業に打ち込み、反戦、反核、反原発などを歌った全曲カヴァーのアルバム『COVERS』を制作するが、所属レコード会社・東芝EMIは突然の発売中止措置を決定。結局キティレコードから8月15日にシングル「LOVE ME TENDER」と共にリリース。まさに時代の波に乗ったこの作品はオリコン初登場1位を獲得する大ヒット。FM大阪にて「夜をぶっとばせ!」開始(後にFM東京等もネット)。8月13、14日に行った日比谷野外音楽堂でのコンサートの模様を収めたアルバム『コブラの悩み』を12月16日リリース。
■ 1989年 新曲中心のコンサート活動に専念。余談であるが忌野清志郎に声は似ているが別人と言われるZERRY率いる謎のバンド「THE TIMERS」の活動も激化。シングル「DAYDREAM BELIEVER」、アルバム『THE TIMERS』を10月11日リリース。
ちなみに世間的には新元号・平成元年、「朝まで生テレビ」が評判となり、「オバタリアン」とか「おやじギャル」とか「ほたる族」とか「アッシーくん」とか「お局さま」とかいろんな種族が発生、24時間戦えないとビジネスマンじゃなかった。
■ 1990年 RCサクセション20周年を記念してプロモーション等も盛り上がりを見せる中、キーボードのGee2wooが脱退。さらにドラムの新井田耕三も脱退。残る3人で制作した約2年7ヶ月ぶりのアルバム『BABY a Go Go』、シングル「I LIKE YOU」を9月27日リリース。サポート・メンバーとしてドラムに旧友・春日博文、キーボードにVOW WOWにいた厚見玲衣を従え、10年連続の日本武道館公 演等、コンサートも行う。8月に日比谷野外音楽堂にて行われたライヴの模様を収めたビデオ『ミラクル』を11月28日リリース。
東芝EMI所属のアーティストが総出演のイベント「ロックの生まれた日」が日比谷野外音楽堂と大阪城野外音楽堂で開催。忌野は坂本冬美、三宅伸治、小林和生等と「SMI」を結成し「パープルヘイズ音頭」「高校3年生」などを披露、絶賛される。この模様は7月25日にアルバムとビデオで発売された。単行本「遊びじゃないんだっ」(マガジンハウス)、「日々の泡立ち」(ロッキング・オン)発刊。
■ 1991年 RCサクセションの活動無期限休止に入る。事務所は解散し、個人事務所「ベイビィズ」を設立。映画「ai-ou」の主題歌に「スローバラード」が使われ再評価を得る。建設会社のCFソングとして糸井重里作詞による「パパの歌」制作。OAされるやいなや問い合わせが殺到し、急遽5月2日シングルをリリース。このヒットにより幅広い年齢層に認知された。昨年のユニット「SMI」が好評を得たため、細野晴臣を迎え入れアルバム制作。6月にシングル「夜空の誓い」、7月19日アルバム『HIS』リリース。HISは細野、忌野、坂本の頭文字。11月、2ndシングル「日本の人」リリース。3人が学生服着用で登場したプロモーションも話題に。井上陽水、高中正義、細野晴臣らと一日限りのユニットや「忌野清志郎&トリ」なるユニットなどを即席で結成し、夏のイベントに登場。9月からは永遠の聖地とも言うべきアメリカのテネシー州メンフィスへ旅立ち、かつてオーティス・レディングのバックをはじめR&Bの名門レーベル・STAXのハウスバンドだった「Booker.T & THE MG’S」の面々とアルバム制作に入る。帰国後の年末にはファンクラブ主催によるイベントツアーのために「忌野清志郎&ニーサンズ」結成。一回り以上年の離れたメンバーと共に行ったライヴはRCでは出来得なかったお笑いなども導入して、当人にもファンにも新鮮。
■ 1992年 2月ついに「Booker.T & THE MG’S」と制作したソロ・シングル「世間知らず」リリース、続いて3月25日にアルバム『Memphis』リリース。発売前から話題になり、収録曲のTV番組使用やCMソングが次々と決まるなど大好評。プロモーションも今までにない量をこなす。4月からはレコーディング・メンバーを招聘し、日本武道館を含む7カ所9公演のライヴ。4月18日に行われた武道館公演を収録したアルバム『HAVE MERCY!』を6月24日に、ビデオを7月15日リリース。「パパの歌」の好評により、同会社のCM曲としての第2弾シングル「パパの手の歌」6月3日リリース。夏にはニーサンズとのレコーディングのため渡英。武田鉄矢監督・主演の映画「プロゴルファー織部金次郎」の主題歌に「いつか観た映画みたいに」が決まり、9月シングル・リリース。カップリング曲の「ニュースを知りたい」はTBS系「NEWS 23」エンディング曲に。バンド結成時の初々しさを感じさせるアルバム『GO GO 2・3’S』を11月11日発売。秋から翌年の1月にかけて42本の全国ツアー。
ちなみに世間的には……とまあ、このへんからは最近のことなので省略。
■ 1993年 1月2ndシングル「お兄さんの歌」リリース。昨年からのツアー終了後、初の映画出演のため撮影に突入。岩松了監督作品「お墓と離婚」(小林薫、田中好子主演)で堂々のスクリーン・デビュー。役柄は40才の謎の男。夏には2・3’Sの面 々と再びロンドンに渡りアルバム・レコーディング。10月27日、シングル「プライベート」、アルバム『Music From POWER HOUSE』リリース。
「プライベート」が主題歌になったTBS系のドラマ「デザートはあなた」に準レギュラーとしてドラマ初出演。10月から日本武道館公演を含む20数本の全国ツアー。大晦日には泉谷しげるの呼びかけで川崎クラブチッタにて行われた年越しライヴ「日本を救え!」に出演。2・3’Sとスーパーバンドでの出演(何故かこの日、THE TIMERSが復活)。シリーズ第3弾として制作した「鉄人パパ」を含むパパ・シリーズをまとめたミニ・アルバム『abcd』が6月16日リリースされた。
■ 1994年 2・3’Sは忌野の出身校・都立日野高校にて卒業記念コンサートを3月10日に行い、春のツアー終了後、活動を休止。
忌野はソロに専念。ストリングスなどを含む13人の大所帯バンドを布陣に渋谷公会堂にてソロ・ライヴ「Screaming Revue」開催。
この模様を収録したビデオを9月16日発売。初のソロ・ベスト盤『MAGIC』を9月16日にリリース。TBS系のドラマ・東芝日曜劇場「ボクの就職」にレギュラー出演を果たし、何とも言えぬ演技が話題になる。5月リリースの主題歌は自ら工場などに出向き取材して作った「サラリーマン」。カップリング曲「競馬場で会いましょう」はJRAのCMソング。また、竹中直人監督作品映画「119」の音楽を担当(サウンドトラックアルバムは1995年1月11日発売)。本人にとっても初挑戦であったが日本アカデミー賞の最優秀音楽賞を受賞。8月13日、多くのファンが待ち焦がれていた仲井戸麗市との一夜限りのスペシャルライヴ「GLAD ALL OVER」を日比谷野外音楽堂にて開催。RCサクセションの名曲を数多く披露する。会場には入れないファンも多かった。この日の模様を収録したアルバムとビデオを12月7日発売。12月31日には年越しイベントとして「素敵な初詣」を忌野清志郎自らプロデュース。多彩な顔ぶれが並び、その後も定例化。念願のプライベート・スタジオ「ロックン・ロール研究所」(通称:ロッ研)を設立。自ら所長として独自の音楽世界を築く場を設立。不思議なことに夏のイベントに行く先々にシークレット出演でTHE TIMERSが出没。完全復活ともとれるその動きは姫路城前でのジェームス・ブラウンの前座や福岡ドームでの水騒動など各地で猛威を振るった。
■ 1995年 デビュー25周年を記念して、400ページにも及ぶ豪華本「生卵」(河出書房新社)を発売。ユーモアとペーソス溢れる内容が評 判を呼ぶ。個性的なキャラクターでの東京デジタルホン(現J PHONE)のCM出演により、またしても知名度が上がる。夏にはアメリカ・ナッシュビルにてレコーディング。シングル連発を狙った豪華な布陣のサポートも手伝って、今までとは毛色の違った仕上がりになる。「君にだけわかる言葉」11月リリース。昨年より定型化してきたソロ名義のプロジェクト「Screaming Revue」の動きが活発化、全国ツアーを行い、12月25日には日本武道館のステージも踏む。さらに忌野清志郎のインディーズ進出を目論んだレーベル「SWIM RECORDS」設立。不思議と縁を感じるTHE TIMERSが復活どころか5年ぶりとなるアルバム・リリースという暴挙まで成し遂げる。4月にシングル「サヨナラはしない」発売、4月26日にはアルバム『復活!! THE TIMERS』発売。さらにはメジャーでは到底リリースできないようなことばかりを歌ったアルバム『不死身のタイマーズ』が設立されたばかりのSWIM RECORDSから4月30日にリリースされた。
■ 1996年 前年からのシングル連発展開の第2弾として「GOOD LOVIN’」を1月に、第3弾「世界中の人に自慢したいよ」(東京デジタルホンのCM曲)を4月発売。大所帯だったプロジェクト「Screaming Revue」をリズム隊のみのシンプルな形にして、「Little Screaming Revue」として春に全国22カ所23公演、秋には学園祭10公演を行う。強烈なサウンドとグルーヴで見る者を圧倒、 今後の動きに期待が高まる。なぜか忌野本人はSAXにもはまる。篠原涼子とのデュエット・シングル「パーティーをぬけだそう!」
が11月リリース。
■ 1997年 フリージャズ・ユニット「de・ga・show」とのコラボレーション・アルバム『Hospital』を発表。東名阪のクラブ・クアトロと京都磔磔ツアーを行う。何とも言えない華麗で味のあるフルート演奏も披露。ついに自身のアルバム・レーコーディングにも突入。シングル「メロメロ」を6月に、そして4年ぶりとなる傑作アルバム『GROOVIN’ TIME』を7月24日にリリース。発売に合わせて全国25カ所をツアー。2年ぶりとなる日本武道館公演も決行。また、木村拓哉主演フジテレビ系のドラマ「ギフト」にレギュラー出演、またしても怪演で話題になる。スペースシャワーTV「SoHo」のパーソナリティーを1年間担当。ハイパーヨーヨーに親子共々ハマり、年末には中村名人との異種コラボレーションを果 たす。
■ 1998年 3月にイベント「ラブ・ジャム」を開催し、多彩なゲストとのコラボレーションも話題になる。約14年間在籍した東芝EMIを離れ、古巣でもあるポリドールに移籍。Little Screaming Revueとしての2ndアルバムのレコーディングに入る。夏には「FUJI ROCK FESTIVAL ’98」メインステージに出演、フェスティバル一番の盛り上がりで若手に貫禄を見せつける。シングル「サンシャイン・ラブ」を9月発売。TVでのプロモーションを積極的に敢行。歌番組はもちろん、「SMAP×SMAP」「とんねるずのみなさんのおかげでした・喰わず嫌い王決定戦」など50本近い番組に出演し「サンシャイン・ラブ」を歌いまくる。アルバム『Rainbow Cafe』を10月14日リリース。巨大絵画(8m×1.5m)を描き上げ、タワーレコード新宿店に展示。11月から17本の全国ツアー。
■ 1999年 主演・音楽監督で関わる予定だった映画の企画が急遽とん挫し、そのために録りためていた曲にプラス・アルファし、ソロ・アルバム 『ラフィータフィー』とシングル「QTU」を7月28日発売。プロモーションの際、丹下左膳のいでたちでメディアに登場、驚嘆と話題を振りまく。夏には「チベタン・フリーダム・コンサート」「FUJI ROCK FESTIVAL ’99」などに参加。並行してLittle Screaming Revueの3rdアルバムのレコーディング。しかし、ロック調にアレンジした「君が代」の収録にポリドールが難色を示し発売中止に。発売中止の措置を受けて出演したイベントでは怒っていないと言いながらもロックンロールの本質を丸出しにする圧倒的なライヴ・パフォーマンスを披露。「君が代」を収録したアルバム『冬の十字架』は、結局インディーズとしてSWIM RECORDSから9月22日発売。センセーショナルな事件として大きく扱われたこともあり、台湾大地震の影響でプレスが滞るなどのトラブルも乗り越えて大 ヒット。9本の大都市ツアーを行う。ホラは吹かねど、ホラ貝を吹く。そして携帯する。
■ 2000年 デビュ-30周年記念イベント「RESPECT!」を3月3日に日本武道館にて開催。清志郎デザインのウクレレ発売。武田真治が加わった新生ラフィ-タフィ-としてアルバム「夏の十字架」「秋の十字架」発売。全国のライブ・ハウスを廻るというツア-「マジカデ・ミル・スタ-・ツア-」で5月に15本、10月から12月にかけて32本。会場では本人初の握手会まで開催。9月にTVブロスに連載中の文章「瀕死の双六問屋」を単行本化。21世紀の幕開けのカウント・ダウン・ライブを京都駅駅ビルにて、など活動範囲も多角化。
■ 2001年 マジカデ・ミル・スタ-・ツア-の模様を追ったドキュメント・ロ-ド・ム-ビ-「不確かなメロディ-」(杉山太郎監督)3月に全国 劇場公開。音楽活動も積極的に行ったが、自転車に夢中になり、ついには鹿児島まで10日間かけてロード。50才になっても老いを感じさせない強力なパワーと軽いフットワークで活躍中。
■ 2002年 三池崇史監督作品「カタクリ家の幸福」出演、さらに清水浩監督作品「チキン・ハ-ト」に池内博之、松尾スズキ等と主演。TOKYO-FM制作による絵本「ブーアの森」にて初の絵本執筆4月発売。このテーマ・ソング「ブーアの森へ」が4月からNHKのみんなの歌でOAされ、シングルがavex io kidsからリリース。木梨憲武と組んで「ガンバレ日本」6月発売。泉谷しげる等と組んだ忌野・泉谷・スパイスマーケットでの活動開始。FUJI ROCK FESには前夜祭も含め全日程に様々な形態で出演。矢野顕子とのコラボレーションも話題に。及川光博とのユニット・ミツキヨで「強烈ロマンス」11月発売。
■ 2003年 1月親友のギタリスト、スティーブ・クロッパー率いるBLUES BROTHERS BANDのゲストとしてブルーノート東京にて4ステージ共演。RC時代に結成したジャズユニット「DANGER」の復活ライブを20年ぶりに新宿ピットインにて。和歌山県熊野の森にて「ブーアの森」イベントを開催。荒天のため、野外ライブが中止になるも会場を変えて5時間遅れての開演にもかかわらず、地元の方など約1000人熱狂。東京FM他JFN系列局とコスモ石油主催のイベント「コスモ・アースコンシャス・アクト アースデー・コンサート」に出演。ミツキヨや佐野元春との共演を果たすも、自身のステージにて演奏した曲が放送ハプニングというニュースになる。人気アニメ「ちびまる子ちゃん」のエンディングテーマ「宇宙大シャッフル」を原作者のさくらももこと共作、遊人の宇宙人BAND・LOVE JETSが演奏をしたシングルが7月2日発売(avex io)。そのLOVE JETSを清志郎がサポートした全国7本のツアー「ここにアルゼンチン」7月1日スタート。初の翻訳絵本「BAD CAT」6月発売。7月26日公開の初の自転車アニメ映画「茄子 アンダルシアの夏」(高坂希太郎監督)のエンディングテーマ「自転車ショー歌」を歌う。8月大阪城野音、日比谷野音にてソロワンマンライブ「WANTED」開催。大盛況内にソロ活動を本格的にスタート。11月19日には4年ぶりのソロアルバム「KING」発売。11月24日河内長野市民文化会館を皮切りに2004年2月6日まで19本のツアー「WANTED」開催。昨年に続き絵本第2弾として「おとうさんの絵」をマガジンハウスより10月3日(トーサンの日)刊行。