BIOGRAPHY

Herbert von Karajan ヘルベルト・フォン・カラヤン


1908年ザルツブルクに生まれたオーストリアの指揮者(1908-1989)。わが国はもちろん国際的に最もポピュラーな人気を誇った指揮者として唯一無二の存在でした。1989年に偉大な業績を残してその生涯を終えましたが、“帝王”とも呼ばれた彼の死はクラシック音楽界におけるひとつの黄金時代の終焉を告げる、とさえ言われました。その繊細で緻密な演奏、作品自身が持つドラマを巧みな演出で生き生きと表出するテクニックは他に類がない素晴らしいものでした。カラヤンは実に多くの録音を残しましたが、その幅広いレパートリーすべてがレコード史に残る名演と言えます。また、彼は最新録音技術をいち早く活用した人であり、晩年には映像にも興味を示すなど、あらゆる意味で世界の音楽界をリードしてきた、まさにカリスマ的存在だったと言っても過言ではないでしょう。


カラヤン年表

作成:柴田克彦

1908 4月5日、父エルンスト・フォン・カラヤン、母マルタの次男として、オーストリアのザルツブルクに生まれる。
幼い頃から兄のレッスンを真似てピアノを弾き始め、両親は3歳のときに彼が絶対音感をもっていることに気付く。
1912 レトヴィンカ教授から本格的なピアノのレッスンを受け始める。
4歳半のとき、レストランでの慈善団体主催のコンサートでモーツァルトのロンドを演奏し、神童として話題を呼ぶ。
1916 ザルツブルクのモーツァルテウム音楽院に入学し、パウムガルトナーに作曲法と室内楽、ザウアーに和声学、レトヴィンカにピアノを師事。パウムガルトナーは、カラヤンの指揮者としての才能を認め、諸芸術・文化への見聞を広めるよう助言。人生最大の恩師となった(〜1926)。
1917 モーツァルテウム音楽院で初の公開演奏=ピアノ・リサイタルを行う。
1926 ウィーン工科大学に入学(後に退学)。併せてウィーン音楽アカデミーでホフマン教授にピアノを学ぶ。
ホフマンの勧めで同アカデミーの指揮科に正式入学し、ヴンデラー教授に師事。
1928 指揮クラスの発表会で、アカデミーのオーケストラを指揮し、ロッシーニ《ウィリアム・テル》序曲を演奏。
学生期間中は、ウィーン国立歌劇場へ毎日のように通う。
1929

1月22日、ザルツブルクでモーツァルテウム管弦楽団を指揮し、指揮者としての公的デビューを飾る(R.シュトラウス《ドン・ファン》、モーツァルトのピアノ協奏曲第23番、チャイコフスキーの交響曲第5番)。
ドイツ南西部のウルム市立歌劇場のオペラ指揮者に就任(~1934)。
ウルムにて初のオペラ指揮(モーツァルト《フィガロの結婚》)を行い、好評を得る。

1931 トスカニーニ指揮による《タンホイザー》を聴くため、ザルツブルクからバイロイトまで自転車(バイクとの説もある)で出かける。
1933 ザルツブルク音楽祭に初出演。
1934 アーヘン市立歌劇場の指揮者オーディションを受け、1年間試験採用される。
ザルツブルクでウィーン・フィルを初めて指揮(ドビュッシー、ラヴェル等)。
1935 アーヘン市の音楽総監督に就任。ドイツで最も若い総監督となる(~1941)。
1937 ウィーン国立歌劇場にデビュー(ワーグナー《トリスタンとイゾルデ》)。
1938

ベルリン・フィルを初めて指揮(ブラームスの交響曲第4番他)。
アーヘンのオペレッタ歌手、エルミー・ホルガーレーフと結婚(約3年で破綻)。
ベルリン国立歌劇場で《トリスタンとイゾルデ》を指揮。「奇跡の人カラヤン」と絶賛され、飛躍への大きな契機となる。
ベルリン国立歌劇場管弦楽団と生涯初のレコーディングを行う(モーツァルト《魔笛》序曲)。

1939 ベルリン・フィルと初の交響曲レコーディングを行う(通算7回の正規録音を行ったチャイコフスキー《悲愴》交響曲)。
1940 ユダヤ系のアニータ・ギュンターマンと結婚(58年に離婚)。
1945 第2次大戦終結後、ナチスとの関係からドイツ、オーストリアでの指揮活動を禁止される。
1946 ウィーン・フィルを指揮し、戦後初めて演奏会に出演(正式解除は1947)。
1947 EMIのプロデューサー、ウォルター・レッグからの契約申し込みを受諾。1960年までの間に、イギリスのフィルハーモニア管と数多くのレコーディングを行う。
1948 ウィーン楽友協会の芸術監督、ウィーン交響楽団の指揮者として活動開始。
ミラノ・スカラ座のドイツ・オペラ部門の総監督に就任。
1950 初のオペラ全曲録音を行う(ウィーン・フィル他との《フィガロの結婚》)。
1951 バイロイト音楽祭で初めて指揮するが、翌年音楽祭の主宰者ヴィーラント・ワーグナーと対立し、2度と戻らず。
1953 戦後初めてベルリン・フィルを指揮。
1954 単身来日し、NHK交響楽団を指揮(《悲愴》交響曲のライヴ録音が現存)。
1955 ベルリン・フィルを率いて北米ツアーを行い、大成功を収める。
これにより、フルトヴェングラーの後継者として芸術監督および常任指揮者に任命される。
ベルリン・フィルとは、以後34年に亘って膨大な公演と録音を行い、一時代を築いた。
1956 ザルツブルク音楽祭の芸術総監督に就任(~1960)。
ウィーン国立歌劇場の芸術監督に就任(~1964)。
1957 ベルリン・フィルとの初の日本ツアーを行い、全国で15回公演。
1958 フランス人モデル、エリエッテ・ムレーと結婚。
1959 ウィーン・フィルとの世界ツアーを行い、日本でも10回公演。
1960 長女イザベル誕生。
完全な形では初の映像作品、R.シュトラウス《ばらの騎士》を、ザルツブルク音楽祭にて収録。
1962 前年から同年にかけて、ベートーヴェンの交響曲全集の最初のステレオ録音を完成。
1964 次女アラベラ誕生。
オーストリア当局と対立し、ウィーン国立歌劇場のポストを辞任。
1965 映画フィルム・プロダクション「コスモテル」を設立。
1966 ベルリン・フィルとの2度目の日本ツアーを行い、東京ではベートーヴェンの全交響曲を演奏。
1967 自らの芸術的理想を実現するため、ザルツブルク復活祭音楽祭を創設し、芸術監督に就任。
ベルリンにヘルベルト・フォン・カラヤン財団を設立。
1969 パリ管弦楽団の芸術監督に就任(~1971)。
カラヤン財団主催第1回国際指揮者コンクールを開催(第1位オッコ・カム)。
1970 ベルリン・フィルとの3度目の日本ツアーを行い、大阪(万国博の記念公演)ではベートーヴェンの全交響曲を演奏。
1972 ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭を創設(翌年初回開催)。
優れたオーケストラ奏者を養成するためのオーケストラ・アカデミーを創設。
1973 ベルリン・フィルとの4度目の日本ツアーを行う。
1975 最初の椎間板の手術を受ける。
1977 13年ぶりにウィーン国立歌劇場へ復帰。
ベルリン・フィルとの5度目の日本ツアーを行い、東京では普門館の使用が賛否を呼ぶ。
1978 脳卒中で指揮台から落下。
1979 指揮活動50周年の祝典が行われる。
ベルリン・フィルとの6度目の日本ツアー行い、普門館で9回公演。
1980 最初のデジタル録音(ワーグナー《パルジファル》、モーツァルト《魔笛》)を完成。 
1981 ベルリン・フィルとの7度目の日本ツアーを行う。
1982 女性クラリネット奏者ザビーネ・マイヤーをベルリン・フィルの楽員として強硬に採用。楽団と亀裂が生じる。
1983 ウィーン・フィルとの関係を深め、同楽団の名誉指揮者に選ばれる(公表は1988)。
1984 ベルリン・フィルとの8度目の日本ツアーを行う。
1986 病に倒れ、ベルリン・フィルとのアメリカ&日本ツアーをキャンセル。日本での代役を小澤征爾が務める。
1987 ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートを初めて指揮。ソリストにキャスリーン・バトルを迎える。
1988 ベルリン・フィルとの9度目にして最後の日本ツアーを行う(3公演がCD化)。
1989

3月27日、ベルリン・フィルとの最後の演奏会(ヴェルディ《レクイエム》)。 
4月23日、ウィーン・フィルを指揮(ブルックナーの交響曲第7番)。生涯最後の演奏会となると同時に、併せて行われたレコーディングも最後となる。
4月24日、ベルリン・フィルのポストを辞任。
7月16日、ザルツブルク郊外アニフの自宅で急逝。81年と4ヶ月の生涯を閉じる。