BIOGRAPHY
GILES PETERSON / ジャイルス・ピーターソン
ジャイルス・ピーターソンは1989年からBBC Radio 1の人気番組『ワールドワイド』を放送しはじめた。このタイトルには、「地理的にも音楽ジャンルという意味でも、放送内容・音楽内容を地球規模にしよう」と言うオープンな姿勢を表している。この番組はイギリスで大々的に支持され、遠く日本(現在は放送されていません)、イスタンブール、ベルグレード、ニュージーランド、ナイジェリア、そして東と西ヨーロッパの各地でも放送されているに至った(現在世界11ヶ国で放送されている)のだが、始まりはなんと15才の時にエプソムダウンズの庭先から発信した自分の海賊ラジオ局だった。1983年、イギリスの海賊ラジオ社会は狭かったので、ロンドンの最もビッグな海賊ソウル・ステーション、インヴィクタにジャイルスはすぐに注目されるようになった。インヴィクタで活躍中のDJは皆ロンドンで発展しているダンス・シーンの精選された人達だったため、ジャイルスも自身を一流のラジオDJとして確立させるためにはここしかなかった。初めてのラジオ番組を確保すると同時にジャイルス・ピーターソンはクラブで自分の評判を築き上げていったのだった。1985年までにジャイルスは『Jazz Juice』などといったコンピレーション・シリーズをはじめとして、ブルーノート、プレスティッジやリバー・サイドといったレーベルと仕事をするようになった。ラジオ・インヴィクタ解散後、インヴィクタの後釜となったホライゾンそして1986年にはSolarに移っていった。ロンドン界隈ではラジオとクラブDJとしての地位も上がり、カルト番組『マッド・オン・ジャズ』を始めたBBC Radio Londonがすぐに彼を引き抜いた。しかし、ここでも予期せぬ不幸が。忠実なファンがいたにも関わらず、局に新しいプログラムコントローラーが加わり、GLRという名前に変更し、ジャイルスは止めさせられてしまったのだ。ロンドンのラジオDJ、デイヴ・ピアースがジャイルスにクラブ会場を紹介し、1986年にディングウォールズで毎週日曜日に行なわれるサンデー・アフタヌーン・クラブを始めた。昼から始まり、音楽はジャズ・ダンスミュージックからファンキーなレア・グルーヴまでと幅広く、ブラン・ニュー・ヘヴィーズ、ガリアーノ、インコグニートなどといった当時新人のバンドやロイ・エアーズ、デイヴ・パイク、スティーヴ・ウィリアムソンやコートニー・パインなどのジャズ・レジェンドのライブパフォーマンスも積極的に開催していった。アシッド・ハウスと発生期のレイヴ・シーンに火がつく頃、時を同じくしてジャイルスのサンデー・セッションも多くの人を集めた。ジャイルスはアシッド・ジャズ・クラバーとUKクラブカルチャーのジャズ・ファンクやヒップホップのルーツを忠実に支持している人達とのギャップを埋める役割を果たしたといっても過言ではない。その結果、他のDJと一味差をつけた折衷的なセットで高い評価を得たのだ。1990年名レーベル、トーキングラウドを設立しインゴクニート、ガリアーノ、ヤング・デザイプルズ、4 HERO、ロニ・ザイズ、MJ COLEなどといった素晴らしいアーティスト達を多く輩出し、時代を作ってきた。時代と共に動き、変化できるジャイルスは今後もずっと尊敬され続けていくに違いにない。