ショパンの作品で知られる「ノクターン(夜想曲)」。たゆたうようなリズムにのって美しいメロディが奏でられるノクターンは、アイルランド出身の作曲家ジョン・フィールドが19世紀初頭に初めて作曲しました。1782年に生まれたジョン・フィールドは、20歳から住んだサンクトペテルブルクでピアニストとして人気を博し、ロシア貴族の間では「フィールドを知らないことは罪悪」と言われたほどでした。1812年にノクターン第1番から第3番を出版し、フランツ・リストは彼の作品を絶賛。フィールドのノクターンの楽譜校訂を手掛けるなど、彼の作品普及に尽力しました。
デッカから初めて発売されるフィールドのノクターン全集は、全18曲を86分超という長時間ディスク1枚に初めて収録したもので、演奏は韓国系アメリカ人ピアニスト、エリザベス・ジョイ・ロウが務めています。ショパンやリスト、さらにはメンデルスゾーン、シューマン、リスト、グリーグらロマン派の作曲家たちに大きな影響を与えたジョン・フィールド。ノクターンの美しい響きにしばし耳を傾けてみてはいかがでしょうか。
アルバム発売を記念して、音楽ライター・高坂はる香氏によるWEB連載「フィールドを聴こう!」がスタート!5回に分けて、フィールドのノクターン全18曲の聴きどころをアップしていきます。
エリザベス・ジョイ・ロウ『フィールド:ノクターン全集』
2016/5/18発売
<はじめに>
ジョン・フィールドがアイルランドに生まれたのは、1782年。ベートーヴェンが生まれた12年後、そしてショパンが生まれる28年前のことだ。同年生まれにはロッシーニがいる。フィールドは、そんな古典派からロマン派へ移り変わる時代に活躍した。 弟子入りしたクレメンティのもと、ヨーロッパ各地で演奏旅行をして名声を得たフィールドは、20歳でサンクトペテルブルクに移る。この地で人気を博し、19世紀前半のロシア貴族の間では “フィールドを知らないことは罪悪”とまで言われた。当時ロッシーニなどのイタリア・オペラが大人気だったこともあり、フィールドのベルカント唱法を模したような美しいノクターンのメロディは、人々に広く愛されたのだった。 フィールドが影響を与えたロマン派の作曲家は、よく知られているショパンだけではない。例えばリストはフィールドのノクターン集の楽譜の校訂を手掛け、その序文で「多くの作品が廃れてゆく中で、フィールドのノクターンは若々しい気品を保っている。発表から36年後の今も、芳しい新鮮さと豊かな香りを有している」と絶賛している(今回のロウのアルバムは、リストが校訂を手掛けた版による演奏を収録)。ちなみに、有名な「愛の夢」の副題は「3つのノクターン」だ。 ショパンはもちろんフォーレなど、影響を与えたと思われる後世の作曲家による作品を思い浮かべながらフィールドのノクターンを聴くのも、おもしろいだろう。
<最終回>第15番〜第18番 (2016.6.15 UP) NEW!!
ノクターン第18番 ヘ長調 モルト・モデラート
ところどころリズムに趣向を凝らしたメロディが流れ、心地よさの中に程よい刺激がある。後半、突然舞曲調のフレーズがスパイスのようにはさまれたり、和音で奏される高揚する気持ちを表現するようなフレーズが現れたりする部分は、終わりを迎えようとするものの最後のきらめきのようにも感じられる。最後は再び穏やかなメロディが戻って、静かに閉じられる。
ノクターン第17番 ハ長調 モルト・モデラート
一スタカートで奏される軽快な音をはさみながら、明るく転がるような複数の声部が交差する。中間部は、瀟洒なハーモニーの上で繊細なメロディがテンポを揺らしながら流れてゆく。コーダ部分は左手が励ますように跳ねて、優しいメロディを装飾する。 こちらもフィールドの健康状態がかなり悪化していた最晩年の作ながら、幸福感漂う世界が広がっている。
ノクターン第16番 ハ長調 モルト・モデラート
短い序奏に続き、可憐な輝きを持つメロディが奏でられ、変化に富んだハーモニーが、くるくると音楽の表情を変えてゆく。気まぐれに感情的になったかと思えば、再び穏やかで柔和な表情を見せる。フィールドのノクターンの中でも、約9分半ともっとも長い作品で、動きのある意外性に富んだ展開を持つ。最晩年の作品の一つ。
ノクターン第15番 ニ短調《無言歌》レント
「無言歌」と名付けられたこのノクターンは、実に感傷的なメロディで始まる。しかし一転中間部はニ長調となり、どこか不安な要素を残しながらも弾みをつけて前進するような音楽が展開する。最後は再び物憂げな音楽が戻り、胸の内を切々と歌い上げ、テンポをたっぷりとためて静かに閉じられる。
<第4回>第11番〜第14番 (2016.6.09 UP)
ノクターン第14番ト長調 レント
ノクターン第14番は、1832年12月のパリでの演奏が賛否を巻き起こしたピアノ協奏曲第7番第1楽章の間奏曲にも使われている。ノクターンとして出版されたのは1834年。左手が32分音符でなめらかに上下するアルペジオを奏でる手法は、後世のロマン派の作曲家たちに大きく影響を与えた。ショパンの「アンダンテ・スピアナートと華麗なるポロネーズ」の序奏部分は、この作品から大きな影響を受けたといわれる。
ノクターン第13番 ハ長調《夢の夜想曲》トロイメリシュ
一転、第13番は夢幻的な美しい作品。“夢見るように”という指示のもと、漂うような高音のフレーズの下で低音のあたたかいメロディが奏でられ、とろけるようなハーモニーを生み出す。まるで、まどろみのなかで見る色鮮やかな夢のよう。シンプルな音楽の中に、フィールドの独創的な感性が光る。
ノクターン第12番 ホ長調《性格的夜想曲:真昼》アレグロ
出版社が作曲家の意図に関係なく曲に標題をつける例はよくあるが、この作品のケースはなかなか大胆だ。
ノクターン第12番とされているこの作品は、もともと1810年頃、“弦楽四重奏を伴うディヴェルティメント”として作曲されたロンド形式の楽曲。ピアノ独奏曲として1832年に出版する際、出版社が「性格的ノクターン」と名づけ、さらには軽快な曲想に合わせて「Midi(真昼)」という標題も加えた。結果、“真昼の雰囲気を持つ夜想曲”として、夜想曲の一つに数えられるようになった。
このような例があることに加え、フィールドのノクターンは出版のたびに順番や番号が変更されているので、彼がノクターンとして全部で何曲を書いたのかは、はっきりわかっていない。
ノクターン第11番 変ホ長調
これも晩年に出版された作品。寂しげに旋回する印象的な三連音によるフレーズで始まり、続けて右手で繊細な歌が歌われる。力強さを増し、オクターブでメロディが奏される部分を経て、水面が揺らぐ様を描くような透明感ある音楽とともに、音楽は明るく閉じられる。
<第3回>第7番〜第10番 (2016.6.01 UP)
ノクターン第10番 ホ長調《ノクテュルヌ・パストラーレ》アンダンテ・コン・モート
「田園風(パストラーレ)」というタイトルの通り、牧歌的で穏やかなメロディが姿を変化させながら歌われる作品。伴奏型が16分音符の和音で刻まれる中間部はメロディも影を帯び、つかの間、風向きが変わるかのよう。再び平穏なメロディが戻ったあとも、さまざまな伴奏型が現れるなどして変化に富んだ表情を見せる。 フィールドが50代を迎え、病の治療をうけながらゆっくりと創作を行うようになった頃に出版された作品。
ノクターン第9番 ホ短調 アダージョ
ノクターン第4番は、フィールドの活動が絶頂にあった1817年ごろに作曲された。一連のノクターンの中でも傑作とされる作品のひとつ。 薄日がさすようなほのかな明るさを持つ冒頭のメロディが、たゆたうような伴奏形の上で、装飾を施されて色鮮やかに変化してゆく。一息おいてから始まる中間部はテンポが速まり、感情があふれだす。穏やかな主題が戻ったあと、はかなげに音楽が閉じられる。
ノクターン第8番 変ホ長調 アンダンテ・スピアナート
あたたかみのあるゆったりとした旋律、伴奏形、変ホ長調という調性から、ショパンがノクターン第2番を書く際にこの作品から大きな影響を受けたであろうことを感じる作品。抒情あふれるメロディからはまるで言葉が聞こえてくるよう。 フィールドの中の純粋な魂は、すべて音楽に昇華しているのではないかと思えるような、ピュアで可憐な美しさを持つ。
ノクターン第7番 イ長調 アンダンテ
ノクターン第7番と第8番は、1815〜16年ごろに作曲された。当初は「ロマンス」のタイトルで出版されたが、1835年に作曲家自身によってノクターンに改題された。 第7番は複数の歌い手による重唱のように、やわらかな旋律が絡み合う作品。月の明るい穏やかな春の夜を思わせる。なめらかなレガートによる輝くようなフレーズが随所に現れる。こうした奏法が可能になった当時の新しいピアノの機能を存分に生かして書かれた作品。
<第2回>第4番~第6番 (2016.5.25 UP)
ノクターン第6番 ヘ長調《子守歌》アンダンテ・トランクィッロ
ショパンも影響をうけたであろうことが感じられる甘美な旋律が魅力のノクターンで、子守歌という副題がつけられている。旋律は、やわらかなベルカントで歌われるよう。左手の分散和音によって表現される陰影の変化が、移ろいゆく静かな夜の空気感を思わせる。 このノクターンはのちにピアノ協奏曲第6番の第2楽章にも使われた。
ノクターン第5番 変ロ長調 カンタービレ
冒頭から登場する、浮遊するような幻想的なメロディが魅力。親しみやすい旋律が優しく歌われる中で、両手の和音がスタカートで旋律を奏でるリズミカルなパートがはさまれ、変化に富んだ音楽が展開する。フィールドの繊細な感性がよく現れている。 第4番と同じ頃に書かれ、フィールドのノクターンのうち最もよく知られている作品。
ノクターン第4番 イ長調 ポーコ・アダージョ
ノクターン第4番は、フィールドの活動が絶頂にあった1817年ごろに作曲された。一連のノクターンの中でも傑作とされる作品のひとつ。 薄日がさすようなほのかな明るさを持つ冒頭のメロディが、たゆたうような伴奏形の上で、装飾を施されて色鮮やかに変化してゆく。一息おいてから始まる中間部はテンポが速まり、感情があふれだす。穏やかな主題が戻ったあと、はかなげに音楽が閉じられる。
<第1回>第1番~第3番 (2016.5.18 UP)
ノクターン第3番 変イ長調 ウン・ポーコ・アレグレット
第3番は、前2曲に比べて伴奏形やメロディの展開が複雑化し、4声で書かれている。冒頭に現れるテーマが優美な装飾を施されながら、ふくらみを増してゆく。時折調を変えて奏される部分が、穏やかに変化する優しい色彩の音楽の“さし色”となる。鮮やかなコーダ部分は、最後pppの和音とともに静かに終わる。
ノクターン第2番 ハ短調 モデラート・エ・モルト・エスプレシーヴォ
第2番は、切なさを必死に抑えながらも少しずつ吐露してゆくような、悲しげな作品。三連音の伴奏のうえで甘い旋律が歌われるところは第1番と同様だが、時折急速なパッセージが現れ、ドラマティックな雰囲気を醸す。はかなげなコーダ部分は、氷のように繊細で美しいガラス細工を思わせる二つの和音で閉じられる。
ノクターン第1番 変ホ長調 モルト・モデラート
1802年、クレメンティとともにロシアのサンクトペテルブルクを訪れたフィールドは、師が去ったあとも同地に留まり、演奏家、ピアノ教師として人気を集めた。最初のノクターンが出版されたのは、それから10年後の1812年。第1番から第3番までがまとめて出版された。
ノクターン第1番は“ノクターンの原型ここにあり”という、シンプルな美が堪能できる作品。三部形式ながら中間部の変化もごく繊細なもので、三連音の伴奏にのって優美な旋律が、控えめな装飾を施されながらひたすら穏やかに歌われる。
<おわりに>
破滅型の私生活を送った芸術家の例は挙げればきりがないが、フィールドほどその困難を極めた生き方と作品のイメージがかけ離れている作曲家はいないだろう。
少年時代からやり手の商売人クレメンティのもとで厳しい生活を送ったことへの反動だろうか。師から自由になって定住したサンクトペテルブルクでは、浪費癖や飲酒習慣が悪化の一途をたどった。結婚しても妻との関係はうまくいかず、ほどなく別のフランス人女性との間に子供をもうけ、その後正妻との間に子供を持った。晩年はアルコール依存症が進んで人が離れていったうえ直腸癌も患い、苦しい生活を送ったが、死の1年前までピアニストとしてステージに立った。
心地よい伴奏型の揺れ、思いがけず現れる転調やリズムの変化、柔らかく混ざり合うハーモニー、そして耳なじみの良いメロディ。まっすぐな優しさと繊細な美しさを持つフィールドのノクターンからは、その人生から連想される闇のようなものはほとんど感じられない。ほのかな悲しみは見え隠れしても、そこに屈折したものが見えないのは不思議なくらいだ。
フィールドが作曲家人生にわたって書き続けたノクターンは、彼の複雑な精神の、美しいうわずみの部分だけがすくいとられて生まれたものなのかもしれない。