BIOGRAPHY

DIRTY PRETTY THINGS


Dpt
カール・バラー (Lead Vocals & Guitar)
ディズ・ハモンド (Bass)
アンソニー・ロッソマンド (Guitar)
ゲイリー・パウエル (Drums)

ウォータールーからロサンゼルスへ。ブラジルからイタリアへ。オックスフォードのゾーディアックからテキサスのSXSWへ。(ロンドンの)ランベス・ロードからグラスゴーへ。最近のカール・バラーは長旅続きだ。彼には足を使って仕事をする必要があった。形がまとまりはじめた新しいロック・バンド、洗練され、かつ粗さも出されたフレッシュな曲、そして葬らなければならない過去があったからだ。バラーの新しいバンドの始まりは、前のバンドの終わりよりも、ずっとすっきりとしている。ダーティ・プリティ・シングスには、音楽、プレイ、興奮、仲間意識の他は何もない。すべてがその言葉通りでなければならなかった。


「昔からずっと曲で物語を語るのが好きだったんだ」と語るバラー。彼は “ラスト・オブ・ザ・スモール・タウン・プレイボーイズモの背後にあるインスピレーションについて話してくれた。彼がダーティ・プリティ・シングスのために書いたこれまで以上に冒険心溢れる曲のひとつで、スリー・パート構成になっている曲だ。「俺が狙っていたカンジは、特に怒りながら運転しているときに、車のフロントガラスを叩きつけるかのように降り注ぐ雨だったんだ」。人々の耳に届く前にこの曲について多くを語ってもいいものか、彼は確信が持てずにいた。だが、彼は「この曲は、イギリスの現状を基にした観察結果なんだ」と言うだろう。

「物語は俺のボキャブラリーの一部なんだ」と彼は続けた。「そして、イギリスこそ、俺をインスパイアするものなんだよ。たとえ、それが単に感覚的であるにしてもね。曲によってはただ君にアイデアを与え、それが君を違う場所に連れていってくれるんだ」

同様の旅心は “ザ・ジェントリー・コウヴ” にもうかがえる。「あれは海の男の曲で、旅の物語なんだ」と彼は言う。「明らかに、コウヴは人物であると同時に入り江も意味している」と、込められている意味はたくさんあることを彼は教えてくれた。それが音楽にも反映されているのだ。スカのビートに、水夫が作業中に歌うはやし歌のゆったりした流れと疾走するパンク的なクライマックスが入っているように。

しかし、同時に、バラーによれば、彼は家にいるときのような日常生活でもインスピレーションを受けるそうだ。「寝室でぼーっとすることや、映画を見ることからね。うろうろしたり、古い本をチェックしたり、まわりに目を配ることからも・・・」つまり、周囲を飛び交うホットな最新ゴシップを冷静に眺めることからもインスピレーションを受けるようだ。

ダーティ・プリティ・シングスのファースト・シングル、 “バン・バン・ユア・デッド” を考えてみよう。「俺にはずっと解っていた でもそんなことを信じたくなかった お前が紡ぎあげる言葉の罠には 恨みと怒りと嘘しか存在しない、なんて」 と快活なバックビートにのせてバラーは歌っている。

「この曲を書いたのは、バンドの結成前だった。過去をじっくり振り返ることについての内省的な曲なんだ。チェ、チェ、チェ、チェンジズについての歌なんだよ」と彼は微笑む。「ここにはたくさんのことが込められている。ザ・リバティーンズの解散についてだけじゃないんだ。誰かひとり、あるいはひとつの事やひとつの意見について具体的に言っているわけではない。人生の過ぎ去ったある時期をじっくりと考えてみることについての曲なんだ。悲しい曲ではあるけれど、楽観的なエレジーだよ」

2005年の大半を、カール・バラーはおとなしく過ごしていた。そうすることが必要だった。彼は、人目を避け、充電し、過去を振り返り、未来に目を向けなければならなかった。おそらく、その間に彼は曲作りができたのだろう。

その前の2, 3年ほどは劇的だった。ザ・リバティーンズは2002年の英国音楽界で大ブレイクしていた。革ジャンで固めたメンバー、同志としての結束、ファンとの絆、そして都会人のDNAを持ったパンク・ナンバー。ピートとカールが並び立つライヴはファンには見逃せないものだった。イギリスについて歌った彼らの曲、ジーンズにペンで手書きされたスローガン、彼らのアパートでのギグ、心の中のロマンス。新曲ができるとすぐに、彼らにその曲を歌い返してくれるようなファンもいた。新しい世代が愛し、分かちあう、アルビオンとアルカディアという理想郷の夢をみたのだった。

それはまるで、どんどん上昇していくものの、時々目が回るほど急降下するジェットコースターに乗っているかのようだった。そして間もなくその目眩がするほどスリリングで尋常ではない勢いが、歯車を軋ませだした。ザ・リバティーンズのセカンド・アルバムの制作では、意見と個性とライフスタイルが衝突。その混乱状態は素晴らしい曲をなんとか作り出したが、深刻な亀裂を生じさせた。2004年の夏になり、アルバムがリリースされる頃には、ピート・ドハーティが活動から離れ、カール・バラーはひとりでザ・リバティーンズの旗を掲げざるをえなくなった。

「音楽に対しても、ファンに対しても、自分には責任があるように感じていた」と、ドハーティ抜きのツアーを決意したことについてバラーは語った。「俺にとって、ライヴでプレイする価値のある曲だったんだ。あらゆることをやり抜いてアルバムを作ったのに、それをプレイできなかったらひどいじゃないか。俺は誰かの気まぐれで諦めたくなかった。それで、うん、責務があると思ったんだ」彼は一呼吸置き、にやっと笑った。「それに、俺たちは日本人から訴えられていたかもしれないし」

バラーはザ・リバティーンズの残りのメンバー、ゲイリー・パウエル(ドラムス)、ジョン・ハッサール(ベース)、及び代役のギタリスト、アンソニー・ロッソマンドと共に、約半年のワールド・ツアーを敢行した。

「はじめはとても難しかったよ。ピートとのあらゆる出来事が僕をすっかり打ちのめした。だけど、だんだんやりやすくなった」

それにもかかわらず、2004年12月、パリでツアー中のザ・リバティーンズをバラーが解散するまで、彼の中ではさまざまな感情が交錯していた。「ああ、俺はほっとしたよ。でも、あれは辛く・・・、悲しく・・・、残念なことだったな。立ち止まって、状況を解決する時だったんだ」

正気とは思えない人々をますますたくさん引き寄せる寸前だったのを、彼は知る由もなかった。2005年1月、ピート・ドハーティとケイト・モスに関する最初の記事が出回りはじめた。ふたりの関係とそれに絡むあらゆることが、その年末まで新聞を賑わせた。バラーは注意深く、巻き込まれるのを拒んだ。しかし、ドハーティのかつての盟友が何ら貢献しなくとも、あらゆる種類の憶測や告発が溢れた。

「ずっと攻撃され続けているときに反応せずにいるのは難しかったよ」とバラーはため息をついた。今でも、彼はその件について話したくないのだ。「タブロイド紙に載った彼らの記事については気にしていなかった。でも、裏へ追いやられ、酷評されるのはきつかったよ。それに、ザ・リバティーンズの名前がいつも引き合いに出されるのを見たくなかったし。表立って争うこともできたけど、ひどい言いがかりについて言い争いたくなかったんだ」

それでも、そのことが彼を音楽業界のリングの上に復帰する意欲を削ぐことはなかった、と彼は強く言った。それとはまったく逆だった。

「俺の意気込みはまだ昔のままだった。俺は別の道を進みたかった。やりたかったのはバンドで、報道合戦に巻き込まれたくなかったんだ。俺が続けたかったのは音楽であって、他の馬鹿げたことじゃない。独り善がりに聞こえなければ、それが俺の葛藤だったと言える」と彼は笑った。

少しずつ、カール・バラーはダーティ・プリティ・シングスをまとめ上げた。彼は自分のウォータールーのアパートで曲作りに長い時間をかけた。 “バン・バン・ユア・デッド” 及び “デッド・ウッド” は、「やり残したことを片づけ、長く苦しい試練の後で生産的になった気がする」この時期になって早々にできあがった。彼はこの2曲を、当時クーパー・テンプル・クロースのベーシストだったディズ・ハモンドに聴かせた。レディング・フェスティバルで初めて出会った彼らは、ドイツで再び同じ会場でライヴをした。ドハーティはドイツにやって来なかったため、ディズが参加。こうして彼とバラーは固い友情を育んだ。タブロイド紙上で騒がれている間、ディズはバラーが肩の荷を降ろせる人物でもあったのだ。

ゲイリー・パウエルとアンソニー・ロッソマンドはすでにバンドのメンバーだった。「俺はザ・リバティーンズでたくさんのいいパートナーができたよ」とバラーは語る。ダーティ・プリティ・シングスがライヴでザ・リバティーンズの曲をプレイするように、彼がドラマーとギタリストと進行しているこのコラボレーションは「俺は自分たちが達成したあらゆることをシャットアウトしない。誇りに思えることはたくさんある」ということを示している。

新しいバンドは、昨秋、ザ・リバティーンズ・マニアからは遠く離れ、観客がバラーの新たなバンド・メンバーと新曲を公平に評価してくれるであろうブラジルとイタリアでライヴを開始。

11月、プロデューサーのデイヴ・サーディ(オアシス、JET)と共にデビュー・アルバムの制作を始めるために、彼らはロサンゼルスに行った。「新しい環境に身を置くのは良かったよ」

6曲が完成すると、ダーティ・プリティ・シングスはトニー・ドゥーガン(ベル&セバスチャン、モグワイ)とレコーディングするためにグラスゴーへ。

「あれは、自分たちが書いた曲をそのまますぐにレコーディングする以上のものだったよ。俺たちは9月にバンドを結成したばかりで、することはまだ山ほどあった。トニーはデイヴよりももっと気軽で、それがよかったよ。俺たちには息をつく余地が必要だったんだ。それに、LAから行くと、グラスゴーはいい意味で期待はずれだったよ。LAでは、ロンドンのように、毎晩気が散るようなことがある。でも、グラスゴーでは、誰も俺たちを邪魔しなかったんだ」

こうしてアルバムは完成した。緊迫感溢れる新曲を多数もつダーティ・プリティ・シングスは、すでにバンド初のソールド・アウト全英ツアーやアメリカでのデビュー・ライヴとなるテキサス州オースティンで行われた3月のSXSWフェスティバルといった場所で、その引き締まった、ハングリーで、溌剌とした曲を披露している。

“ジ・エネミー” にあるのは、バラーがディスコ・ビートと表現するものと「とても重層的なコーラス。敵は僕の頭の中に存在している。これもまた “気づき” の曲なんだ」。 “ユー・ファッキング・ラヴ・イット” は疾走感のある強いリズムのパンク・ロック・ナンバーで、「いかがわしいセックス産業」についての曲。ソーホーにある公衆電話ボックスに貼られた「風俗嬢」のピンクチラシから彼はアイデアを得た。「歩き回ると、こういうものに出会うんだ」とのこと。 “イフ・ユー・ラヴ・ア・ウーマン” はさらにきわどい曲だ。「ある点で、これは配偶者による暴行についてなんだ」とバラー。「自分の愛するものを滅茶苦茶にすることについて」、そこに暗喩的な意味があるのかどうかについては、彼は今の段階では言っていない。

ダーティ・プリティ・シングスとカール・バラーの再デビューを歓迎していただきたい。彼はしばらく表舞台から姿を消していたし、痛い目にもあってきた。しかし、今、彼は戻ってきた。それも絶好調で。

「今はあらゆる騒動に対してある意味で無感覚だ」と彼は考えている。「ザ・リバティーンズに起こったことは残念だけれど、俺は今自分にあるものに満足している。そしてそれが前進するための賢い道なんだ。俺は亡霊と格闘してしょっちゅう動揺していたくない。俺はずっとやりたかったことをやり続けたいんだ。いくつかの間違いも犯した。でも、当時はまだ新人だったから」と彼はニヤリとする。「でも俺も学んできたんだよ・・・」

ダーティ・プリティ・シングスのデビュー・アルバムのタイトルはもう決まっているのだろうか?

「ああ。『ウォータールー・トゥ・エニウェア』(ウォータールからどこへでも)さ」

2006年3月