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レナード・バーンスタイン生誕100年!
レナード・バーンスタインを読み解くキーワード
アメリカ
アメリカ人初のニューヨーク・フィルの音楽監督であり、アメリカで生まれ育った史上初の大指揮者でもある。世に出たきっかけも、急病のワルターの代役で急遽ニューヨーク・フィルを指揮し、それがラジオ中継されていたため。これも1つのアメリカン・ドリームだ。作曲家としての代表作《ウェスト・サイド・ストーリー》もニューヨークが舞台。1970年代以降、ヨーロッパを中心に活躍したとはいえ、アメリカン・ヒーローのイメージはすこぶる強い。
マルチ
指揮者のみならず、作曲家、ピアニストとして活躍したマルチな“音楽家”。加えて、テレビ解説者、著述家、教育者、平和運動家でもあった。しかも指揮者としては、カラヤンと人気を二分する20世紀屈指のスターであり、作曲家としては、かの《ウェスト・サイド・ストーリー》や《キャンディード》等のミュージカル、3つの交響曲ほか多彩な作品を生み出し、没後はシリアスな作品の演奏機会も急増。協奏曲や歌曲の伴奏などピアニストとしての名盤も少なくない。どれか1つだけでも常人が及ばぬ業績……まさしく超人だ。
ニューヨーク・フィル
1957年首席指揮者、1958年音楽監督に就任し、1969年までポストを務めた同楽団は、彼にとって、数少ない(実質的に唯一ともいえる)手兵。CBSに膨大な録音を行い、「ヤング・ピープルズ・コンサート」でもインパクトを与えた。さらに退任後も終身桂冠指揮者として関係を継続。ドイツ・グラモフォンにマーラー、チャイコフスキー等の録音を行い、日本ツアーでも共演を続けた。ちなみにシェフ在任12年は、当時の同楽団における最長タイ記録。在任当時のダイナミックで溌剌とした演奏を好むファンも少なくない。
ウィーン・フィル
ニューヨーク・フィル退任後のメイン・パートナーとなったのが、この名門オーケストラ。1966年《ファルスタッフ》を指揮してウィーン国立歌劇場にデビューし、デッカに《大地の歌》とモーツァルト作品を録音して以来、親密な関係を築いた。グラモフォンに、ベートーヴェン、ブラームス、シューマンの交響曲全集、ハイドン、モーツァルトの交響曲集など、王道レパートリーの名盤を残している点も、パートナーシップの強さを証明している。本人いわく「並外れて優れたオーケストラであるだけでなく、非常に感受性の鋭いオーケストラ。彼らとは特殊な共感や敬意がある」。
イスラエル・フィル
ユダヤ系の彼が最も長く関係を続けたオーケストラ。1947年から亡くなる1990年まで桂冠指揮者の立場にあった。自作の交響曲3曲や、メンデルスゾーン、ストラヴィンスキーなどドイツ・グラモフォンへの録音でも、“世界一の弦”といわれる個性を知らしめ、1985年の日本ツアーでは、マーラーの交響曲第9番で伝説的な超名演を残した。
マーラー
特別な存在となった作曲家。“ユダヤ系で、著名指揮者にして作曲家”という共通点があり、作品に関しても「私自身が書いたように思われる」と語っている。その共感にあふれた濃密かつ激烈な表現は並ぶ者なし。1960~70年代の最初の交響曲全集はマーラー普及の礎となり、1980年代の2度目の交響曲全集は不滅の音楽遺産となった。また1979年10月、ベルリン・フィルと唯一の共演を行った際の演目もマーラーの交響曲第9番。このライヴ録音も話題を呼び、ニューヨーク・フィルや前記のイスラエル・フィルとの日本ツアーでの名演も語り草となっている。
ウェスト・サイド・ストーリー
作曲家としての代表作にしてミュージカル史に輝く不朽の名作。1957年に制作され、破格のロングランを記録。1961年には映画化されて世界に普及した(映画は10部門でアカデミー賞を獲得したが、映画版に直接関与しなかったバーンスタインは受賞していない)。また後に編曲された「シンフォニック・ダンス」も頻繁に演奏されており、1984年に自身の指揮で録音した全曲盤も、リハーサルの映像と併せて話題を呼んだ。何しろ本作は名曲・名旋律の大宝庫。これ一作で歴史に名を残せたとさえ思えるが、本人は、「ウェスト・サイド~の作曲家」のイメージを払拭して、「シリアスなクラシック作曲家」たることを望んでいた。
ジャンプ
晩年は落ち着いたものの、その指揮はオーバーアクションで知られ、“指揮台上のプレスリー”(プレスリーは、激しい動きで名高い伝説的ロック&ポピュラー歌手)と呼ばれていた。実際、1970年のニューヨーク・フィル日本公演で見た時には、動きも激しく、たびたびジャンプ(しかもかなり高く)していた。ただ、これはもちろん強い感情移入の表れだろう。
ライバル
ライバルといえば当然カラヤン。ただし、当人同士の確執があったか否かは定かでなく、バーンスタイン自身は「人々の話とは逆で、互いに嫌悪し合ったということは一度だってありません」と述べている。そもそも彼は1958年にカラヤンをニューヨーク・フィルに招いているし、1988年に対面した際には、カラヤンから同じ演奏会で指揮台を分け合おうとの提案を受けたという。しかもそれをウィーン・フィルの日本公演で行う計画もあったとか……。直後の二人の逝去で実現不可能になったのが惜しい!
日本
1961年、1970年、1974年、1979年にニューヨーク・フィル、1985年にイスラエル・フィル、1990年にロンドン交響楽団を率いて来日。このほか1985年に「広島平和コンサート」を指揮している。さらに、1990年から札幌でパシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)を開始(直後に逝去)。これら全てで強いインパクトを残した。また、小澤征爾をニューヨーク・フィルの副指揮者に採用して日本ツアーにも同行させたほか、佐渡裕、大植英次、さらには大野和士や広上淳一など、数々の日本人指揮者が彼の薫陶を受けている。
タバコと酒
ヘビースモーカーで有名。何しろ14歳でタバコをおぼえ、35歳の時に肺気腫の診断を下され、医者に「もし生きていたかったら、すぐに止めるべき」と言われた。しかし晩年まで1日5箱(100本!)も吸っていたし、スナップ写真を見ると、かなりの確率でタバコを手にしている。お酒も大好きで、毎日ウイスキー(ピュア・モルトが好み)をボトル1本飲んでいた。この無頼ぶり(?)がなければ、もっと長生きできたとも思えるが、止めたら活動に支障をきたしていたかも……。
レニー
バーンスタインは、“レニー”の愛称で親しまれた。活動自体が人間愛にあふれていた上、例えばホールの守衛にも親密に接するなど皆を愛し、皆に愛された。カラヤン、バーンスタイン双方の弟子だった小澤征爾も、「カラヤンから『“ヘルベルト”と呼んでくれ』と言われても、しっくり来ないのだが、バーンスタインは“レニー”と呼べるし、カラヤンから誘われると緊張する食事も、バーンスタインから誘われると嬉しかった」との旨を述べている。
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