BIOGRAPHY
CHILDREN OF BODOM
CHILDREN OF BODOMについて、まだ言うべきことは何か残されているだろうか?
彼らには曲もテクニックも揃っている、ということか?彼らのやっていることに近いことが出来るバンドはほんのわずかである、ということだろうか?
あるいは彼らは芸術の域に達しているということだろうか?
1997年のデビュー・アルバム『SOMETHING
WILD』で世界的な名声を掴んだ彼ら。あれから8年かそこらで彼らは”フィンランドの驚異的なバンド”から、メタルシーンではすっかりおなじみの存在となった。
もちろんそれは、非常に質の高い彼らの激烈な楽曲と、欠点など見いだせないプレイのおかげだ。
間違えるな!CHILDREN OF
BODOMは遊んでいる訳ではない。彼らは息の根を止めるためにやってきたのだ。1993年にフィンランドのエスプーで結成されたこの若きフィンランド人のバンドは、彼らの出身地及びフィンランドの犯罪史上、最大級の謎と言われる殺人事件: ボドム湖殺人事件からその名を取った。スラッシュ・メタル・バンドとしてスタートを切った後、結成メンバーのアレキシ・ライホ(g/vo)、ヤスカ・ラーティカイネン(ds)、ヘンカ・セッパラ(b)、アレクサンダー・クオッパラ(g)は、古典的なヘヴィ・メタルの要素が自分達の音楽の中に入り込んでいることを自覚した。キーボードのヤンネ・ウォーマンを迎え、顔ぶれが揃った彼らは昔風のブラック・メタルと古典的なヘヴィ・メタル、そしてデス・メタル風のヴォーカルを、このジャンルでは1、2を争う鋭い演奏と組み合わせ、スタジオに入ってデモ・テープをレコーディングする。
1996年後半Spinefarm RecordsはCHIDREN OF BODOMの「Deadnight
Warrior」のデモを受け取り、 即座に自分達が手にしているものの価値を悟った。「Deadnight
Warrior」を3回プレイした後、バンドは契約を手にし、攻撃の準備を始める。
バンド名と同名のデビュー・シングル「Children Of Bodom」はあっという間にフィンランドのチャートで1位を獲得し、
プラチナを獲得。さらにデビュー・フルレンス・アルバム『SOMETHING
WILD』が1997年にリリースされると、フィンランドのメタル・シーン全体が彼らの前にひざまずくこととなる。 CHILDREN OF
BODOMは11月にヘルシンキで行われたDIMMU BORGIRのコンサートのサポートを務め、
マスコミからフィンランドのメタル・シーンの新たな帝王という称号を奉られた。 ヨーロッパ中部を対象にNuclear
Blastとの間でライセンス契約が即座に結ばれ、さらに日本とタイにおけるリリースがこれに続いた
あっという間にCHILDREN OF BODOMはヨーロッパ中を飛び回ることとなり、
その一方で新曲を書き上げる。これが1999年2月にリリースされた『HATEBREEDER』アルバムだ。
『HATEBREEDER』で彼の音楽はその真の姿を現すこととなる: より早く、よりヘヴィで、『SOMETHING
WILD』よりも多様性を持つアルバム。『HATEBREEDER』に先駆けてリリースされたシングル「Downfall」
(フィンランドのスラッシュ・メタルのパイオニア、STONEの曲「No
Commands」のカヴァーも収録)はゴールドを獲得し、フィンランドのチャートを支配した。
1999年の夏の間ずっと、CHILDREN OF BODOMはフィンランド及びヨーロッパを回った。 6月には日本で、DARK
TRANQUILITY、SINERGYと共に3日間ソールド・アウトとなるライヴを行い、 究極のライヴCD『TOKYO
WARHEARTS - LIVE IN
JAPAN』を収録する。たった2枚しかアルバムを出していないのに、ライヴCDを出すとは早すぎる、
と思う人もいるかもしれないが、この『TOKYO WARHEARTS - LIVE IN
JAPAN』はその人達がいかに間違っているかを証明している! 『TOKYO WARHEARTS - LIVE IN
JAPAN』はヨーロッパでは10月に限定盤デジブック・エディションとして2万枚がリリースされ、殆どあっという間に売りきれとなった。
バンドを取り巻く騒ぎはさらなる高みへと到達しようとしていたのだ。
再びスタジオへ戻る前に、CHILDREN OF
BODOMのギタリスト/ヴォーカリストのアレキシ・ライホは時間を見つけて、SINERGYのアルバム『TO HELL AND
BACK』のために曲を書き、レコーディングにも参加した。一方、キーボードのヤンネ・ウィルマンはWARMEN名義でとてつもないソロ・プロジェクト『UNKNOWN
SOLDIER』をレコーディング。 CHILDREN OF
BODOMはワンマン・バンドではなく、それぞれのメンバーがそのユニークなサウンドに貢献していることを証明してみせた。
2000年にはシングル「Hate Me」がフィンランドのチャートで1位となり、わずか2、3週間でフィンランド国内ではゴールドを獲得、
プラティナム(売り上げ1万枚以上)獲得もあっという間だった。シングルがチャートの1位を飾っている一方で CHILDREN OF
BODOMはピーター・タクトグレンをアビス・スタジオに迎えて行っていたレコーディング・セッションを終え、
2000年10月20日に3枚目のアルバム『FOLLOW THE REAPER』が世に出ることとなる。
『FOLLOW THE
REAPER』はデビュー・アルバムのヘヴィで生々しいサウンドのリフと、『HATEBREEDER』の怪物のごときテクニカルなメタル・アクロバットの栄光に満ちた素晴らしいコンビネーションとなった。
しかし、最も目立っていたのは個々のミュージシャンの技術が一段と高いレベルへと上がったことと、バンドがユニットとして大きな進歩を見せたことだった。
ピーター・タクトグレンと共に有名なアビス・スタジオで『FOLLOW THE REAPER』をレコーディングした後、
バンドはCHILDREN OF
BODOMの信頼篤きアンシ・キッポの愛情あふれる腕の中へ、そしてアスティア・スタジオの中へと戻ることを決める。結果はまさに息をもつかぬせぬものとなった。
2003年1月にリリースされた『HATE CREA
DEATHROLL』は攻撃性とヘヴィさという部分で彼らのソングライティングが新たなレベルへと到達したのみならず、
何もかも(というか誰もかれも)げんこつでしたたかに殴りつけ、撃ち倒すような勢いで曲が演奏されていたのだ。 『HATE CREW
DEATHROLL』のアレキシは痛いほどの憎しみで歌詞をはき出し、(アレキシとアレクサンダー・クオッパラからなる)ギターはカミソリのごとき鋭さで触れるもの総てを切り裂き、
(ヘンッカ・T・ブラックスミスとヤスカ・W・ラーティカイネンの破壊的デュオからなる)リズム・セクションはまるで
世界が終わろうとしているとでもいうように激しいリズムをたたき出してくる。とどめの一撃はヤンネ・ウィルマンのキーボード。
殺戮を繰り広げる熟練の処刑人の熱情と正確さで、破壊の道が確実に全うされるよう努めているのだ。
2003年の夏、アレクサンダー・クオッパラがバンドを脱退し、後任としてルーペ・ラトヴァラが加入した。ルーペの華やかなプレイは、
既にそれ以前からフィンランドのたくさんのメタル・レコードを飾っており、フィンランドでも最も多方面で評価されているメタル・ギタリストである彼の柔軟な
プレイ・スタイルと、風変わりなハーモニーのセンスは、1990年代初頭にルーペが在籍していたスピード・メタル・バンド、STONE時代からCHILDREN
OF BODOMに大きな影響を与えていた。
2004年、バンドは新しいラインナップをテストすべく、4曲入りEPとDVD-EP「Trashed, Lost &
Strungout」をリリース。素晴らしいカヴァー曲2曲とともにバンドの将来を味見する機会を与える。
EPでは、新たに見いだしたドライヴや、以前よりもラフになったエッヂが見られたが、間違えようもないCHILDREN OF
BODOMのサウンドがそこにあった。 ミニ・アルバムの成功の後、CHILDREN OF
BODOMはプロデューサー兼ミキサー兼エンジニアの導師ミッコ・カーミラと共に新たなフルレンス・アルバムをレコーディングすべく
ヘルシンキのスタジオ・ハストホルメンに立てこもった。結果として生まれたものが『ARE YOU DEAD YET?』だ。
いわゆる修辞学的タイトルだが、フィンランド・メタルの先駆者たるヘイト・クルーにとって
4作目となるこのスタジオ・アルバムは徹頭徹尾すさまじい曲が詰め込まれている。
2005年にUniversal Musicを通じて世界中でリリースされたこの『ARE YOU DEAD
YET?』アルバムの劇的な成功により、 このたびは世界が彼らの前にひざまずくこととなり、CHILREN OF
BODOMヘイト・クルーの情け容赦のないライヴは地球のあちこちで素晴らしいヒットとなった。 ツアーは休みなく続き、『ARE YOU
DEAD
YET?』に伴うツアーでバンドはヘッドライナーとしてアメリカを回り、さらに日本とオーストラリアまで出向いてツアーをソールド・アウトとした。
大成功を収めた『ARE YOU DEAD YET?』ツアーに続き、CHILDREN OF
BODOMは彼らにとって初のライヴDVD『CHAOS RIDDEN YEARS - STOCKHOLM KNOCKOUT
LIVE』を2006年8月にリリース。スウェーデンのストックホルムにある『アレーナン』で行われた強烈なライヴを収録したこの作品は、IN
FLAMESなどを手がけたパトリック・ウラエウスが監督を務め、フィンランドでは最も成功したDVDの1つとなり、この年メタル・ファンが一番欲しがったライヴ作品となった!
ライヴDVDをリリースしたことが、バンドに休息をもたらした。アレキシ・ライホはようやく次のフルレンス・アルバムのための曲作りを行う時間を得た。興味を煽るべく、CHLDREN
OF BODOMは新作のサンプルとして特別シングルの「Tie My Rope」を発表。アメリカのみ商品として店頭に並んだ。
2007年8月、バンドはフィンランドのホロラの森の中にあるペトラックス・スタジオに入った。
いずこともしれぬ場所に閉じこめられ、バンドとプロデューサーのミッコ・カーミラは酔いしれたようにアルバム用の曲をレコーディング。
アルバムはやがて『BLOODDRUNK』と呼ばれるようになる。これまでになくヘヴィでハードなCHILDREN OF
BODOMがこのアルバムの9曲で表されている。 CHILDREN OF
BODOMのこれまでのどの作品よりもテクニカルかつ情け容赦のない内容を持つ『BLOODDRUNK』にはアレキシ・ライホの荒々しい側面が現れている。
慈悲を与えることもなく、楽な道を選ぶこともない。アルバム全体が最初から最後まで、純然たる死と恐怖と殺戮で埋まっているのだ。アルバムのタイトル曲のビデオは、
ドイツのビデオ監督サンドラ・マルシュナーによって撮影されたが、冷え冷えとしたゴースト・タウンとそこの住人達の生活を映し出したこのビデオは、
曲の恐ろしいテーマを完璧に描き出している。
結果『BLOODDRUNK』は全米アルバム・チャート22位という快挙を成し遂げアメリカの『GIGANTOUR』から始まったワールド・ワイド・ツアーは大成功に収める。
2009年から少しの休息の後にすぐにレコーディングへ入ることになる。
今まで最強のパートナーであったプロデューサーMikkoから初のアメリカ人プロデューサーであるMatt Hydeを起用。
新たなステップ・アップを目指す彼らのサウンドは最強のものを産み出した。
ささやなかスタートから長い道のりを歩んできたCHILDREN OF
BODOMは、今日変わることなきエクストリームなメタルの殿堂に堂々とその姿を並べている。
ファンからも同じミュージシャン達からも尊敬を驚きを勝ち取りながら。CHILDREN OF BODOMは既に大きな影響を与えてきた。
しかも、数年にわたって世界各地を回ってきた今も、このジャンルのリーダーとして君臨しているのだ。
卓越した技能の中で、CHILDREN OF
BODOMをユニークな存在をしめているのは、単に精度の問題だけではない、メタルへの激しい情熱が彼らをそうさせている。
2011年、遂に彼らの時代がやってきた・・・・・