BIOGRAPHY
1941年6月12日アメリカ合衆国東部マサチューセッツ州チェルシー生まれ。本名はアルマンド・アンソニー・コリア(Armando Anthony Corea)。イタリア=アメリカ系のトランペット奏者であった父親の影響で、4歳の頃からピアノやドラムスを学ぶ。高校を卒業後、ニューヨークに移り、コロンビア大学などで音楽を専攻。1960年代初頭にはプロのミュージシャンとして、ニューヨークのジャズ、ラテン音楽シーンで頭角を現していく。
モンゴ・サンタマリア、ブルー・ミッチエル、ハービー・マン、アート・ブレイキーといった多くのバンドに起用され、1967年にスタン・ゲッツのグループに登用されると、そこでは期待の若手ピアニストとしての存在だけではなく、類まれなるコンポーザーとしての才能をも広く世に知らしめた。次いで帝王マイルス・デイヴィス・グループにも迎えられ、史上に残る傑作『イン・ア・サイレント・ウェイ』、『ビッチズ・ブリュー』(ともに1969年)などの録音に加わる。この時期に初リーダー・アルバム『トーンズ・フォー・ジョーンズ・ボーンズ』(1966年)、トリオでの傑作『ナウ・ヒー・シングス、ナウ・ヒー・ソブス』(1968年)を残す。
マイルス・グループ独立後には、先鋭的な音楽性を持ったグループ「サークル」を結成。さらには、その後のグループとしての活動の原点となった「リターン・トゥ・フォーエヴァー」(以下RTF)(1972年)を結成し、その印象的なカモメの写真(註1)で知られるグループのデビュー作は、世界的なヒットとなった。この時期に残されたソロによる『ピアノ・インプロヴィゼーションズ』(1971年)、ヴィブラフォン奏者ゲイリー・バートンとのデュエット『クリスタル・サイレンス』(1972年)も、その後のソロ、デュエットというフォーマットでの活動の基本となっていった。
RTFは、その後エレクトリックな色彩を加え、そのロック寄りのパフォーマンスが幅広いオーディエンスに訴求する事となり、商業的な成功を収める事となる。一方、『フレンズ」(1978年)、『スリー・カルテッツ」(1981年)といったストレートアヘッドなジャズ・アルバム、ハービー・ハンコックとのデュエット・アルバム(1978年)、スパニッシュ・テイストを加えた『マイ・スパニッシュ・ハート」(1976年)、クラシックの巨匠=フリードリヒ・グルダとの共演アルバム(1982、84年)なども制作し、そのマルチな才能の開花に、いよいよ拍車がかかっていく。
1985年に結成した『チック・コリア・エレクトリック・バンド」(以下CCEB)(註2)は、RTF後に初めて彼が結成したバンドであり、RTFとともにこのCCEBでの活動が終生続く事となった。結成当初はジョン・パティトゥッチ(b)、デイヴ・ウェックル(ds)によるトリオ・フォーマットであったが、1987年からは、サックスのエリック・マリエンサル、ギターのフランク・ギャンバレを加えた不動のクインテットとなった。(註3) このCCEBのスピンオフ的なバンドとして誕生した『チック・コリア・アコースティック・バンド」(CCAB)も人気を博した。CCEBの1987年の日本での伝説のライヴ=『GRPスーパー・ライヴ」における演奏はグラミー賞を獲得する。
1992年には自身のレーベル「ストレッチ」をスタートさせ、新たな活動の場を広げていく。ソロ、デュエット、トリオ、グループ、オーケストラといった様々なフォーマットでの精力的でクリエイティヴな活動はとどまることがなく、CCEB以降に結成されたグループも「オリジン」(1997~1999年)、「ファイヴ・ピース・バンド」(2008年)、「ヴィジル」(2012年)、「チック・コリア+スティーヴ・ガッド・バンド」(2017年)そして最後のスタジオ録音アルバムとして残された「スパニッシュ・ハート・バンド」(2019年)が数えられる。稀代の名手クリスチャン・マクブライド(b)、ブライアン・ブレイド(ds)によるトリオ「トリロジー」も人気を博し、アルバム『トリロジー」(2014年)はグラミー賞の2部門を獲得した。
2001年に生誕60歳を記念してブルーノート・ニューヨークで企画された「ランデヴー・イン・ニューヨーク」コンサートは、2011年の70歳、2016年75歳の周年においても共通した「過去、現在、未来」というテーマで開催され、過去に共演したアーティストたちが一堂に会する壮大なイヴェントとして定着していた。
晩年は、演奏活動の傍ら、後進のアーティスト、ミュージシャンの育成のために、オンラインによる「ミュージック・アカデミー」を発足させて、コロナ禍の中、世界の音楽家とのオンラインならではの交流を図った。
2020年末から体調を崩し、2021年2月9日愛妻ゲイル・モラン・コリアに看取られながら逝去。享年79歳。
グラミー賞は1975年度の『ノー・ミステリー」(RTF名義)(1975年)での初の受賞以降、没後にアナウンスされた『トリロジー2』(2019年)の2部門、『アコースティック・バンド・ライヴ』の2部門含めて合計で27回の受賞。
親日家であり、1968年以降50回以上来日し、さまざまなバンドを率いて、全国でコンサート活動を行った。1983年末から6週間滞在した京都では「銀閣寺」(Silver Temple)、「ジャパニーズ・ワルツ」(Japanese Waltz)、1996年には「日本組曲」(Japan Suite)を残す。渡辺貞夫、日野皓正と言った日本のトップ・ミュージシャンとも交流を図り、近年では、小曽根真、上原ひろみとも親交を深めていった。
最後の来日公演はジャズ・フェスティヴァル「東京JAZZ」での2019年8月31日のCCAB、9月1日のCCEB公演。没後に初めて発表されたアルバムは、小曽根真との2016年の全国ツアーから厳選したトラックで構成されたデュエット・アルバム『レゾナンス』。そして、チックが生前から企画していたエレクトリック・バンドによる『ザ・フューチャー・イズ・ナウ』が2023年11月3日に発売予定。
チックの書いた代表曲:
「スペイン」「ラ・フィエスタ」「アルマンドのルンバ」「クリスタル・サイレンス」「ウインドウズ」「500マイルズ・ハイ」「チルドレンズ・ソング」など。
著作図書:
「Music Poetry」 (1980年)
「チック・コリアのA Work In Progress 音楽家として成長し続けるために」チック・コリア著 八島敦子訳 (株式会社ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングス)
註1:RTFのデビュー作(ECM1022)のジャケット写真の鳥は, 「カモメ」ではなく、「カツオドリ」という鳥だという説が主流である。
註2:「チック・コリア・エレクトリック・バンド」の英語表記はChick Corea Elektric Band。Electricではない。日本デビューに際して、アルバム発売メーカーでは「チック・コリア・エレくトリック・バンド」というアーティスト名も検討されたというが、結果見送られた。
註3:1993年に結成されたCCEBⅡは、エリック・マリエンサル(sax)、ジミー・アール(b)、ゲイリー・ノヴァク(ds)、マイク・ミラー(g)というメンバーだったが、短命に終わった。