BIOGRAPHY
BUMBLEBEEZ 81
狂楽科学者クリス・コロナが誕生させたバンブルビーズ81とは、血の滲むパンク特有のノイズにヒップホップのアティテュード、ルースなエレクトロのループ
とリズムを掛け合わせたものが突然変異を起した、と表現するのが適当か。本国オーストラリアとイギリスのみでリリースされている2枚のEP、『White
Printz』と『Red Printz』を1枚のフル・アルバムにまとめた本作『The
Printz』は、セクシーな自然発生のミュージック・カオスである。
収録曲「ポニー・ライド」や「ピンク・フェアリー・フロス」に散りばめられているのは、正統派ロック的なフックのあるリフであり、フロアを揺らすビートで
あり、気まぐれに登場するピアのスタイリッシュなラップである。これらの要素の全てがオーストラリアのド田舎にあるコロナ家の経営する家畜牧場にあるクリ
スの部屋で「コピー&ペースト」によって出来上がっているのだ。
この未だかつて聴いたことのない、絶対的に人を陶酔させる本作『The
Printz』は、昨今全く見なくなった真のオリジナリティを完全に確立したアーティストの象徴と言えるであろう。
バンブルビーズ81は南オーストラリアのキャンベラ近郊に位置する小さな町で誕生。普通の子供と同様にスポーツやビデオ・ゲームにのめり込んでいたクリス
は、10歳になるころからアート=芸術に興味を示し始めた。大学に入り最初にクリスがやり始めたことについて彼はこう言う。「雑誌をね、切り抜くんだよ。
こっちの頭をほかの胴体に貼り付けたりしてね」。その作業はやがて雑誌の切り抜きから”音”の切り抜きに変わっていった。色々な音楽のカセットから部分部
分を貼りあわせ、全く違うサウンドを作り出したり、自分の好きな部分を長く延ばしたりと言った作業にクリスは何時間も没頭するようになっていった。その
きっかけはレッチリのある曲だ。
「お気に入りのレッチリの曲があるんだよ。そこには最高にイケてるドラム・ソロがブレイクで入ってるんだけど、それをもっと長く聴きたいな、とか思うじゃ
ん?で、オレはそのソロ部分をループさせて延ばしたってわけ。そこからかな、全く新しいモノをクリエイトする手法として、全てをブチ壊す、って言うコンセ
プトに自信を持ったのは」
高校のマーチング・バンドでドラムを担当していたと言うクリスは次第にビートやリズムへの興味を増大させていった。中高生の頃、4人でロック・バンドを組
んだりもしたが、長くは続かなかったと言う。そして目標の見えなくなったクリスに当時の高校の教師は、コンピューターを使った音楽作りを勧めたと言う。そ
の日その先生の助言以来、クリスの前には大きくて壮大な可能性の道が開け、以来、後ろを振り返ることはなくなった。
「コンピューターってさあ、曲をブチ壊すためのオプションがいっぱいあるんだよね。声のピッチを変えたり、ループしてドラムをダブルにしたりね。そこにはルールがないんだよ。いつもそこにあるのは、自分のやりたい通りにやる。ただ色々試して遊んでって感じだ」
その開眼と時を同じくして、クリスはダウンタウン・ニューヨークのシーンとそれを代表するようなJean-Michel
Basquiatのヴィジュアル・アートへの興味を広げていった。色が衝突しあいながら独特なインスピレーションを与えるグラフィティ、そこに詰まる壮大
なエネルギーに衝撃と感動を覚える自分を発見した。色の衝突からのインスピレーションとエネルギー、この2つこそが今やバンブルビーズ81の音楽の全てと
言えるのではないだろうか。
「NYにはすごくリアルでストリートなアプローチがあると思った。僕はそこに一発でヤラれた。何て言うか、まるで子供が描くような質って言うか感覚って言
うか。だって今の世の中は全て完璧でクリーンでないといけない、って言う風潮があるでしょ?そんな中でNYのシーンを始めて理解した時は、スッ
ゲェーー!!って感動したね。」
NYを夢見ながら高校を卒業したクリスは、オーストラリアのキャンベラ・アート・スクールで音楽を含めた意味での芸術=アートの勉強と実験を続けた。全てを音楽を通して考えるクリスはアート・スクールに行きながらも音楽学校に行っている感覚だったそう。
そしてもっと沢山の人が居る広大な場所で自分のアートを爆発させてみたいと言う衝動に駆られたクリスは、キャンベラ・アート・スクールを2年で辞めオース
トラリアの悪名高きパーティ・タウン、バイロン・ベイでアート・スクールに通い始めたが、すぐにここは自分の居るべき場所ではないと自覚し、NYを目指し
た。
2001年、ブルックリンのプラット・インスティテュートとの交換留学のチャンスを手にしたクリスはNYで生活を始め、アートや音楽、テニスなどに没頭(NY州のテニス選抜チームとしてもプレイしたとか!)。
「まるででっかいスポンジのようにオレは全てを吸い込んだ。で、オーストラリアに戻った今、その吸収した全てを搾り出しているのさ」
地元ブレイドウッドに戻ったクリスは、本格的に音楽創作活動を開始。流行の音楽などからのインスピレーションも大切と考えたクリスは、ティンバランドやネ
プチューンズなどの”ビート・マスター”の音楽から、現在のロックのアイコンとも言えるストロークスやキンクスなども聴きまくった。
エネルギー漲るクリスは、それを全て自分と自分の部屋に閉じ込め、とにかく曲を作りまくった。その制作方法も独特で、まずコピー・ペーストで重ねられた
ビートとバッキング・トラックを作る。そのはちゃめちゃなサウンドのヴァイブに合う詩をインプロヴァイゼーションしていくと言うもの。
「オレは自分を曝け出すような”常識的でつまらない”ソングライターじゃあないんだ。オレのやり方ってのは、その時、その瞬間に頭に浮かんだことをマイク
に向かって叫ぶ。それだけなんだ。女の子のことを歌うこともあれば地下鉄について歌うこともある。要は何でもいいんだよ」
そうやってクリスが様々な作業に没頭している間、妹のピアはいつもその辺をウロウロしていました。クリスは彼女に自分なりにスタイリッシュにラップしてみ
ろ、と勧めました。その曲は結局クリスのパソコンのハード・ディスクから世界へと飛び立つことになるのです。2002年8月、オーストラリアのラジオ局
「Triple
J」による、「まだ知られていない音楽」コンテストにそのピアとの楽曲「マイクロフォン・ディジィーズ」ともう1曲「ステップ・バック」をエントリー。
「ステップ・バック」は当然のごとく優勝、バンブルビーズはベッドルームを抜け出し、一躍国民的認知度を獲得しました。クリスは更に6曲の新曲を仕上げ、
今度はオーストラリアの音楽チャンネル「Fly
TV」のコンテストにエントリー。もちろんここでも優勝と言う快挙を成し遂げたのだが、この兄妹にとっては不満だらけだったそう。
「最初は2アーティストでエントリーのハズだったんだよ」クリスは説明します。「6曲作ったんだけど、それが1曲として評価されちゃったんだ。ピアとオレは”ふざけんな!”って感じだった。だって俺らは兄妹で同じバンドとして見られたくなかったんだ」
負けじとピアも言います。「私達って、別にそんなに仲良いわけじゃないのよねー。今は半ば強制的に一緒に居させられているけど、本当は二人とも別々にやっていきたいのよ」
「おいおい、オレだって自分のダチと一緒の方がいいんだぜ」とクリス。「バンドで隣に立っているのが自分の妹だなんて、なんかカッコ悪くねぇ?」
しかしそのFly
TVで注目を浴びた直後にバンブルビーズはEP『ホワイト・プリンツ』をリリースし、ピアのライムとクリスのヘンテコリンで中毒性のあるサウンド・スケイプはキッズや評論家を驚かせると同時にその評判はドンドン広まっていく。
そしてそのEPは全く予想もしていなかったが、UKでのリリースが決定。イギリスなどの音楽専門誌、NMEやiD、Jockey
Slutはこぞって大絶賛した。その人気を受けすぐに7曲の新曲を制作し、ニューEP『レッド・プリンツ』もリリース。更にエレクトロな感覚を醸し出すピ
アのラップに、クリスはファンキーな要素を重視し、絶妙なバランスを形にした。
そんなUKでの思いもよらぬヒットの連発にクリスは、「UKでのことはちょっと変な感じがしたよ。だって殆どのバンドってアルバム3枚出したくらいから評
価されたり文句言われたりするワケだろう?幸か不幸かオレらの場合は、全てがホント一瞬で起こったからね」と驚きを隠せない。
そもそもバンブルビーズ81と言うユニットは、クリスのカリスマ的芸術センスの集大成である。それは本作『プリンツ』のブッ飛んだアートワークのグラ
フィックや、アイデアの勝利とも言えるシングル「ポニー・ライド」のPVを見れば明確である。それについてクリスは、「音楽でも何でもオレのアイデアや、
やっていることは何でも全て一緒なんだよ。だからアルバムの音はアルバムと言うトータルの作品のただの一部なんだ」と説明している。
本国オーストラリアや思いがけないUKでのバンブルビーズ81の成功はクリスにさらに新たな可能性を与た。それはクリスが昔から憧れていた、他のアーティ
ストのプロデュースと、曲のリミックスを手掛ける、と言うことである。(シザー・シスターズの”Comfortably
Numb”-原題-や、ヤー・ヤー・ヤーズのリミックスなど)
また、今まで自分のベッド・ルームで制作していた曲が世間に認められると必要になってくるのがライヴ・パフォーマンス。クリスがレコーディングを開始した
当初、彼の頭の中に「人前で演奏する」、と言うコンセプトは全く考えていなかったそう。そこでクリスとピアはそれように自分らの友達や地元のミュージシャ
ンを起用し始めたのです。(Karuna and Surya Bajracharya, Anders Nielson, Kahl
Hopper)
「ライヴは全く違ったエネルギーなんだ。同じ曲なんだけど、もっとスペクタクルって言うか… 別にオレらはロック・バンドを組んだわけじゃないから、ライ
ヴを組み立てるのはけっこう大変だった、疑問だらけでね。ラップトップを楽器として使用していいの?とか、これはもっとアートっぽくした方がいいかな?と
かね。で、色々面倒くさくなってきたから、手っ取り早くダチを集めてバンドにしちゃったんだ。そしたらもっとクレイジーなサウンドが生まれちゃってさ。最
初のライヴなんてこの世とは思えないくらい狂ってたよ。観ていたお客さんは、最高!って言ってくれるか、最悪!って言うかのどちらかだった。多分、最悪っ
て思った人は、’なんじゃこりゃ?10匹の猿がステージで踊り狂ってるだけじゃん!’とか言ってたと思うよ!!」
アメリカでは前述の2枚のEPをまとめた本作『ザ・プリンツ』が2004年5月にリリースされたばかり。しかしクリスのグニャグニャな脳はすでに次のス
テップ、すなわちバンブルビーズ81としてのフル・アルバムをスタジオでレコーディングすることに支配されている。もちろんクリスのコンセプトである、
“何でもあり!”は変わらない。なぜならそれはバンドのコンセプトと言うよりは、クリスの人生の哲学だからだ。
「いつものやり方だけど、まずラップトップで基礎をまとめて、それをスタジオに持ち込んで、さてどうなっちゃうのかな?って感じ。結局オレらって何でもあ
りでやってるから、例えばドラム・ソロが5分間続いて、で、バンジョーの演奏が絡み付いてくる。それでもう1曲完成なんだよ。要はかっこよくてクールなら
何でもいいんだよ!オレにはやりたい事が山ほどあるんだ。バンブルビーズ81はその第一歩目ってだけで、その後に何が起こるかはオレにも分からない。オレ
はアートをやりたいんだ。ファッションも音楽もスポーツも何でもね。みんな、お前正気か?って聞くけど、とりあえず今できることを数年やってみて、そこで
何が起こるかだな。その後のことはまたその時考えるのさ」