BIOGRAPHY

BUDDY HOLLY


本名チャールズ・ハーディン・ホリー。1936年9月7日、テキサス州ラボックに4人兄弟の末子として生まれる。
音楽好きな家庭で育ったバディは15才の頃にはギター、マンドリン、バンジョーなどを弾くようになり、親友のボブ・モンゴメリーとグループを組んでデモ・ テープ作りを始めた。17才になった53年9月、二人はベーシストのラリー・ウェルボーンとともに地元ラジオ曲のオーディションを受け、すぐに自分たちの 番組『バディ・アンド・ボブ・ショウ』を持つようになった。そしてこの頃のバディは、まだカントリー・デュオとしての活動を目指していた。 しかし55年、バディにとって決定的な出来事が起こる。プレスリーとの遭遇である。バディはエルヴィスがラボックで行なったライヴで2回前座を務めたのだ が、プレスリーの強烈なパワーにすっかり打ちのめされてしまい、さっそくドラマーも加えたバンドとしての活動を始めた。そしてこの頃からバディたちはナッ シュヴィルのタレント・エージェントたちの知るところとなり、結局(後にMCA傘下に入る)デッカ・レコードが彼らと契約した。 そして1956年にはナッシュヴィルで数多くのセッション、レコーディングを行なった。バディが有名になったのは、デッカの子会社ブランズウィックから 57年5月に発売されたシングル「ザットル・ビー・ザ・デイ」の大ヒットがきっかけ。これはソロ名義でなく、クリケッツというバンドとしてのヒットだった (契約上の問題でこういう形での発売になった)が、やはり同じMCA傘下のコーラル・レーベルからその直後にソロ・シングル・デビューを果たしている。そ の中でも9月に発売した「ペギー・スー」は決定的なヒットとなり、バディはプレスリーに続くスターとして注目を集めるようになった。 続いてブランズウィックは同年11月にクリケッツとしてのアルバムを1枚発売したが、コーラルが翌58年2月にソロ・デビュー・アルバム『バディ・ホ リー』を発売して以後は、バディ・ホリーとして活動することになった。そして同年4月には、最初にバディとレコーディング契約を結んだデッカからアルバム 『ザットル・ビー・ザ・デイ』が登場。録音されたのはバディの人気が爆発する以前のものだが、実質上これがバディの2ndアルバムである。そんな発売ラッ シュの一方で、バディとその仲間たち—クリケッツ—は2度の海外公演を含むコンサート・ツアーを休むことなく続けながら、シングルのレコーディン グも精力的に行なった。 しかし1959年2月2日にアイオワ州クリア・レイクでショウを行なった後、翌日の会場であるミネソタ州ムーアヘッドに向かう飛行機が3日未明に墜落。突 然の事故でバディ・ホリーは帰らぬ人となった。若干22才であった。