BIOGRAPHY
BRIDES OF DESTRUCTION / ブライズ・オブ・ディストラクション
■ロンドン・レグランド (London LeGrand) Vocal
このバンドの他の強烈なキャラクターに比べたら、ロンドンの知名度はさすがにまだ低い。しかし彼の過去をひも解くと、それは他のツワモノどもに負けず劣らず激しい。マイアミ生まれ。が、故郷とよべる場所はない。ミュージシャンにはよくある話しだが、彼もまた、ジプシーのような生活を送り、ロックンロールな逸話を多く残してきた。家族は、ロンドンが幼い頃から世界中を転々とし、彼はノース・キャロライナから香港まで、極端に違う土地で学校に通った。やがてジョージア州に落ち着くと、アセンズのミュージック・シーン(90年代初期に活発化)に根を下ろす。ロンドンにとって初めてのバンドはMad
Hatterといい、音はスイサイダル・テンデンシーズを彷彿。地元では盛んにライヴを行ったが、それなりの成功しか手に入らず、やがて手づまり状態に陥り解散。その後アトランタに住を移し、Voodoo
Pistonを結成。アメリカ南東部をツアーで回るが、これまたレベルアップを図れないまま解散。ちょうど、ガンズ&ローゼスの『Appetite
For
Destruction』にのめり込んでいたロンドンは、より確実なチャンスを狙うため、ダッフルバッグ一つで、太陽がまぶしいロサンジェルスに向かった。彼は思った。もし彼ら(ガンズ)にできるならオレにもできる、オレにだってぎりぎりの生活ぐらいできる、と。しかし知り合いもいない彼は、ハリウッド・ブルヴァードを行ったり来たりしながら仕事の口を探すハメに。時には道ばたに寝ることも、公園で寝ることも、仕事がある日もない日もあった。しかしこのライフスタイルこそ、LAでロックンローラーを夢見る若者の、最も偽りのない形なのだ。
そんなロンドンがニッキー・シックスと知り合ったのは、共通の友達を通じて。その頃ロンドンはハリウッドにあるBezzstopという美容室で働いていた。その友達アダム・ハミルトンは、ニッキー・シックスとトレイシー・ガンズが新しいバンドを結成するためにシンガーを探してる、と告げた。アダムはロンドンの写真を預かるとさっそくニッキーとトレイシーに見せに行き、ロンドンの話をした。間もなくしてトレイシーのスタジオに呼ばれたロンドンは、気がついたら新曲のレコーディングに参加していた。ニッキーもすぐに新顔を見にやってきて、みんなでイタリアンを食べながら、契約は成立。ロンドンははれて、ブライズ・オブ・ディストラクションのフロントマンになった。夢の町LAにまた一つ物語が生まれた瞬間だった。
■トレイシー・ガンズ (Tracii Guns) Guitar
1966年1月20日、ハリウッドのハリウッド・ブルヴァードに生まれる。スケーター&サーファー&BMXライダー。6歳でギターを始め、すぐにザ・フーの”Pinball
Wizard”などをマスター。しかしこの年の後半にレッド・ツェッペリンの”Whole Lotta
Love”に衝撃を受け、ギターと共に生きていくことを心に誓う。
17歳の時、ハリウッドにあるバンクロフト・ジュニア・ハイスクール在学中にLA
GUNSを結成。一方、クラスメートのスラッシュもRoad Crewを結成。二人のヘルシーなライバル意識はこの頃始まり、今なお続く。LA
GUNSは1986年にポリグラムと契約を結び、大きな成功へと導かれていくが、その前にトレイシーはアクセル・ローズ、イジー・ストラドリン、ダフ・マッケーガン、スティーヴン・アドラーと共に伝説のバンド、ガンズ&ローゼスをサイド・プロジェクトとして立ち上げる。しかし彼はやがてバンドを離れ、友達のスラッシュが後釜として加入。その後のガンズの大成功に関しては、改めて語る必要もないだろう。
それから15年、トレイシーはLA
GUNS以外にも多くのバンド/アーティストに携わってきた。ジョニー・サンダース、モーターヘッド、ミスフィッツ。また、UFOで有名なマイケル・シェンカーとはContrabandを結成。一方で、スタジオ・ミュージシャンとしても引く手あまたで、彼のプレイは多くのサウンドトラック盤やR&Bアルバムなどで聴くことができる。そして肝心のLA
GUNSはというと、この間10枚のスタジオ・アルバムと1枚のライヴ・アルバムをリリース。世界総セールスは約600万枚を数える。またトレイシーはStarfuckersというバンドもやっていて、ここにはスリム・ジム・ファントムやギルビー・クラークが在籍。90年代はじめにLAのサンセット・ストリップを再び活性化させたバントとして今も語り継がれている。
ところが、トレイシーのこれらの輝かしい過去は、危うく生まれないで終わるところだった。1981年にニューウェーヴとパンクがヘヴィメタルに真っ向勝負を挑んだ時、トレイシーはもう少しでギターを諦めるところだった。当時、彼が刺激的だと思える音楽はなく、幻滅してしまったのだ。しかし彼の運命を変える出来事があった。それは、LAのクラブ、トゥルバドールで初めてみたモトリー・クルーのライヴだった。「”Whole
Lotta
Love”を初めて聴いた時と同じインパクトに襲われた」とトレイシー。その晩家に帰った彼は、ロックンロール・ギタリストとしての人生を改めて歩む決心をした。
そして今、ギターへの情熱を甦らせてくれた恩人、ニッキー・シックスと共に夢を追いかけ始めた。ブライズ・オブ・ディストラクション。ロックンロール界に君臨するのも時間の問題だ。
■ニッキーシックス (Nikki Six) Bass
モトリー・クルーのベーシスト、そしてメイン・ソングライター。ロックンロール界を代表する”スター”。そして本物。モトリーの今なお続く伝説は、20年間で4000万枚のアルバム・セールスを記録、4枚のトップ10シングルを輩出。近年のツアー・バンドとしては最も成功を収めたひとつであり、その総動員数は3000万人以上といわれている。いわゆる”MTV世代”の音楽、そしてライフスタイルを決定づけた最大の立役者。1999年にはエレクトラ・レコードからマスターテープの権利を全面的に回収し(これをやったアーティストは歴史上ごくわずかで、ましてやロックバンドとしては初めて)、世界的規模で成功を収めたマキシマム・ロック・ツアーの勢いも手伝って、全タイトルを収めた『Crucial
Crue』という8枚組コンピレーションを制作するにいたった。
2000年には、彼らのすべてを洗いざらい暴露した伝記本『The Dirt: Confessions of the World’s
Most Notorious Rock
Band』が出版され、「ロックンロール・スターダムの快楽と危険を克明に綴った初めての書物」として大変な話題になった。ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラー・ランキングにも数週間に渡ってエントリーし、2004年には映画化される見通しだ。また、ニッキーはアパレルメーカーDragonfly社と手を組み、ニッキー自身やモトリーのメンバーがデザインした衣服の販売を始めた。
ニッキーは、モトリーの伝説と未来を確実なものとする一方で、更なる飛躍の場として、このブライズ・オブ・ディストラクションを結成。彼は常に人事の天才であり、彼の選んだメンバーは、必ずや、彼自身の夢を現実のものへと導いてくれる。果たしてその夢が、ヒット・ナンバーを生み出すことなのか、それとも、世界中を議論の渦中へと引きずり込むことなのかはわからない。けれどニッキーは新たな仲間、トレイシー、スコット、そしてロンドンと共に、またしても、世の中にケリを入れるため立ち上がったのだ。その結果がどうであろうと、一つだけ言えることがある...絶対に、退屈はしない。
■スコット・クゥーガン (Scot Coogan) Drams
シカゴ生まれ。ブライズの中で、最もヴァラエティに富んだ音楽活動を経ている。8歳でドラムを始め、音楽学校へも通った。19歳の時、初めて組んだバンドBlack
Elvisと共に、新天地LAへと向かう。しかし、多くのかけだしバンドがそうであるように、Black
Elvisにも最後までチャンスは訪れず、LAミュージックシーンの厳しい現実に直面し解散。が、Black
Elvisはスコットの才能を見せつけるには十分で、オニ・ローガンと、DIOでおなじみのローワン・ロバートソンから連絡を受けた彼は、Violets
Demiseというアトランティック・レコードのバンドに加入。デイヴ・ジャーデンと共にデビュー・アルバムのレコーディングを行なうが、残念ながら、日の目を見ることはなかった。というのも、実際にアルバムがリリースされる前にViolets
Demiseはアトランティックからドロップされてしまい、バンドも解散。もうすぐそこにチャンスが、と思っていたスコットは、振り出しに戻されてしまう。
約1年をLAで過ごした後、20歳のスコットはテキサス州オースティンに移り、Black Pearlというバンドに加入。Black
Pearlはオースティンのミュージックシーンにどっぷり浸かっていて、ほぼ毎晩ライヴを行い、昼間は寝ているような生活が始まった。しかしこのバンドもなかなかレベルアップを果たせずにいた。そんな時、スコットの元にジャイアント・レコードと契約中のParade
Of
Loserというバンドから、レコーディングへの参加依頼が舞い込んだ。今度こそはという気持ちでレコーディングにのぞみ、今回は、実際にアルバムもリリース(1995年)。ところが、なんと、バンドじたいはスコット加入前から生じていた摩擦のため、アルバム・リリース直後に解散してしまう!スコットはまたしても新境地を開かざるを得なくなった。もちろんここまでくれば、彼のドラマーとしての評判はうなぎ登りだったが…
次に起きたことはまったく予期せぬことだった。父親の薦めで、とある有名バンドのオーディションを受けたスコットは、高い倍率の中、見事その座を射止めた。そのバンドとは…ボーイ・バンドのAll
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One!スコットとボーイ・バンドとは想像しがたい組み合わせだが、彼らはワールド・ツアーを計画中で、ギャラもよく、スコットにとっても願ってもないチャンスだった。結局約1年間ツアーを続けたスコットは、何万人もの前で演奏する醍醐味を味わった。
ツアー終了後、スコットの元には次々とオファーが入り始めた。関わったアーティストや作品はEdnaswap(その後Annetennaに改名しコロンビア・レコードと契約)の『Wonderland
Park』というアルバム、シンニード・オコナー、ピート・ヨーン、「アイス・アイス・ベイビー」以降のヴァニラ・アイス、Otepなど。スコットのスタイルはとにかく幅広く、彼は柔軟性に富んだ、役に立つミュージシャンなのだ。
しかし本当のチャンスは、お遊びでカヴァーバンドをやっている時に訪れた。6 foot
nurseというそのバンドをたまたまトレイシー・ガンズが目撃。スコットの才能に惚れたトレイシーは、すぐ声をかけ、他のメンバーに紹介するからスタジオに来ないかと誘った。実はブライズにはクリス・コールズというオリジナル・ドラマーがいたのだが、彼は本来のバンドAdemaに戻ってしまった。完璧なタイミングでスコットと出会ったというわけだ。さっそくスタジオに出向いたスコット。数曲ジャムった時点で、正式メンバーに誘われた。
...こうして、ブライズ・オブ・ディストラクションは誕生した。