映画を見る前に知りたいボブ・マーリー

映画『ボブ・マーリー:ONE LOVE』を見る前に知っておきたいボブ・マーリーやジャマイカの文化などの情報をまとめました。
是非鑑賞前にご覧下さい。

<目次>
☆お勧め記事
☆映画で描かれる時代の相関図
☆漫画で解説:ボブ・マーリーの人生ざっくり紹介
☆用語解説
☆じっくり読む:ボブ・マーリーの基礎知識



☆お勧め記事

https://www.udiscovermusic.jp/columns/bob-marley-one-love-movie-4advance-knowledge-you-need-to-know

 

☆映画で描かれる時代のボブ・マーリー相関図

相関図監修:池城 美菜子(https://twitter.com/minakodiwriter
デザイン:土渕 晋 [FREE IMAGINE CREATIVE](https://www.freeimaginecreative.com
似顔絵:yogiyuu(https://www.instagram.com/yogiyuu/

 

☆漫画で解説:ボブ・マーリーの人生ざっくり紹介(絵:大友しゅうま)


漫画:大友しゅうま(https://twitter.com/ranpan21

 

☆用語解説

 

☆じっくり読む:映画鑑賞前に知りたいボブ・マーリーの基礎知識

■ボブ・マーリーはコンサート出演の2日前に銃撃された
1976年12月5日に開催される無料コンサート「スマイル・ジャマイカ・コンサート」をボブが企画。コンサートの主旨は当時ジャマイカ国内で対立し、内戦一歩手前の状態となっていた二つの政党の間に平和を呼びかけようとしていたものだった。しかし、この大規模コンサート開催を政府にとりもった政党PNPは、ボブの人気を政治利用しようと、コンサートの2週間後に総選挙をすることを発表した。これに対して、ボブは政治的に中立ではないと激怒している。
しかしそのボブの気持ちを知らない敵対政党JLPと思われる人物から、ボブに対してコンサートを中止するようにいやがらせの電話をかけ、フェス形式だったこのコンサートの出演を取りやめるアーティストも出たほどだ。そんなコンサート二日前の、12月3日の夜、リハーサルをしていたボブとバンドの元に侵入者が襲撃。サブマシンガンを持った襲撃者は、ボブとマネージャーのドン・キンジーにむかって発砲し、ドンは脇腹や太ももなど5発が命中。ボブを狙った一発の銃弾は肋骨をかすめ、左腕の貫通。妻のリタも頭を撃たれる重傷をおった。
出演することを悩んだボブだったが、最終的に出演を決意。8万人が集まったコンサートに出演し、「War」を最初に演奏し、90分のセットを披露した。そのステージでボブはこう叫んだ「このコンサートを開くことを2か月半前にきめたとき、政治なんてなかったんだ! 俺は人々の愛のためだけに演奏したかったんだ」。しかし、自身の身の危険、そして自分がいることで家族にも危害が及ぶことを避けるために、ボブは翌日UKへと飛行機で脱出した。

■ボブ・マーリーの死因はガン。しかしボブは治療を拒否した
1977年、ヨーロッパツアーでのパリ公演の際に、ボブがバンドのウェイラーズと、現地のフランス人記者とサッカーをしていたところ、ボルが親指の爪先を負傷。昔、同じ箇所を負傷したこともあり、試合後に医者は応急処置を施した。ヨーロッパツアーが終わり、アメリカツアーの準備に取り掛かる頃になっても足は悪化し、膿んでしまっていた。そこで専門家に見てもらうと、膿からガン細胞が検出された。医者は患部の指と回りの足の一部を即刻切断すべきで、その後治療を続ければ治るだろうと告げた。しかしボブ・マーリーは、自身の体の一種の聖堂とみなし、決して体には刃物を当ててはいけないという敬虔なラスタファリアンだったボブは切除を拒否したとも、またはステージでのパフォーマンスが出来なくなることを嫌ったとも言われている。
その後、足ではなく悪化した爪をはがす(体には刃物をあてない)といった対処療法で、一時は体調が好転したかに見えたが、1980年に悪化。放射線治療や化学療法なども行ったが、1981年5月11日、36歳の若さでなくなった。その遺体は5月19日に祖国ジャマイカに帰り、21日には国葬が執り行われた。

■ボブ・マーリーにとって父親とは
1945年2月6日にボブ・マーリーが生まれた時、英国陸軍の大尉でありジャマイカを統治する階級側だった白人の父、ノーマン・シンクレア・マーリーは60歳、地元民の黒人であった母のセドラは19歳だった。ボブの出産後、母セドラ側の家族の反対もあり、父ノーマンは一緒に住むことはできなかったが、毎彼女の元を訪ね、生活費も送っていた。しかし二人の関係は次第に冷めていき、1955年、ボブが10歳の頃に父、ノーマンは亡くなった。母セドラはノーマンについて「お前のお父さんはいい人だったよ。でも社会のせいでうまくいかなかったのよ」とボブに語っている。ボブは生前のインタビューで父親のことをひどい奴だったと言っているが、母親から聞かされていた父親像をどこかで追い求めていたのかもしれない。

■ボブ・マーリーと妻リタ
ボブが21歳の頃、19歳だったリタと結婚。結婚前、リタにはすでに未婚のまま出産した娘シャロンがいたがボブは養子として迎え入れ、自身の子供と同じように愛情を注いだ。ボブとリタの間には、セデラ、ジギー、スティーヴンの3人の子供が生まれた。ボブは妻リタ以外の間にも子供をもうけ、公式には11人の子供がいる。その中には、リタがサッカー選手との間にもうけ、1974年に生まれたステファニーもボブは自身の養子として迎え入れ、同じように愛情を注いでいる。
妻リタは、ボブが自身以外との女性と関係を持っていることに傷ついたが、ボブと別の女性との間に生まれた子供たちも自分の家族の一員として接していた。ボブとリタは単なる夫と妻という関係を乗り越えて生涯夫婦であり続けた。

■ジャマイカの対立抗争
ジャマイカには銃の流入が続き、1976年の総選挙をめぐる部族と二つの対立政党の抗争が激化。街中で銃殺は大量におき、子供へのレイプが続き半死状態の子供を見ることに耐えられなくなった多くの医師が国を出たほどで、当時の多くの人が国を出たがっていた。
そんな中、ボブ・マーリーの友人二人が牢屋の中で出会った。政党JLPの重鎮であったクローディー・マソップ、そしてその対立政党であったPNPのガンマンだったバッキ―・マーシャルだ。対立する政党に所属する二人であったが、お互いにボブの友人であったことから、牢屋の中で意気投合。二人は内乱状態の国内の情勢がどうやったら収まるのかを考え、ボブ・マーリーをジャマイカに連れ戻し、新たな平和コンサートで歌ってもらい国民が団結することを思いついた。
自身やマネージャー、妻が実際に襲撃されたボブへの説得は難航したが、彼は母国の平和のために出演を承諾。1978年4月22日、キングストンのスタジアムでそのコンサート「ワン・ラブ・ピース・コンサート」が行われ、満員の観衆の中、ボブ・マーリーはバンドのウェイラーズとともにステージに立った。そのコンサートの途中、ボブは敵対政党であったJLPとPNPの両党首をステージあげ、二人の手をとり握手をさせたのであった。

■「ラスタファリズム」とは
旧約聖書に出てくる古代イスラエル人(ユダヤ人)とは自分たち黒人の祖先であり、古代イスラエル人の離散とは黒人がアフリカから奴隷として世界中に売られたことであり、今も囚われの身である我々黒人を救世主(ヤハウェ=ジャー)が救済し、世界中の黒人を約束の地アフリカに導いてくれるという宗教的思想運動。ジャマイカの支配者層が長年白人層であり、影響力をもったジャマイカ人思想家の提唱や、英国領から1962年にやっと独立したこともラスタファリがジャマイカで受け入れられていった背景でもある。
ラスタの人々の髪型は「ドレッドロックス」が特徴。これは聖書の中の記述に則り、自身の体に刃物を当ててはならないということから生まれた髪型。
ラスタの中には、聖書を原理主義的に解釈するものもおり、そういったものの中には同性愛差別を主張するものもいたが、ボブ・マーリーの歌のなかにはそういった歌は見当たらない。また、黒人至上主義で、黒人以外認めないという極端な思想をもったものも一部いるが、自身が白人と黒人の間に生まれたボブ・マ―リーには差別されている黒人を鼓舞する歌はあるが、白人や他の人種を蔑む曲がないのも、彼の音楽が現代でも普遍的に愛されている理由であろう。

■「ジャー」とは
旧約聖書や新約聖書等における唯一神、ヤハウェのこと。英語圏での「God」「Lord」といったように日常的に使用される。語源は神を誉め讃える際、名前を直接呼ぶことは不敬であることから、代わりに発するヘブライ語「Hallelujah」の末尾「Jah/ジャー」をとったもの。また、エチオピアの皇帝ハイレ・セラシエ1世のことでもある。

■エチオピアの皇帝:ハイレ・セラシエ1世とは
ジャマイカにはもともと先住民族が暮らしていたが、16世紀にスペインが侵略して、その際の戦争、強制労働、ジャマイカにはなかった疫病などによって先住民たちは死に絶えてしまった。その豊かな土地を耕せるための労働力として西アフリカから黒人を奴隷として無理やりこの地に入植させた。ボブ・マーリーの母は、この時に連れられた奴隷の子孫である。
ボブ・マーリーが生きていた頃のエチオピアの皇帝がハイレ・セラシエ1世(1892年7月23日~1975年8月27日)だ。彼はラスタにとっては神ヤハウェ(=ジャー)の化身である“生き神”と信じられていた。それはエチオピアが西洋にほとんど征服されたことがない長い歴史を持つ王国であり、聖書の中には「エチオピアは神に向かって手を伸べる(詩編68篇)」という記述があったことなどがその理由であった。当時、ハイレ・セラシエ1世は、アフリカ大陸を統一し、奴隷として世界中に離散した黒人たちのアフリカ帰還を告げる救世主として崇められるようになっていた。
このハイレ・セラシエ1世の即位前の名が「ラス・タファリ・マッコウネン」と言ったことから、この名前を取って崇拝者たちのことをラスタファリアン(ラスタ)と呼んでいる。1966年、ハイレ・セラシエ1世がジャマイカを訪れたときには、民衆からの熱狂的な歓迎を受けている。しかし1974年にエチオピアで反乱がおき、セラシエは軟禁され、帝位をはく奪された。翌年軟禁状態のまま亡くなった
1977年、英国にいたボブ・マーリーは祖国から亡命していたセラシエ1世の孫から、セラシエが実際に付けていた指輪を贈られ、ボブは生涯その指輪を大切にしていたという。ボブ・マーリーのベスト・アルバム『Legend』のジャケット写真に写っているのはその指輪だ。

*参考文献;
ボブ・マーリー レゲエの伝説(晶文社)スティーヴン・ディヴィス著
文藝別冊 ボブ・マーリー(河出書房新社)
ボブ・マーリーとともに(河出書房新社)リタ・マーリー著
https://www.bobmarley.com/
https://www.udiscovermusic.jp/