BIOGRAPHY
B.D.。ソロ・ワークに加えて、THE BROBUSやTETRAD THE GANG OF FOUR、THE SEXORCISTなどのグループやユニットでの動き、そして数々の客演を通してその名前を高めてきたMCである。
現在34歳になる彼は、中央区は人形町で生まれ育った。小学生の頃に始めたスケート・ボードや、バスケット・ボールを通してヒップホップに触れ、「それが自然に体に入ってきた」と話し、それを契機に音楽の道に入っていく。
「元々はDJを目指してたんですけど、クラブやライヴに行く中で、「もし俺がラッパーだったらこうするな」とかイメージが湧いたんですよね。それで、本当に何となくラップを初めて。それが16~17の時ですね。だけど、六本木のZEUSってクラブのイベントでのフリー・スタイルで、DABOくんやK-BOMBにこてんぱんにやられて、それが悔しくて、これは本気でやらなきゃなって」。
同時に、90年代中後半から渋谷/宇田川町のいわゆる「レコ村」に足繁く通うようになり、MUROの手がけたショップ「STILL DIGGIN」で、後にNitro Microphone Undergroundに参加するGORE-TEXなどと知り合うなど、シーンへ参加していく。そして、六本木のZEUSの店長であったHASSY THE WANTEDが開いた池袋のレコード・ショップで働き出し、よりヒップホップへの理解を深めていく。
「HASSYさんは俺の音楽の兄貴ですね。俺の中のヒップホップをより確かにしてくれたっていうか」。その流れで、HASSY THE WANTEDを中心に、B.D/DWEET/BAZOOによるグループ:THE BROBUSを結成し2004年に「GAME PLAN」、2006年に「MURDER BULLETS」をリリース。特に後者は、DABOを迎えた“UNCUT RAW”や、3MCのリリックが光る“IMAGINE”などハイクオリティかつバラエティに富んだ内容で、今なお傑作の呼び声が高い作品だ。「俺の根っこはTHE BROBUSにありますね。あのグループがなかったらTETRADもSEXORSISTも無いと思う」。しかし、「MURDER BULLETS」を最後にTHE BROBUSは活動休止、彼自身はソロMCとして活動を開始する。
「やっぱり、グループの停止は、状況的にも血反吐が出るぐらい辛かった。そこでの悔しさとか怒りとか、そういう『なんなんだよ!じゃあ一人でもやってやるよ!』っていう気持ちでソロに入ったんだけど、一方で、俺一人でも続けて、名前を上げていけば、グループのメンバーは戻ってこれるなって。それは、THE BROBUSだけじゃなくて、TETRADでもTHE SEXORCISTでもそう思ってますね。そういうトラウマが無かったら、ホントに何年かに一度リリースするぐらいのラッパーだったと思う」。
そして渋谷のセレクト・ショップ「GROW AROUND」で働きながらソロ「THE GENESIS」を制作し、ソロとしての新たな礎を立てる。同時に、BUDDHA BRANDのNIPPSと親交を深め、VIKN/SPERBと共にTETRAD THE GANG OF FOURを結成、アメリカ在住のトラックメイカーKEN SPORTが全面プロデュースしたアルバム「TETRAD THE GANG OF FOUR」をリリースし、ソロ/ユニットのどちらも大きな反響を呼ぶ。
「デミさん(NIPPS)はセカンド・ソロの「ILLSON」の中でも、スピリチュアル・アドバイザーって肩書きで招いてるんですけど(笑)、でも本当にそういう存在なんですよね。迷ったり悩んだりしてる時に、相談してないのにその答えをいきなり出してくれたり。人としてって部分で本当に尊敬してる。HASSYさんからは理論的な部分でのヒップホップを、デミさんからは感覚的なヒップホップを教わったんで、その二つを両輪にして、自分として動ければ完璧だなって思ってますね」。そして、NIPPSとB.D.が中心となり、東京アンダーグラウンドの雄が集結したユニット:THE SEXORCISTでのアルバム・リリースや、前述のセカンド・ソロ「ILLSON」をリリースするなど、活発な活動を見せている。
これまでのキャリアを振り返ると、彼は常に「東京」を形にしてきた。同時に、90年代の「さんピンCAMP」世代のヒップホップも、00年代の日本語ラップのバブルとその崩壊も、そして10年代のネットやセルフ・クリエイトが中心となった新世代のヒップホップも、全てを「東京」で目の当たりにしてきた。
「IKB(池袋)は俺のヒップホップを形作ってくれた街で、宇田川町はチャンスを与えてくれた街。IKBで綺麗な部分も汚い部分も嫌ってほど見て、人間としてのタフさを得ましたね。ラップもリリックも、それが自分の原点になってるし、ラヴもヘイトもどっちもありますね。渋谷/宇田川はそのベースを更に彩ってくれた街ですね。宇田川町的な流れを組んでいるラッパーといえば、見渡せば俺が最後の世代だと思うし、その池袋のカラー、宇田川のカラー、突き詰めれば『東京のカラー』を残していきたい。加えて、世代的にも、デミさん達の上の世代と、俺たちの世代、そしてもっと若い世代を真ん中で繋げたいんですよね。それも俺の役目だと思うんで。そういった『バランス』を一番大事にしていきたい。オーバー・グラウンドとアンダー・グラウンドを繋げるバランス、昔からヒップホップと今のヒップホップのバランス、世代間のバランス……そういった行動が出来る存在になりたい。その真ん中で俺自身は絶対に軸はブレないから、それが出来ると確信してますね」
[Text:高木”JET”晋一郎(ONBU)]