BIOGRAPHY
THE APEX THEORY / エイペックス・セオリー
THE APEX THEORY
アンディ・カチャトゥリアン.....ヴォーカル
アート・カラミアン.........ギター
デヴィッド・ハコピアン.......ベース
サミー・J・ワトソン........ドラムス
メンバーの多種多様でエスニックなバックグラウンドが顕著に表れていた。シンガーで作詞も担当するアンディが説明する。
「フルレングスのアルバムをリリースする前に、EPを出した方が賢明だと考えた。その方がいい形で自己紹介できるような気がしたし、僕らの音楽には、急がず、少しずつ確実に親しんでもらいたい。そうすることで、本物のファンがついてくれるように思うんだ」
多くの楽曲は、2001年のワープド・ツアーですでにオーディエンス相手に試されている。
「ワープド・ツアーは最高だったよ。基本的に僕らを見に来てるんじゃないオーディエンスの前で演奏するわけだけど、反応はとてもポジティヴで、とても暖かかった。正直、嬉しい驚きだったよ。特にフレスノとかデンヴァーとかモンタナとか、初めて行った場所での手応えはすごく良かった」(アンディ)
ワープド・ツアーは、バンド内の結束とバンド同士の絆を深めるにも最高の場だったという。
「まるでサマー・キャンプ! じゃなければ移動サーカス! 町から町へまるで人民大移動さ!」(アンディ)
そしてこのワープド・ツアーで、アンディは自分のヴォーカリストとしての可能性を再確認したという。
「ある時7連ちゃんというのがあったんだ。しかも、僕らの出番は早い時間。まじに、喉への負担は相当のものだった。けれどそれをやり遂げたことで自信がついたよ。7日間連続で歌って、しかもそれなりに安定感があって、オレは正しかったと思った!」(アンディ)
もう一つ、彼らが正しかったこと。それは1999年の結成以来、自らのルーツに敬意を払ってきたことだ。アンディ、アート、デイヴィッドの3人はアルメニア人である。サミーは違うが、彼は彼でエイペックス・セオリーの地中海風へヴィ・グルーヴを担っている。アルメニア人3人はLA育ち。サミーはワシントン州チマカムの出身である。
彼らは若い頃から、ヘヴィ・メタルにポップにジャズにクラシックにと、ジャンルの隔たりなく音楽を吸収してきた。しかし、いわゆる地中海風、中東風、東洋風と呼べる音楽の原点はそれぞれの家庭環境にあった。アンディの父親はギリシャ系アルメニア人で、ギリシャとアルメニア両方の音楽が常に家で流れていた。デイヴィッドの両親は、彼が幼稚園児の頃アルメニアからアメリカへ移住。昔結婚式や他の祝い事で聴いた音楽の不思議な変拍子が、今も強い影響を残しているそうだ。アートもアルメニア人だが、生まれはイラン。幼い頃アメリカに移民し、まさにマルチ・カルチャーな人生を送ってきた。
「小さい頃から様々な国の音楽を聴いて育ったことが僕たちの耳を肥やしたんだと思う。それをアルメニア語ではSLOOKHという。いわゆる”音楽的本能”ってやつ。僕ら特有のリズムや変拍子、マイナー・キーなど、不思議に思う向きもあるだろう。けれど僕らにとっては、とても親しみやすいんだ」(アンディ)
楽曲はすべて、エイペックス・セオリーというバンド単位でクレジットされている。メンバー一人一人が作曲面においてもアレンジ面においても大事な貢献者であることの表れだ。
「いつも一緒に曲を書いてるよ。時と場合によってその方法は違うけど、そうすることで新鮮味を忘れないようにしてる。スポンタネアスの美学だね」(アート)
エイペックス・セオリーの歴史は、アンディとデイヴィッドがジュニア・ハイ(中学)で出逢ったところに始まる。それは今から12年以上前の話しで、学校はハリウッドにあるアルメニア人学校だった。アンディはもともとアコーディオンとピアノを弾いていて、ある時からドラムスに転向。デイヴィッドはピアノからギターへ、その後ベースへと持ち替えた。その後ハイ・スクールに進むと、二人は同じバンドでプレイしたり、違うバンドでプレイしたりしながら経験を積む。そんな中、アンディとアートもバンド活動を通して知り合い、ただちに意気投合。そこにデイヴィッドも加わって、エイペックス・セオリーの原型が生まれる。それを機にアンディはドラムスを辞め、ヴォーカリストとして専念することを決断。さっそく後任のドラマー探しが始まった。ところが、彼らと同じ感性と目的意識を持ったドラマーはなかなか見つからない。フラストレーションはたまる一方だ。
「あるヤツなんか、さっそうとキットの後ろに座ったのはいいけれど、僕らが曲をジャムり始めると変拍子について来れなくて、約30秒で挫折した。そして”めんどくせえ”って言い残して出ていったよ!」(デイヴィッド)
いいかげん諦めそうになった頃、アンディが別のバンドでプレイするサミーを目撃。すぐにジャム・セッションへ誘った。サミーはサミーで実にヴァラエティに富んだバックグラウンドを持ち、技術力も高く、しかもいいヤツと来ていた。白羽の矢はまっすぐに彼に向かって飛んでいった。
「僕はもともとロックンロール好きだった。けど、ここ数年はほんとにいろんな音楽聴いてるし演奏してる。ジャズ、インド音楽、ラテン、レゲエ。これらのジャンルには、腕利きのドラマーがたくさんいるからね。僕は、ロックの世界にジャズのアプローチを持ち込んでいると思う。ポリリズムの使い方、ダイナミズム、変速ビート。確かに、他の3人が慣れ親しんできたリズムの中には、最初とっつけないものもあった。例えば、デイヴィッドが教えてくれたドラムンベースとかジャングルとか。でも、僕と彼らは違う国の生まれかもしれないけど、一度楽器を持ってしまったら、そんなこと、どうでもよくなっちまうんだ」(サミー)
1999年1月、エイペックス・セオリーは一般公開された。初めてのショウケース・ギグは伝統のトゥルバドールで行われ、その後彼らのライヴ・バンドとしての評判はうなぎ登り。ハリウッド中のクラブを満員にしては、各レコード会社からのスカウトを引きつけてやまなかった。しばらくして彼らはロキシーでのショウを収録し、自費でCDを制作してコンサート会場でファン向けに販売した。その反応があまりに良かったため、自信を深めた彼らは2000年に、ヴァン・ナイズにあるスタジオでEPのレコーディングに取りかかった。『extendemo』と名付けられたこのEPは、やはり自主ルートでリリースされた。
「レコード会社には全然送らなかったんだ。音楽業界ってヤツに興味がなかったし、とにかく僕らが心で感じた音楽を書き、演奏することが大事って思った」(デイヴィッド)
しかし、レコード会社からのアプローチはとどまるところを知らず、やがてドリームワークス・レコードのマイケル・ゴールドストーン氏から提示された素晴らしいオファーに、さすがの彼らも嫌とは言えなかった。2001年に入ると、LAのNRGスタジオにプロデューサーのドン・ギルモアと共に入り、デビュー・アルバム用のレコーディングに着手。アンディは、自分がもともとドラマーであったことが、作詞活動においてもプラスに作用していると言う。つまり、彼の歌詞はその意味もさることながら、言葉のリズムやインパクトが非常に重要なのだ。歌詞の多くは人間のアイデンティティについて歌っている。そのほとんどは意識の流れ的手法によって生まれてくるそうだ。従って、その解釈はリスナー次第で構わない。
それはバンド名にも言えること。”エイペックス・セオリー”の解釈は、多角的に見ることができる。
「エイペックス・セオリーという言葉は、自分たちが音楽を通して何を言いたいのか、何を達成したいかという話し合いの最中に出てきたんだ。僕は、僕ら4人が一緒にいる時こそ、前進してるって実感がある。そして高揚感も。それは音楽的にも精神的にも言えること。何事にもポジティヴでありたい。その表れがこのバンド名なんだと思う」(アンディ)
「僕らの間でも、バンド名について異なる解釈がある。僕にとっては、一種の権利の象徴かな」(アート)
「apexとは何かの”頂点”。けれど何が大事かって、そこに行き着くまでの過程なんだ。今、僕らはまさにその旅の途中にある。もし魂をかけることが出来たなら、必ずそこに到達できると僕は信じてる。それがすべての基本であり、APEX
THEORY(頂点の理論)なんだよ」(デイヴィッド)