BIOGRAPHY

50CENT


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1976年、NY市クイーンズ区はジャマイカ生まれ。本名カーティス・ジャクソン。
父親不在という環境で生を受け、また母親も彼が十代になる前に、変死体で発見されるという強烈な幼少期をあの悪名高いニューヨーク・アベニューで祖父母とともに過ごした。”自然の流れ”で少年時代よりハスラーとして”あらゆる悪事”を経験、財産と長期に亘る犯罪記録を積み重ねながら、50は、その名をはせるようになった(50セントという名前はブルックリンの伝説的ドラッグ・ディーラーの名前から頂戴したもの)。
しかし彼の息子の誕生が、ハスラーだけでない広い視野から物事を見る好転機となり、50セントはラップを真剣に追求し始める。その才能に光を見たいまやヒップホップの伝説となったグループ=ランDMCのDJ、故ジャム・マスター・ジェイが彼のレーベル、JMJと契約を申し出る。JMJは、若かった50に小節の数え方から、曲作りまで音楽の「いろは」を教え込んだ。しかし、まもなく本格デビューの準備が整ったところで当時業界の波に巻き込まれていたJMJ は50セントを残念ながら放出してしまう。しかしスグに、やはり当時プラチナム・ヒットを連発していたプロデュース・チーム=トラックマスターズが拾い上げ、コロンビア・レコーズと契約。1999年のことだった。彼らは50セントをニューヨーク州北部へと送り、スタジオに2週間半缶詰にし、曲つくりに没頭させた。この短期間で書き上げた36曲は、インディー盤『Power Of A Dollor』に収められた。ここに収録され、もはやキッズ・アンセムともなっている「ハウ・トゥ・ロブ」は、有名ラッパーの座を略奪することを夢見る、ハングリー精神溢れる新進気鋭な男=彼自身を冗談めいて描いた曲だった。しかしそれを”笑い”として捉えていたのは50セント自身とファンだけであった。その歌詞に名を連ねたジェイ・Z、ビッグ・パン、スティッキー・フィンガーズ、そしてゴーストフェイス・キラーらヒップホップ・スターが、このストリート・ラッパーの”冗談”を真に受け、反応した。当時、50セントは、「別に個人的な内容じゃないんだ。真実に基づいたコメディーだったから、面白い内容になっただけさ」とコメント、そのデビュー前にして器の大きさをプレゼンしていた。
2000年4月、50セントにとって忘れたくても忘れられない月となった。この月、50セントは9回撃たれたのだ(クイーンズにある祖母の家の正面で、 9mm弾を顔に撃たれたこともあった)。そしてこの余りにも壮絶な50セントの環境に危険を感じたコロンビア・レコーズは、彼の契約を解除する。しかし 50セントは、収入や保証がない間も友人にしてビジネス・パートナーでもあるシャ・マニー・XLと共に、積極的に曲を書き続けた。そして2人は話題を作るために完璧なミックス・テープ用に30曲以上を録音、徐々に高まる50セントのストリート評価とともに、2001年春の終わりには、アルバム『Guess Who’s Back?』を自主制作でリリースした。それによりストリートからの信頼を得始めた50セントは、自身のクルー=G-ユニットを結成することによって更にヴァリエーション豊かな曲を提供し続けた。しかし以前のようにただ新しい曲を作るのではなく、あえて50セントは既に使用されたファースト・クラスのビーツに手を加えることによって、ヒット作を生み出す能力を見せつけることにした。
その方法論を身に着けた50セントは、『50 Cent Is The Future』をリリース。そのエネルギッシュなアルバムは、半自伝的主演映画『8マイル』を撮影中だったエミネムの耳に届き、エミネムは、ラジオなどでの取材の度に”50セントは俺の今一番気になるラッパーだ”と発言したのである。
この若き暴れ馬に対するエミネムの確信に満ちた信念を理解したドクター・ドレーは、すぐに共同契約に向かう。この偉大なるヒップホップ・ドリームチームからのオファーに、50セントは、もちろん感謝の気持ちと共に、即契約した。そしてこれを境に50セントは、ここ数年で最もスリリング、スキャンダラス、そして危険な新人ラッパーとなったのだ。それはザ・ノトーリアス・B.I.G.の曲ばかりがラジオで流れていた、94年の夏以降にみるヒップホップ界の盛り上がりともなった。
50セントはメジャーの契約を勝ち取った一方で、2枚目となる”借り物ビーツ”のブートレグ盤『No Mercy, No Fear』を素早くリリース。このアルバムには、明らかにラジオ向きと思われていなかった新曲「ワンクスタ」が収録されていたのだが、その下馬評に反してストリートからはシングル盤を待ちきれない声が高まり、「ワンクスタ」は数週間で、ニューヨークで最もリクエストされる曲となった。そしてその曲は、エミネム主演映画『8マイル』のマルチ・プラチナムに輝くサウンドトラックに収録の運びとなった。こうして既にストリート・レベルでは数々のヒット作を飛ばしてきた50セントは2003年、既にメジャー・ステージでも勝ち抜けるアーティストになる体勢を完璧に整えた。メジャー・デビュー・アルバム『ゲット・リッチ・オア・ダイ・トライン』には、2001年の春から制作が進められていた10曲以上のトラックの他にも、エミネムとヒップホップ・ジャイアンツ・プロデューサー、ドクター・ドレーの制作でレコーディングされたトラックが追加された。「”クリエイティヴ”っていうことに関して、これ以上俺に何を望めって言うんだ?」と50は冗談交じりに言う。「もし俺とエミネムが同じ部屋にいたとしたら、もっとフレンドリーな競争になるんだ。どちらも相手を倒したくてしょうがない。でもドクター・ドレーだとしたら??? 聞かなくても分かるだろ(笑)」
こうしてヒップホップ史上、マスターピースの一作品として孤高の輝きを放つ50セントのデビュー・アルバム『ゲット・リッチ・オア・ダイ』は、2003年2月ドロップされた。
リリース第1週で87.2万枚を売上げ(この数字は新人では歴代1位)、堂々の1位で初登場したこのアルバムは、この年最も売れたアルバムとして名実共に輝かしい記録を打ち立てた(集計時は630万強のセールス)。そして「ワンクスタ」に続くシングル「イン・ダ・クラブ」は、この時期9週連続全米チャート No.1を独走した。
このリリースとともに、50セントはヒップホップそのものの代名詞と言っても過言ではないほど、輝かしい記録、ゴシップ、ビーフ、名声、スキャンダラスなどなどトピックスというトピックスをメディア、世の中に振りまいていくことになる。
3月からスタートした全米初のヘッドライナー・ツアーは、各地で即完、大絶賛を浴びるも同時にツアー先各地で、ヤッカミという”有名税”による脅迫状が送りつけられ、自身をはじめクルー、そして息子までもが防弾チョッキ着用が余儀なくされることがセンセーショナルにメディアで伝えられた。当時50セントは『Rolling Stone』誌にこう語っている。「そのへんでドラッグ売ってるような黒人は俺のラップすることが気に入らないのさ」。ヘッドライナー・ツアーに続けて夏にはジェイ・Z主催のツアー=「ロック・ザ・マイク」ツアーに参加、ほかのライン・ナップにはスヌープ・ドッグ、バスタ・ライムス、ミッシー・エリオットなどが名を連ねるも、メディアからの注目は何といっても50セントであった。そしてそのまま50はファミリーの兄貴=エミネムのツアーに参加、初めて日本、ヨーロッパの地を踏んだ。ツアーには自らのユニット=G-ユニット(=ゲリラ/ゴリラ・ユニット)を同行させ今後のリリースを予告するというマーケティング的戦略も実行、予告どおり、10月にはトニー・イエイヨー、ロイド・バンクス、ヤング・バックといったツワモノを率いてのG-ユニットのデビュー・アルバム『ベッグ・フォー・マーシー』をリリース、堂々の1位を獲得。リリース後、G-ユニットとして来日公演を迎えるはずだったが、急遽来日は中止、その理由は明らかにされなかったものの”危険な匂い”だけを強烈に記憶に残した。2004年に入ると50セントはビジネス・サイドでも才覚を発揮、G-ユニットからのソロ作品リリース攻勢を仕掛け、ロイド・バンクス、ヤング・バックと着実なヒットをモノにする。またリーボックとはスニーカー、マーク・エコーとはファッション/アパレル界でG-ユニット・クロージング・ブランドを立ち上げ、キッズの憧れのブランドとして成功を収めた。また50セントの作品/活動に対して数々のアウォードを当然のように手中にしながらも、5部門にノミネートされたが無冠に終わったグラミーにおいて最も有力とみられていた新人賞をエヴァネッセンスに持っていかれると彼らの受賞スピーチ中に乱入、「俺がアグレッシヴだからだろ。(エヴァネッセンスが)新人賞だなんて納得いかない」と不満をブチまけ大きな話題を呼んだ。またロンドンではチャーリー皇太子主催のチャリティー・コンサートに出演、映画『キル・ビル』出演の女優との熱愛報道、同性愛者団体が50セントを授賞式へ招待、ボストンでのライヴでは大乱闘が勃発、毎年恒例の人気ヒップホップ・ラジオ局主催のコンサート” ホット97サマー・ジャム”でR・ケリーをコケ落とす問題ステージを展開、イギリスでの最大規模ロック・フェスティヴァル=レディング/リーズでブーイングを浴び途中退場、年末12月上旬、アフリカはナイジェリア・ツアーに出演のためかの地に赴いた際、その搭乗機に乗り合わせた地元のラッパーとケンカとなりツアーを中止するナドナド、と常に話題を振りまき続けた。2005年に入るとスグに御大ドクター・ドレーとほぼ同じ背景を持つとしてドレーに紹介、50同様、衝撃の全米1位デビューを飾った新人ラッパー=ザ・ゲームを世に送り出した。そのザ・ゲームの爆発的な成功を見届けた後、不気味なタイトルを冠した 2年ぶりの自身のアルバム『ザ・マッサカー~殺戮の日。』を完成。リリース直後からなんとそのザ・ゲームとの確執がエスカレート、そのビーフは記者会見にて喧嘩両成敗的収拾に向かうも現在もくすぶりをみせ、ヒップホップの複雑かつシンプルな世界を露呈しながらも今現在も大きな話題となり続けている。このアルバムからは次々とドロップされた「キャンディ・ショップ」、「ジャスト・ア・リトル・ビット」をはじめとする楽曲郡はいづれも大ヒットを記録した。 2005年6月、カナダにて50セント自身の半生を描く映画『ゲット・リッチ・オア・ダイ・トライン』がクランク・イン、約2ヶ月かけての撮影を終了、エディット作業に突入する。またこの期間に映画撮影現場に乗りつけたスタジオ・バスで映画以上に真実を曝け出したというサントラを平行制作。8月からは、エミネム・ファミリーの総決算的ツアー=アンガー・マネージメント・ツアー3に参加、各地で発売日秒殺級のソールド・アウトとなったこのジャイアント・ツアーのチケットはネット上で高額な取引がされニュースでも連日取り上げられた。そんなミュージック・シーンを超えた注目を集めたツアーも、そのエミネムの体調不良が原因であえなく途中中止。しかしながら50セントはファンのためにG-ユニットととしてのツアーを敢行、”ストリート”から離れない目線を再び誇示した。また8月には『ザ・マッサカー~殺戮の日。』の収録曲全曲のPVが収録されたボーナスDVD付きのリパッケージをリリース、全米で50万枚の出荷がされた。続いてG-ユニット全員がキャラクターとして登場するギャングスタ・シューティング・ゲーム『ブレットプルーフ』、MTV出版により自伝本『フロム・ピーシズ・トゥ・ウェイト』の発売と立て続けに音楽以外のリリースを経て、迎えた11月9日。50セントの実態に迫るハリウッド・メジャー映画作品『ゲット・リッチ・オア・ダイ・トライン』がいよいよ全米で公開(2006年5月日本公開。全世界で興行成績$46,442,528)、そのサウンドトラックも併せてリリースされた。
2006年に入ると映画『ゲット・リッチ・オア・ダイ・トライン』の出演を受け、映画のオファーが殺到、サミュエル・L.ジャクソン主演の『ホーム・オブ・ザ・ブレイヴ』(LA/NYにて06年12月公開。全米は初夏。50セントの役はイラク戦争からの帰還兵)、ニコラス・ケイジが刑務所でのボクシング・トレーナー役を務め、そこでボクサーとして目覚めていく受刑者を50セントが演じる『The Dance』(07年公開予定)、違法の博打ストリート・カーレースを行うニューヨークのクラブを舞台にした『Live Bet』(公開未定)、50セントの出演を知って主演を受けたロバート・デ・ニーロ主演のスリラー映画『New Orleans』(旧題Microwave、07年公開予定。50セントは刑事を演じる)などなどである。そして3月頃のインタヴューではその湧き出てくる制作欲を抑えきれず6月18日にニュー・アルバムをリリースすると発表するもエミネムからの”時期尚早”という意見を受け、延期を決意する。そして迎えた4月11日、エミネムの精神的支柱でもあり、D12のメンバーでもあるプルーフが射殺されてしまうという、シェイディ・ファミリーでもある50セントにとっても驚愕の事件が起こってしまう。4月19日に行われたその葬儀にも50セントは、哀悼と敬意をもって参列。その悲しみを越えるべくD12は早々に新作制作を発表、その作品に50セントも参加することを表明した。この時期から50は今一度自身のレーベル=G-ユニットのドンという立場/プロデューサーとしての活動が目立つようになり、シェイディ・ファミリーのオービー・トライス、G-ユニットのロイド・バンクス、ヤング・バックのアルバムにゲスト参加、またあのヒップホップ・ジャイアントとして君臨するLLクールJのアルバムのエグゼクティヴ・プロデューサーも受けることも発表した。また絶えることのないビーフ(ザ・ゲーム、キャムロンなどと)という戦場での兵器というべくアンダーグランドでのミックスCDのリリースも攻撃的に継続していった。そして10月、シェイディ・ファミリーの底意地と実力をみせるべくシーンにエミネムが投下したオフィシャル・ミックスCD『ザ・リアップ』に50は参加、スリリングかつ重厚なラップをエミネムとともに「ユー・ドント・ノウ」をレコーディングした。そしてこの『ザ・リアップ』がリリースされた12月、50セントは新作のタイトルが『BEFORE I SELF DESTRUCT~自我崩壊の日。』と発表。2007年に突入するとこのアルバムは、「全てがあの瞬間から変わり始めた」と自身がいうデビュー・アルバム『ゲット・リッチ・オア・ダイ・トライン』をリリースするまでの自分を描いた “告白のアルバム”ということも明らかにした。しかしながら4月には新作のタイトルは『カーティス』(当初は『カーティス:SSK』)と変更、『BEFORE I SELF DESTRUCT~自我崩壊の日。』はその先にある、ファースト・アルバム『ゲット・リッチ・オア・ダイ・トライン』のリリースを記念する第4作目のタイトルであると50が公表、『カーティス』はそのアルバムのプロモーション・ツールでもあるともコメントした。と同時にそのアルバムからのストリート・シングル「ストレイト・トゥ・ザ・バンク」がリークされ、またたくまに「フリー・ローディド・クリップ」、「アミューズメント・パーク」というトラックを次々にマーケットに投下、そして追撃ストリート・トラック「アイ・ゲット・マネー」、ジャスティン・ティンバーレイクをフィーチャリングした本命クロスオーヴァー・シングル「エイヨー・テクノロジー」が猛威を振るいながらチャートを急上昇開始している。ストリートとメディアを器用に使い分けるという50の術中にシーンは翻弄され沸騰、大きなバズが置き始めている。その圧倒的な制作欲と攻撃的かつ戦略的なマーケティング力を併せ持つ”50セントという物語”が再び読み解かれ始めた。カーティスが50セントになるまでの過去を吐露するという、この告白のアルバム『カーティス』、果たしてその先には予告された”自我崩壊”が待っているのか・・・。




1975年7月6日: NY、クイーンズ、ジャメイカ地区に生まれ、カーティス・ジェイムス・ジャクソンと命名される。
1983年: 8歳の時、クラックの売人だった母親が何者かに殺害される。
1987年: 12歳でストリートでクラックを売り始める。
1994年6月29日: NYPD(ニューヨーク市警)の囮捜査官にコカインを売ったとして逮捕される。
1994年7月19日: 家宅捜査で、ヘロイン、クラック等が見つかり、逮捕。青少年向けの”ショック的収容”ブート・キャンプで7ヶ月を過ごす。
1997年: 息子誕生、マーキーズと命名。ランDMCのジャム・マスター・ジェイ(2002年何者かにより殺害される)のJMJレコードと契約。
1999年: コロンビア・レコードと契約。プロモ・シングル”ハウ・トゥ・ロブ”が話題に。
2000年4月: クイーンズにある祖母宅前で何者かに9発の銃弾を撃ち込まれる。
2001年1月: 保護観察期間終了。コロンビア・レコードから一方的に契約を切られる。
2002年: エミネムのレーベル、シェイディ・レコードと100万ドルで契約。デビュー・シングル”ワンクスタ”発表。
2003年2月: メジャー・デビュー・アルバム『ゲット・リッチ・オア・ダイ・トライン』発表。発売から1週間で87.2万枚を売上げ(この数字は新人では歴代1位)、ビルボードのアルバム・チャートで6週連続1位。
2003年3月: シングル「イン・ダ・クラブ」がビルボード・シングル・チャートで9週連続1位。ラジオの歴史において一週間で”最も多く聴かれた”曲となった。
2003年5月: エミネムと共に来日公演を果たす。DVD『ザ・ニュー・ブリード』発表。
2003年11月: インタースコープ傘下に立ち上げたGユニット・レコードから、50セント率いるグループ、Gユニットのデビュー・アルバム『ベッグ・フォー・マーシー』発表。
2005年3月: 2枚目のアルバム『ザ・マッサカー~殺戮の日。』発表。発売からわずか5日間で110万枚以上を売り上げる。同アルバムからビルボードのトップ10に4曲ランク・イン。1964年のビートルズ以来の快挙。
2005年8月: 自叙伝「From Pieces to Weight: Once Upon a Time in Southside Queens(邦訳タイトル ゲット・リッチ・オア・ダイ・トライン)」発表。 
2005年11月: 映画『ゲット・リッチ・オア・ダイ・トライン』全米公開、同名のサントラ盤発表。
2006年12月: 劇映画としては2本目の出演作となる『Home of the Brave』NYとLAで公開
2007年6月: 3枚目のアルバム『カーティス』発表。
2007年: 映画『The Dance』(ニコラス・ケイジ共演)、映画『Live Bet』出演(予定)
(製作:小林雅明)